13話 桜井 由美
くわえ煙草のまま鍵を開錠して、玄関の扉をあけた。
由美はこの玄関の扉を開けた時のギィという音が大嫌いだ。
築年数もかなり経っているから、建付けが悪いらしい。
お世辞にもいい家とは言えないが、職場から近い事とリビングの広さだけは気に入っている。部屋の明かりをつけ、冷蔵庫に入っている最後の一本になったビールに手を伸ばした。由美は今の職場で看護師として勤めて五年になる。
もう五年経ったのか。と、ため息をつきたくなる。
昔からの友人たちは皆結婚して、出産を経験し母親をやっている。
そんな友人達と会っても由美だけは共通の話題がない。
30歳を目前にして、由美は完全に行き遅れてしまった。
新しい煙草に火をつけて、煙を見ながらどこで間違えたんだろう。と考えた。
由美はこの病院に入ってすぐに、病院内の医者と不倫関係になった。
「妻とは上手くいっていない、俺には由美しかいないんだ。」
そんなオレオレ詐欺の「オレオレ」の部分の様に、使い古されて擦り切れてしまった言葉を信じて何年も無駄にしてしまった。いや、その前の職場でもそうだった。
詰まる所、由美には男運がないのだ。自分でもそれを痛感していた。
女性が楽しい時間を過ごすであろう20代を、全てクズに捧げてしまったのだから。だから、今でもこんな家で一人で生活しているのだ。
そんな事を考えていると、飲んでいたビールが空になった。
この一本で終わりにしようかとも思ったが、どうしてもお風呂上がりのビールが諦めきれず、後で近くのコンビニに買いに行く事にした。
由美は先ほど脱ぎ捨てたコートを羽織り、また玄関の嫌な音を耳にして家を出た。
外はすっかり寒くなっている。着込んではいるものの、それでも空気はひんやりと冷たい。はぁー。と白い息を空に向かって吐いて遊んでいると、後ろから走ってくる足音が聞こえて、驚き、後ろを振り返ろうとするとドンッと体にぶつかられ転んでしまった。
「いったー。」転んでから、手に持っていた財布がない事に気付く。
ひったくりだ、そう思ったがもう目の前から随分先まで走って行ってしまっている。本当についていない。そう思って諦めかけた時、少し先でひったくり犯が捕らえられた。
「え?え?」状況が呑み込めずその場にへたり込んでいると、ひったくり犯と捕えてくれた人がこちらに近付いてきた。
「目の前でひったくりが起きたんで、びっくりしました。何とか捕まえれて良かった。今、警察に通報したんで、すぐに来ますよ。」そう言って捕まえてくれた男性は笑った。
「あ、ありがとう。あの、私、、、ビールを、、その、、、買いに来てました。」由美はひったくられた状況と、すぐ目の前で犯人が捕まった状況と、捕まえてくれた男性の容姿があまりにも綺麗だという事が、一度に起きて訳の分からない事を口走った。
警察が来るまでの間、ほんの10分程であったが彼の事を色々と聞いてしまった。
彼は大野巧というらしい。この近くの大学で、空手部の部長だそうだ。
道理でひったくり犯を捕まえる事が出来た訳だ。と納得してしまった。
巧は随分年下ではあったが、由美は彼に一目惚れをしてしまった。
帰り際に「お礼がしたいから連絡先を交換しませんか」そう言うと彼は笑顔で了承してくれた。
それから、短い期間で何度も何度も巧とデートを重ねて由美は益々、巧に夢中になった。
彼は本当にやさしく、今まで出会ったどの男性とも違う。
由美がして欲しい事が何なのか巧は分かっているかの様に、
絶妙なタイミングで、欲しい言葉、欲しい態度を示してくれた。
由美は自分の男運の無さは、巧に出会うまでの溜めの期間だったのだと納得した。
あれほど億劫で退屈な毎日が嘘のようだ。
白黒の映像に色が足されていくような、そんな高揚感があった。
仕事から帰宅し、由美がリビングで煙草を燻らせていると、玄関のドアの鍵が開いた。
ギィとドアが開くと巧が顔を見せた。「こんばんは。」
巧に合いカギを渡しているので、こうして会いに来てくれる。
由美は、この玄関の扉を開けた時のギィという音が大好きになった。
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