第13話 薄れさせたくない想い出

 今日は暖かくなる、と朝の配信で彼が言っていた。


「ねえお母さん。ラムール、行こうよ。今日はきっとお散歩日和だよ!」私は母親を誘ってみる。

「そうね、母さんもたまには歩かないと。ひかりちゃんの最近の行動力は大したものね」母親もなんだか嬉しそうだ。

「じゃあ、おひるごはんはサンドイッチで軽めに済ませて、アップルパイ、食べよ!」食事のリクエストを母親にしたのは久しぶりで、子どもの頃にカレーライスを作ってもらったことを思い出す。

「サンドイッチね、わかったわ。すぐに作るから、待ってて。コーヒーでいい?」


 コーヒー。私は、どうしてもラムールのコーヒーの想い出を薄れさせたくなかったので、少しだけワガママを言うことにした。


「紅茶の方がいい、かな……?」

「そ、じゃあ紅茶にしましょ。ま、母さんの淹れたコーヒーじゃ、ラムールにはかなわないものね」


 味の違いとはまた別問題なのだが、そこは母親の勘違いに感謝しておくことにする。


 ***


 サンドイッチを食べ終えた私は、2年前まで毎日使っていたパソコンの電源を入れる。当然ながら、盲人用のツールがたくさん入っている。


――これすら使わなくなったことを心配した母親が買ってくれたスマートフォンで、いろいろなことがあったな。そう考えながら、少しいじろうとしてみたが、もうすっかり忘れていた。


 20歳になってから支給され始めた、さして使い途のなかった障害者年金を預金してあったので、近々パソコンを買い換えよう、と私は思った。


 ***


「ねえお母さん、歩くの速くない?」

「ひかりちゃんが子どもの頃はもっと速く歩いていたわよ」


 白杖に頼らずに、母親に頼って歩くのは何年ぶりだろうか。少し汗ばむほどの気温の中を早足で歩いて、ラムールへと辿り着いた。


 とん、とん、と階段を2段。開く自動ドア。煎りたてのコーヒーの薫り。マスターの声。


「やあ、よく来たね。本当にお母さんと来てくれたんだ? もうすぐ自慢のアップルパイが焼き上がるところだけど、どうする?」

「あ、じゃあ、コーヒーとアップルパイ、二人分お願いします!」


 母親がいる前で”この前と同じ”コーヒー、とは言えなかったが、きっとわかってくれるだろう、と私は思っていた。と――


「ひかりちゃん……っと失礼、ひかりさんのコーヒーは、この前のと同じ?」


 私は戸惑いうなずきながら、頬が熱くなるのを感じていた。


「ひかりさんのお母様。本日のブレンドでよろしいでしょうか?」

「ええ、それでお願いします」

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