第6話 雨上がりの虹
少し古いポップスが邪魔にならない程度の音量で流れている。
「おや、珍しく女連れかい? 可愛いコじゃないか。彼女?」
喫茶店のマスターが、グラスをふたつ置く音をさせながら言った。
店内の音を聴く限り、このお店にはどうやらマスターしかおらず、とすると甘い香りもこの渋い声のマスターが焼いているお菓子のようだ。なんだか私は急におかしくなってしまって、ふふっと声を漏らした。さっきまで泣いていたのに。
マスターと話しているのを聞くと、白杖を掲げていた私をここに連れてきてくれたひとの名前は、どうやらアミタニさんというらしかった。漢字でどう書くのだろう。下の名前は何だろう。だが、初対面の親切な男性にそんなことを尋ねる勇気は、私にはなかった。
マスターが貸してくれたタオルでびしょ濡れの服を拭きながら、ニット帽を脱ぐ。と、アミタニさんが言った。
「帰りの傘買ってくるから、少し待ってて」
「あっ……お金はお支払いしますから、レシートを持ってきていただけますか?」
「いいよ、君に似合いそうな傘、プレゼントさせてもらえるかな?」
「いえそんな、ビニール傘で結構ですから」
「いいから、プレゼントさせてよ」
「えっ……じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」これ以上断るのは、失礼、なのかな……?
***
アミタニさんがいない間、マスターに根掘り葉掘り訊かれるかと思ったが、マスターは食器を拭き上げている音だけをさせながら、私に構ってくることはなかった。――盲人の扱いに慣れていないのだろうか、と思ったが、あれこれ訊かれるよりはありがたい。
コーヒーを飲み終える頃、自動ドアの開く音が聞こえ、アミタニさんが戻ってきた。
「待たせたね。似合う傘と帽子を買いたくて、ちょっと遠くまで行ってきちゃったよ」
――帽子?
「ニット帽、ずぶ濡れだったしさ。キミにはもっと明るい色が似合うと思って、明るい色のニット帽。それと、花柄の傘。花柄、買うのは少し恥ずかしかったな」
どうしてそこまでしてくれるのか、本当にわからない。でも、嬉しいのは事実だ。
***
「もう大丈夫かな? 僕、行かないといけないところがあるから、そろそろ出ようか」アミタニさんは言った。
「あ、アミタニさん、本当に今日はありがとうございます。私、名乗るの忘れてました、ひかりって言います。先天性の全盲なので、この名前、嫌いなんですけどね」勇気を出して名乗った。
「可愛い名前だね。じゃあ、盲学校のところまで送ればいいかな?」
「はい。でも、ここはごちそうさせてください!」
***
支払いを済ませて店を出て、花柄の傘をさして歩く。と、どうやら雨がやんだようだった。
「お、虹だ」彼は言った。
「虹?」そんなもの、見たことがない。
「……あ、ごめん、気遣いのない言葉だったね」
「いえ、違いますよ。私を”盲人”ではなく、”人間”として扱ってくださっている証拠だと思いますよ」
「無理に褒めなくていいよ。ごめんね、傷付けちゃったよね」
「そんなことありませんよ!
お願いがあるんです、私のスマートフォンで、虹の写真を撮ってくれませんか?」
「お安い御用だよ」
***
家に帰り着いた私は、母親に帽子の色をコスモス色だと教えてもらった。
それから部屋に戻って、一体”虹”というものがどんなものなのか、いろいろなツールを使っていつまでもいつまでも見ていた。
「お母さん。この虹、待ち受け画面にしてもらえない?」
――私の心に架かった、虹。
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