正夫

 バイク事故だった。

 正夫は共働きで忙しい両親の代わりに、よくミネに面倒を見られていた。正夫が大学受験をする際も、敢えてミネの家の近くの大学を選んだ。ミネは大そう喜んだことだろう、これでしばらくは大好きな正夫と近くにいられると。


 ただそんな幸せな時間はたった半年で終わりを告げた。


 夏のある日、高速道路をひた走る正夫の250ccホーネットは大型トレーラーと接触、横転後、とろけるような熱いアスファルトの上を横すべり、そのままガードレールに激突、即死だった。後から聞くと左腕はちぎれていたようだが、その話はミネには伏せられた。

 ミネは正夫の大学生活に不自由が無いようにと、お金を積み立てていた。

 やっとそのお金を正夫に使ってあげられる、そう思った矢先の事だった。そのお金の一部は正夫の葬式にしっかりと使っても、結局大部分はごっそりとミネの貯金として居座り、逆にその金額が虚しくミネの心を染めるだけだった。


 あれから一年、ミネはまるで抜け殻のようにぼーっとする時間が増えた。

 本来なら子たちが近くにいてあげるべきなのだろう、しかし息子夫婦は60歳。やっとのことで、死ぬほど忙しい青果卸の責任者を引退したばかり、結局はミネは独りだった。急激に認知症が進まなかったのが不思議なくらいだ。

 よし子にそれを責めるつもりは毛頭無い。それぞれにはそれぞれの人生がある、今考えるべきことは自分が何ができるかだ、それはこの目の前のばあちゃんを守る事、その決意はやはり何よりも硬かった。


「ばあちゃん、気持ちは分かる。正夫さんは……」

「あの子はね」

 めずらしくミネがよし子の話に口を挟んだ。

「あの子は優しい子でね、いつもばあちゃんばあちゃんって、来てくれたの! そんでね、何があってもばあちゃんのところに会いに来るからねって、いい子でしょう?」

 この話は何度も聞いた、そして一言一句違わない。

「うんうん、分かるよばあちゃん。でもね、悪い奴らはそんなばあちゃんの優しさにつけこむの。正夫さんのフリして、ばあちゃんから金を奪い取ろうとするのよ」

 ミネはうつむいたままだった。よし子の言葉を反すうしているのか、それとも正夫との思い出を思い出しているのか、もうその表情からは誰も真実にはたどり着けなかった。


 ふとよし子が窓の外を見ると、太陽はもうてっぺんを通り越し、午後の空間へ高度を下げようとしていた。


「ばあちゃん、とりあえず今日は帰るから、何かあったら連絡頂戴ね、絶対よ?」

 そう言い残して、よし子はうつむくミネを後にした。

 よし子が去った後、ミネはゆっくり立ち上がり、タンスの引き出しをあけた。そして通帳の残高を確認する。


「……」


 何度見ても同じ。正夫のためにこつこつ貯めたお金は、その行き場を失って、単なる数字としてそこに記載されているだけだった。こんなお金、あの世には持っていけない、せめてあの子が喜んでくれさえすればそれで良かった、それなのに……。

 目を閉じると今でも蘇る、ばあちゃん、ばあちゃん、自分の膝に抱きつく正夫、ばあちゃん大好き! そう見上げる正夫をよしよしと頭を撫でるミネ。そこには無限にも広がる命の温かさ、眩しさがあった。この子のためなら、命も差出せる、本気でそう思った。




「ばあちゃん、俺受験する大学決めたよ」

 高校生の正夫は立派な青年になっていた。

「おお、そうかい、んでどこにしたんか?」

 ミネは分かっていた。いずれ正夫も自分の元を離れる、遠くなる。それが一人前になるって事だって。


「ほら」


 そう言って見せられた大学のパンフレットをみて、ミネは驚いた。

「正夫、これってほら……」

「そう、ここならばあちゃんも安心だろ?」

 ミネは涙を流して喜んだ。こんな自分のためにここまでしてくれるなんて、そしてその時ミネは思った、残りわずかな人生はこの子のために生きよう、この子のためなら命が無くなっても構わない、と。


 今でもミネは信じている、あの子はきっと生きている、きっと何かの間違いで、死んでなんかいないんだと。だってあの子は何があってもばあちゃんの元に帰って来る、そう約束したじゃないか。

 その虚しい約束を信じながら、今日一日を過ごすミネ。気づくと手に持った通帳は今日も涙で溢れるのだった。


 その時だった、先日修理したばかりの黒電話が、ジリリリリとけたたましい音を立てて鳴り響いた。また、インターネットの宣伝じゃろうかい、そう思いながら、ミネは受話器を取った。

「はい、もしもし」

 電話の相手は若い男性だった。

「あの、もしもし? ばあちゃん? 俺だけど」

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