イチョウの木
「カミル、すまなかったな。もしかしたらと思っていたが...王立学園の入学式には顔を出せそうにない。」
ヴィクトル・フォン・ラッセン男爵は執務室で領主館の中庭をあてもなく眺めながら、そう呟いた。
「父上、大丈夫です。それだけ今この国に危機が訪れようとしている、このような時にラッセン男爵家が王家へ知恵を貸すのは我々貴族として当然の行いです」
ラッセン男爵家が長子、カミル・フォン・ラッセンは2m近い父の背中を見つめながら、そう応えた。
エスタライヒ王国では貴族・士族子女が15歳を迎える年、王立シャルル学園へ2年間通うことが義務付けられている。入学までは各家庭が各々に家庭教育を施して基礎を学び、希望があれば国営の塾へ通うこともできる。入学して半年間がその基礎教育から発展した応用教育、残り1年半のほとんどを研究活動へ使い、卒業後は貴族として領地経営、官僚職、士爵家などの士族は貴族の領地で騎士団、または王家の近衛騎士団などへ入る。
この国の成人は15歳からで、王立学園に入るというのは子が無事に学園へ入るまで成長できた、成人を祝う意味合いも大きい。そのため、貴族は王立学園の入学式に両親が参列し、両親がいない場合でも親族や育ての親が参列するのが一般的だ。参列する者がいないという状態はすなわち、貴族家に難ありという見られ方をする場合もある。
そのため、ラッセン男爵は此度の呼び出し―― 王家からの勅書による国王主催の緊急招集を受け、この愛息子に深い愛情とともに謝ったのだ。
「父上、私は大丈夫です。ラッセン男爵家として、公にできないこととは言え、国王陛下へ助言をする機会を父上が頂き、王立学園の入学式への参列を欠席することを、私は恥じず誇りに思っています」
少し空けられた執務室の窓から、あたり一面に植えられているイチョウの木々、そこから銀杏の香りがほんのりと部屋へ流れ込んでくる。ラッセン男爵は愛息子カミルの父を思う言葉を聞いて、あらためて大きなため息をつきながら、窓を締めた。
「フラン、何度もすまないがハーブティーを淹れてくれ。カモミールが良い、それとティーセットは三客だ」
「かしこまりました旦那さま。どなたか...お呼びいたしますか?」
「よい、お前とも少し話がしたい」
ラッセン男爵の返事を受けて、メイドのフランは静かに返事をし、退室した。5分と待たずにもどってくるであろう。
貴族社会において一使用人が貴族と茶の席を共にするなど、普通では考えられない。おそらくラッセン男爵家であるからこそ、誰も異を唱えないのだろう。それでも普段からメイドと茶の席を共にしているわけではない。カミルは父がメイド、それもメイド長などではなくただの下働きで、しかも獣人であるフランを指名したことに、少し驚いていた。
「良いのですか、父上」
「...はは、今更何を言う、カミル。私がそんな古いしきたりを頑なに守り、何が根拠とも分からないような噂話などを盲信するような、愚かなヒトに見えるかね。それよりも、お前もそちらへ座りなさい。」
ラッセン男爵に促され、カミルは執務室内の応接ソファへ着席する。男爵は暖炉へ薪を焚べながら、じっと燃え盛る炎を見つめていた。先程まで静かに燃えていた暖炉の薪は、パチパチと音を立て炎の勢いを増す。満足そうな顔をした男爵は静かにカミルの対面へ腰をおろした。
「お前が庭にイチョウの木を植えましょうと言い出したのは、まだほんの小さい頃だったな。既に育った木だけではなく、苗木までも領内からかき集めて...『イチョウの木は燃えにくいのです。我が領館を炎から守るためにも、植えましょう。少しでも火の回りが遅ければ、助けられる命があります』などと言い出した時には、この子はどうしたものかと思ったよ。あぁ、入ってくれ。大丈夫だ」
そう男爵が言い終えるや否や、ノックの音が聞こえ、そっと執務室の扉が開いた。
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イチョウの木は地球でも古来より世界各地で繁栄し、利用用途も幅広く火にも強いと言われ、江戸時代においては火除け地に多く植えられました。
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