磯女

@seizansou

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 私は友人と旅行をしていた。主には休養のためだったが、ついでに夜釣りをしてみようという話になって、海沿いの民宿を選んだ。お互い、少しゆっくりしたところで休みたかったこともあったので、大して有名でもないところをわざと選んだ。少しでも静かなところがよかったからだ。実際、選んだ民宿の近辺は、良く言えばとても静かなところだった。まあ、寂れていたとも言えるのだが。

 民宿にも見たところ客はほとんどいなかった。今思い返してみても、他の宿泊客を見かけたのは、物静かな老夫婦と一度すれ違ったくらいだったと思う。

 民宿で働いていたのも、老人だけだった。もしかすると料理などは別の人間が作っていたのかもしれないが、私たちが直接話をしたのはその老人一人だけだ。彼の応対は非常に丁寧で、また非常にゆっくりとしていた。話す言葉には現地の訛もかなりあったが、それはイントネーションだけで、言葉自体は標準語を話していた。

 玄関で出迎えられて以降、彼はゆっくりと、だが絶え間なく話しかけてきた。ここへは何の用で来たのか、どこそこの飯屋が旨い、一度どこそこによるといい等、きっとどの客にも言っているであろう内容だったに違いない。用意していたようにするすると話を切り出してきていた。

 しかし、私たちが休養と、そして夜釣りを目的としているのだと伝えたとき、老人は、はたとその動きを止めた。あれは確か、彼が台帳に何かを記入している時だった。使い古されたボールペンの動きが急に止まったのを覚えている。てっきり、台帳に書いていた内容に不備があるのかと思い、何か不備でもあったかと聞いた。彼は私たちに向き直り、やめた方がいいと言った。それまでのなめらかな話し方から、急に詰まるような口調に変わったのが印象的だった。話を聞いてみれば、それは迷信の類の話だった。この地方では昔から、夜の海岸には恐ろしい化け物が出るという内容で、だから夜釣りはやめた方がいいということだった。

 部屋に案内され、老人が部屋を去った後に、そのことについて友人と話をしたのを覚えている。今でもそういった伝説が残っていて、そして信仰されているのは、とても貴重なことだとか、そういう話を生で聞けるというのもまたいい経験だとか、大体そういうことを話した。


 その夜、私と友人は目的の夜釣りに出かけた。昼に出回っているときに良さそうな場所を見つけたので、そこを目指した。流石に田舎だけあって、夜は大分暗かったが、ちょうど満月だったので、薄くだが足下まで月明かりで照らされていた。不慣れな土地でこれはありがたかった。友人と、月明かりで魚が浅瀬までこなくなってしまうのではないか、などと話をしながら目的地まで荷物を抱えて歩いていった。

 その途中だった。友人が、何かに気付いて立ち止まった。彼の視線を追うと、消波ブロックの向こう側、大体二、三十メートルほど先の海岸に人影があった。満月の光のおかげで、それが白っぽい服を着た、足下まで届く真っ黒な髪の人影であること、さらに見ればそれは女性であることがわかった。それは遠目からでも綺麗な女性だということが判った。その横顔は作り物のように整っており、月に照らされた肌は異様なまでに白かった。彼女はとても悲しそうに沖のずっと遠くを見つめていた。よく見れば、彼女の全身はずぶ濡れになっていて、濡れた髪が月明かりを反射していた。彼女の姿は生気が薄く、儚げだった。あえて言うなら、綺麗という言葉よりは、美しいという言葉のほうが適切であるように思えた。

 ガタンガシャンという音が唐突に聞こえて、私はそれで我に返った。友人が荷物を落として何も言わずに歩き出していた。その友人の姿があまりに異様だったため、私は彼に声をかけることができなかった。彼は、海岸に立つ女性に向かって歩いていった。彼女とのあいだにある消波ブロックを避けるように大きく迂回して移動していった。

 彼らの距離が数メートル程度まで縮まったあたりで、友人は両手をゆっくりと上げて、彼女に向かってその両手を伸ばすようにした。女性は、それを迎え入れるように、ゆっくりと友人の方に体の向きを変えた。

 徐々に距離がつまり、二人が完全に密着したあたりで友人は伸ばしていた両手で彼女を抱きしめた。そのとき、彼女の口がゆっくりと開かれるのが見えた。何かぼそぼそとしゃべっている声が聞こえたかと思うと、それは次第に大きく、高音になっていった。私にまで聞こえる大きさになったとき、それが全く意味をなさない音の羅列であることがわかった。しかしそれを聞き取れたのは一瞬のことで、その次の瞬間には、加速度的に大きく、高音になったその暴力的な奇声で私の耳は聞こえなくなり、平衡感覚を狂わされ、私はへたり込んでしまっていた。視界はぐらぐらと揺れ、強烈な吐き気におそわれた。

 混濁した状態の中で、友人の身が危険であることに思い至った。この距離でこれだけひどいのだから、耳元で叫ばれた友人はただではすまないのではないかと。なんとか彼女のほうを見ると、友人は変わらずに彼女を抱きしめていた。しかしそれをよく見ると、友人の首は前に垂れており、全身がガタガタと痙攣していた。明らかに異常な状態だった。女性はいつの間にか口を閉じ、やはり悲しそうな目で遠くを見つめていた。

 ふと、民宿の老人の話が思い出された。夜の海岸に出る化け物。確かに今の彼女の行いは明らかに人間のものではなかった。先ほどまで感じていた儚さや美しさは一切が消え去り、ただただ不気味さ、恐ろしさしか感じられなくなっていた。

 私の視界の中で、友人と、彼女以外に動くものがあった。私には最初、それが蛇、無数の蛇であるように見えた。蛇以外にそんなふうに動くものは見たことがなかったからだ。細く長い無数の蛇は、彼女の背後に扇のように広がっていった。大きく広がったそれらが、月明かりを反射しているのを見て、やっとそれが彼女の長い髪の毛であることに気が付いた。大きく広げられた無数の髪達は、未だ痙攣を続ける友人をゆっくりと包んでいった。それは、二人が抱き合っているようにも見えた。

 髪が友人を完全に抱き抱えると、友人は一度大きく痙攣し、仰け反るように首を後ろに倒した。口の端からは白くなった唾液が湧き出て、黒目が完全に上を向き、瞼が痙攣していた。私は、ここに来てようやく、なにか行動を起こさなければならないということに思い至った。逃げなければならない、逃げたいと強く思った。しかし平衡感覚は戻らず、強い吐き気と視界のぐらつきが続いていたため、立ち上がることすらできなかった。

 友人を見ると、すでに痙攣は収まっていた。そのとき、彼を抱える髪が蠢いていることに気付いた。その動きは、人間が液体を飲み込むときの、喉の動きのように見えた。そしてすぐに、私は、それが、友人の血を吸う動きであると直感した。友人の顔は明らかに土気色になっていた。血の気を無くした死人の顔色だった。彼女は髪で友人の血を吸ったのだ、友人は食われたのだと悟った。そして、彼女がゆっくりと、私に振り返り、その悲しそうな目がしっかりと私を捉えた。




 そこまでが私が記憶していることだ。あとのことはあなたがたのほうが詳しいはずだ。私は民宿に戻り、玄関でわめき散らしていたらしいが、全く覚えていない。

 私が覚えているのは、翌日、病院までわざわざ様子を見に来てくれた民宿の老人が話をしているところからだ。彼は、私が民宿に帰るなりわめいていた内容が、まさに自分が忠告した化け物に違いないと言っていた。彼はしきりに、そいつに見られたか、そいつと目があったか、ということを気にしていた。私が、目があったような気がすると答えたきり、彼は黙り込んだまま私のいた病室から去っていってしまった。あれは一体どういう意味だったのか、未だにわからない。

 とにかく、それが全部だ。私の見たことのすべてだ。もうこれくらいでいいだろう。ここのところずっと体調が優れないんだ。長時間、話をするのが辛い。だんだん立ち上がることすら辛くなってきた。もういいだろう。帰ってくれないか。もう、本当に、辛いんだ。

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