紫陽花が咲く頃に
ホタテ
1話
紫陽花堂。
それは、大手文具メーカー、株式会社ハイドランジアが運営している文具店の名である。
この日本全国に出店しており、都市部ではいくつも店舗が存在していたりもする。
デジタル化が進んでいる昨今、それに逆らうようにこの国では文房具ブームが起きていた。
紫陽花堂 学園前店。
俺はその店の前に立っていた。
――今日からここが、俺の新しい仕事場だ。
「お前、何でこの会社に入ったの? 仕事してて楽しい?」
失敗した俺にかけられた、同僚の言葉――。
あの日からずっと頭に残っている。
「あの、こんにちは」
店内に入ると、客は全くいなかった。
時刻は午前十一時二十三分。
確かに微妙な時間帯だ。
俺は、奥のレジカウンターにいる、女性に声をかけた。
「いらっしゃいませ。何かお困りですか?」
ニコリと彼女は微笑む。
今時いらっしゃいませ以外のことを言う店員がいるんだな。
「あ、いえ……。俺は客じゃなくて、本社からやって来た者で……」
「ああ! 店長から聞いています。さぁ、どうぞ」
彼女は俺をバックヤードに通してくれた。
事務所のような場所へ案内され、俺は扉をノックした。
「はい」と返事があったので、開けると、煙草の臭いがむわっと外に流れ出てきた。
「あー……君が本社から来た子?」
咳き込む俺を見て、だるそうに言ったのは、だらしのない男だった。
くたびれた紫陽花堂のエプロンをし、髪はボサボサ、髭もちゃんと剃ってない……
三十代半ばくらいの男だ。
このときの俺のやる気は半分以下になっていた。
「……よろしくお願いします。
同じ会社の人間に渡すのもどうかと思うが、一応名刺を渡した。
「ここの店長をやっている。
……これが店長か。
「沖君、年いくつ?」
「……二十八です」
「ふーん、若いね」
何が言いたいんだ。
若いから何だ。
絶対にこの人も俺の評判を聞いているに決まっている。
だから年を聞いてきたのだろう。
「ま、色々説明したいことはあるけど、先に紹介だけしとくよ。さっき女の子に会っただろう?」
「あ……はい」
「あの子、うちの店のキーマンだから」
そう言って、店長は立ち上がり、店の方へと再び俺を連れて行った。
「アルバイトの
「初めまして! 明日見です。よろしくお願いします」
あの感じのいい女性が頭を下げた。
アルバイトだったのか。
「こちらこそ。今日からお世話になります……沖です」
俺もつられて頭を下げた。
「明日見さん、早速沖君に仕事教えてあげて。もうじき昼だ。学生どもがやって来る」
「わかりました!」
学園前店というだけあって、周囲に学校が多い。
明日見さん曰く、昼は大学生たちが文具の買い足しにやって来ることが多いそうだ。
「沖さん、レジ打ちなどはしたことありますか?」
「ええっと……大学のとき、コンビニでバイトをしていました」
「だったら何となく要領は得ていますね! レジ打ちから覚えてしまいましょう!」
エプロンを渡され、俺はレジ打ちを教えてもらうことになった。
――本社勤務だったはずの俺は一体、何をやっているんだろう。
そう、思わずにはいられなかった。
その後も商品棚の位置を教えてもらったりしたが、時間の問題だ。きっとすぐに覚えられるだろう。
紫陽花堂は一般的な文具店という体なので自社製品以外も取り扱いがある。
自社製品に関しては、営業をしていたので問題ない。
他社製品も名前は大体わかるが、機能性や自社の物との違いを覚えなくてはならない。
……これもきっと、時間が解決してくれるだろう。
「大丈夫ですか? わからなかったら気にせず言ってくださいね」
明日見さんが気を遣ってくれる。
「ありがとうございます。明日見さんの教え方、とてもわかりやすいので大丈夫ですよ」
「本当ですか。嬉しいです」
お世辞と思われたのか、サラッと流された。
まぁ、いい。
「沖さんは本社からいらっしゃったんですよね。本社では何をされていたんですか」
「営業です」
「営業さん! じゃあきっと、私なんかより詳しいですね」
俺は何も言わずに、笑って誤魔化した。
「沖さんはどんな文房具がお好きですか」
どんな文房具??
何だ、それは。
好きな食べ物は何ですか、趣味は何ですかとかだったらわかるけど、合コンでもそんなこと聞かれたことないぞ。
「えっと……それはどういう……?」
「すみません! わかりづらかったですね。私だったらペンにすごくこだわりを持っているんですけど、沖さんはそういうのありますか?」
「はぁ」
説明されてもあまりピンとこなかった。
「ペンは……別に……」
持ちやすい、持ちにくいとかを言っているのか?
……どれも同じじゃあないのか?
「そうですか……じゃあノートは?」
「ノート? うーん……」
メモ帳はたまに使うが、ノートなんて大学卒業以来使っていない。
「スケジュール帳はお持ちですか?」
「100均で買ったものなら一応……でもほとんどアプリでスケジュールは管理していますね」
スマートフォンが普及しているこのご時世、便利なアプリが次々と登場しており、俺としてはアナログよりこっちのほうが早くていいと思っている。
ただ何となく社会人として持っておいたほうがいいかな、でも金はかけたくないなと思って買ったのが、100均のスケジュール帳だ。
「……沖さんは文房具についてどう思われますか?」
「うーん。無かったら困るけど、別に100均でもいいかな」
「ハイドランジアへはどういう思いで入社を?」
「大手受かった。ラッキー。まぁ何とかなるでしょ」
本音をついぶちまけてしまった。
それまで笑顔だった明日見さんが、無の表情になっている。
しまった。
俺はハッと、同僚のあの言葉を思い出してしまった。
あいつはあのとき、口には出さなかったが「やる気ないなら辞めれば?」とでも言いたげだった。
目がそう言っていた。
また。
また、同じことを言われるのでは――
「――わかりました」
俺が内心ビクビクしていると、彼女はこれまでとは違った、とても楽しそうな。いや、違う。
これは、わくわくした表情だ。
「私が沖さんに、文房具の魅力をたっぷりと伝授していきますね!」
これが、俺が文房具と真剣に向き合うきっかけとなった瞬間だった。
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