第2話 起床と挨拶


 目が覚めると俺は、隣に誰かの気配を感じた。


 女の子特有の甘い香りが俺の鼻を刺激し、次に柔らかな感触と体温が、俺になかば強制的に覚醒をせまる。


 目を開け、右側を見る。女の子がそこに寝ていた。


 腰まで伸びた長い黒髪、小柄な体躯たいく、人形のように整った顔立ち、小ぶりなそれでいてちゃんと女の子らしく発達した二つのふくらみ。


 断言しよう彼女は美少女であると。


「うっ、んー……」


 かすかなうめき声の後、女の子の瞳が開く。


 いまだ焦点の定まらない視線が俺をとらえ、ゆっくりとその焦点を確かなものにしていく。


「おはよう、翔兄しょうにい


 ぐにゃりと表情をだらしなく崩し、女の子――菜々花ななかが俺に向かって可愛かわいらしく笑う。


 うん、今日も我が妹はダイナマイト級に可愛い。


「おはよう、菜々花」


 そう挨拶あいさつを返しながら俺は、菜々花のかみを自分の手で好き勝手にすく。


「うにゃん」


 みょうな鳴き声を上げ、くすぐったそうに身をよじる菜々花。しかし逃げたりはせず、ただただされるがままにその身を俺に預けてくる。


 一通り菜々花の髪を堪能した俺は、そこから手を離し、起き上がるため、一つ大きく両手を上げて伸びをした。


 そして少し両手で勢いを付け、ベッドの上に体を起こす。


 壁の掛け時計に目をやると、時刻は七時五分を少し過ぎたところだった。

 相変わらず、我ながら見事な体内時計をしているものだ。


「お前もそろそろ起きないと、遅刻するぞ」


 男の俺は出掛ける前の準備に然程さほど時間が掛からないため、そこまで急ぐ必要はないが、女の子はそれなりに手間が掛かるようで、準備にある程度の時間を要する。

 それを面倒と思った事はないが、大変そうだなと思う事は多々ある。


「もう少し、もう少しだけ」


 そう言って枕に顔をうずめて、おねだりをする菜々花に俺は嘆息たんそくをしつつ、


「しょうがないな」


 と無理に起こす事はせず、自分一人で先にベッドを出る。


 勉強机に近付くと、その上にあった昨日の内に用意しておいた高校の制服を手に取り、それに着替える。


 脱いだ寝巻きをそのまま手に持ち俺は、


「じゃあ、もう少ししたら来いよ」


 最後にベッドの中でまだうだうだしている菜々花に声を掛け、一人部屋を後にする。


「うー」


 という返事だがなんだか分からない声に送り出された俺は、廊下を通り、階段に向かう。


 ちなみに俺と菜々花は、別にそういう関係というわけではない。そして更に言うと、俺が寝た時にはまだ隣に菜々花の姿はなかった。


 当たり前といえば当たり前だ。いくら兄妹仲に寛容かんような我が両親とはいえ、二人が一緒に寝ていると知ったら、怒る事はないかもしれないが、さすがになんらかのあまりよろしくない反応が当然あるだろう。

 だから菜々花は、共働きの両親が家からいなくなる七時前を見計らって、いつも俺のベッドにもぐり込んでくるのだ。


 小学生の内はただ単に可愛い行動で済んでいたのだが、お互いが成長するに従い、徐々にその域を越え、両方が高校生になった今ではそれは完全にアウトな領域に足を踏み入れていた。

 妹でなければ百パーセント襲っている。むしろ襲わない方が失礼なシチュエーションだろ、あれは。


 階段を降りると俺は、まずは洗面所に向かい、うがいと手洗い、そして洗顔を済ます。

 その後、キッチンに行き、適当に二人分の朝食を作り、それをリビングのテーブルの上に並べる。


 残念ながら俺に料理のスキルはないので、ほとんど毎日、焼いたトーストとスクランブルエッグとこれまた焼いたベーコンといった、料理とも呼べない料理がテーブルの上に、まるでハンコを押したように並ぶ事になる。

 まぁ、朝食だしこんなもんで十分だろうと思う反面、もう少しレパートリーを増やさないと、これから先まずいんじゃないかという危機感も同時に覚える。


 とはいえ、すぐにどうのこうのするつもりもないので、本当に危機感を覚えているかどうかは、自分でも謎なのだが。


 それから一分もしない内に、二階から音がして、更に五分後、階段を誰かが降りてくる音がした。


 その足音はそのまま洗面所の方に向かい、それから数分の後、リビングに向かって近付いてきた。


「おはよう、兄さん」


 見事なたたずまいでそう挨拶をすると、菜々花はテーブルまでやってきて、俺の正面に座った。


 ちなみに、俺はもうすでに食事を済まし、食後のコーヒーを楽しんでいるところだった。


 別に俺としては、菜々花が来るまで食事を待ってもいいのだが、菜々花の方がそれを気にするので、ここ数年はいつもこんな感じだ。


 それにしても、毎度の事ながら見事な変わりようだと思う。

 今の菜々花は、さっきまでのだらけ具合がうそのようにしゃんとしており、まさにどこに出しても恥ずかしくない子供を完璧に体現していた。


「どうかした?」


 俺の視線に気付き、菜々花がにこりと笑う。


「いや、今日も可愛いなと思って」

「――ッ」


 とはいえ、こうやって簡単に素が出るので、そういう意味ではまだまだ完璧には程遠いのかもしれないが。





 二つ年下という事もあって、翔兄は私をまだ子供と思っている節がある。

 だから朝ベッドに入り込んでも、特に反応しないし、何も文句を言ってこない。


 とはいえ、そのお陰でベッドに潜り込んでも許されるという役得を得られているため、そこはあまり強くは言えない。


 損をしている事と得をしている事、その二つが上手い具合に反発し合って、今の私の翔兄に対する思いは停滞を迎えていた。


「おはようー」


 教室に着くと私は、適当なクラスメイトに挨拶をしながら、自分の席に向かう。


 あまり仲良くない相手にも適度に愛想を振る舞っておかないと、高校生活というのは途端に成り立たなくなる。それが狭い世界のコミュニティというやつだ。


「おはよう、菜々花」


 席に着き、授業の準備をしていると、ふいにそう声を掛けられた。


 顔を上げる。そこにはクラスメイトで友人のあかねが立っていた。


「おはよう、茜。今日も朝から眠そうね」

「そりゃそうよ。アンタが家でぬくぬく自分のベッドに入ってる間、私は朝からハードなトレーニングさせられて、もうヘトヘトなんだから」


 入っていたのは自分のベッドだけではないんだけど、それを言うと明らかに話がややこしくなるので、当然その事は口にしない。


 茜は私の中学からの友人で、この学校では数少ない気の置けない間柄と呼べる相手だ。


 髪は短く、一見男の子にも間違われそうな風貌ふうぼうをしているが、よく見ると顔は可愛らしく、スタイルもただ細いだけでなくちゃんと出る所は出ているためとてもいい。身長は百七十を優に越え、それもあってか高校ではバレー部に所属している。


「菜々花も何か入ればいいのに、部活。折角、運動神経いいんだから勿体ないよ」

「そうは言うけど、色々と私にも事情ってものがあるの」

「何さ、その事情って」

「……事情は事情よ」

「まさか、お兄さんと一緒にいたいからとか言わないわよね」

「うっ」


 図星を突かれ、私は思わず声をらす。


「やっぱり、それか。なんか高校入って、更にひどくなったよね、アンタのブラコン」

「失礼な、私は別にブラコンじゃないわよ」

「どの口がそれを言うか」


 ブラコンとは、くまでもブラザーというフィルターがあった上での愛を抱える人の事だろう。ならば私は違う。私は別に翔兄が例え兄でなくても普通に彼の事を愛するし、むしろ兄でなくなるなら最早障害はなく、喜んでその事実を受け入れようと思う。


「重症だわ、こりゃ」

「そんな事言って、あなた本当に人を好きになった事がないんじゃないの? だから、そんな事が言えるんだわ」

「失礼な、私だって別に好きな人の一人や二人くらい……」


 言いながらその相手の顔を思い浮かべたのか、茜の顔が赤く染まる。


「え? いるの? 誰?」


 高校に入るまで恋のこの字もなかった茜に、こんな反応をさせる相手がいるなんて驚きを通り越して、祝福を送りたい。


「言わないよ、そんなの……」

「バレー部の先輩とか?」

「うっ」


 今度は茜が図星を突かれ、変な声を漏らす。


「へー。そうなんだー」

「何よ、悪い。私にそういう人がいたら」

「別に。いいんじゃない。茜もようやく女の子らしくなってきたって事で」

「なんだよ、それ……」


 本格的に恥ずかしくなってきたのか、茜の言葉が徐々に怪しくなってきた。


 これ以上は可哀相かわいそうだし、からかうのはまた今度にするか。


「でも、好きな人がいるなら茜にも分かるでしょ? 私はその相手がたまたま家族だっただけで、私にとってその事はそれ以上でもそれ以下でもないのよ」

「うん……。言いたい事は分かるけど……」


 それでも普通の人には理解が出来ないのだろう。私も逆の立場なら、きっとそう思ったに違いない。だからその事をショックだとは思わないし、ひどいとも思わない。


「まぁそれに、私も今すぐどうのこうのするつもりはないしね」

「うん、そうだよね。ごめんね、なんか必要以上に茶化しちゃって」

「ううん。いいのよ。私も少し言い過ぎたわ」


 売り言葉に買い言葉ではないが、多少熱くなってしまったのは事実だ。まぁ、半分以上は茜をからかうため、だったが。


「何? なんの話?」


 ちょうど登校してきた由多加ゆたかが話に入ってきて、この話は本当におしまいという事になった。


 私のこの気持ちが、世間的にあまり受け入れられないものだという事は知っている。だから、この事を話すのは本当に信頼出来る相手だけ。この事は翔兄にだって話せない、私の一つ目の秘密だ。

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