第38章 彼の戦い

 もう陽も落ちようかという時間帯……俺はただ、病室のベッドの上に座り込んでいた。窓の外からは陽光が差し込み、皮肉にも、あの家で見た光景と重なり合う。俺に銃口を向け、涙を流しながら死を乞う宮尾を照らした、忌々いまいましい光。思い出しそうになってしまった俺は、思わずそれから目をらした。


「眩しいかな? カーテン閉めておこうか」

「あ、うん……ありがとう、胡桃」


どういたしまして、と言わんばかりに胡桃は微笑み、窓をカーテンで覆う。無機質な蛍光灯の光が病室を照らし出し、より無味乾燥な雰囲気をかもし出す。


「検査って、どれくらいかかるのかな。もう何時間もこうしているような気がするよ」


 退屈そうにテレビを眺めながら、中原はぼんやりと呟いた。彼女は両肩を負傷しているため満足に腕を動かすことが出来ず、ただテレビを眺めるか、雑談をするしかないのだ。それでも時折、痛みに顔を歪ませる瞬間もある。むしろ、それで済んでいるのが奇跡なほどであるのだが。


 どうして中原と胡桃が俺の病室にいるのかというと、あの時……宮尾が目を覚ました、あの時間にまで遡る。









「ねぇ、あなたは誰……?」


 森谷へ同じ言葉を投げかける宮尾の声が、俺の耳へと届いた。彼女の声からは、はっきりと不安の色が見えていた。初めて会う人に声を掛けられ、動揺しているのだ……そう聞けば、誰しもが納得するような、そんな調子であった。


「誰、と来たか……ふむ……」


 慌てるでもなく、しかし興味深そうに彼女を見つめる森谷。彼女のこの発言を予測していたのだろうか、と疑いたくなるほどに彼は落ち着いていた。そして徐に、彼女のかたわらにあるモニターを眺め始める。


 一方の俺は、そんな彼らのやり取りを、ただ呆然ぼうぜんと見ているしかなかった。いや、理解が追い付かなかった。『あなたは、誰』……そんな言葉を、俺は待ち望んでいた訳じゃない。何でもよかった。彼女が生きているということが分かれば、それでよかったのだ。しかし俺の知っている彼女は……宮尾 藤花という女の子は、ここにはいなかった。消えていなくなってしまった。


 そんなはずはない、嘘だ。そう信じ俺は、体を動かそうとする。しかし脳の指令を無視し、四肢は全く動かない。彼女へと声を掛けたいのに、言葉が喉の奥に引っ掛かり、気道を塞いでいく。俺はたちまち呼吸困難を引き起こし、新鮮な酸素を求めて悶え苦しみだした。


「……ん? お、おい、高島くん! しっかりするんだ!」


 俺の異変に気付いた森谷が駆け寄ってくるが、酸欠によるパニックを起こしてしまった俺は、成す術もなく床へと倒れ込む。

 転倒の衝撃と脳への酸素不足により、意識を失うその刹那……ベッド柵の隙間から彼女と目が合ったような気がした。しかし、彼女の瞳に俺は映っておらず、ただ助けを求める俺の姿に対する恐怖が、まるでフィルターのように彼女の目を覆っているようであった。


 そして、意識を失った俺が目を覚ますと、いつの間にか自分の病室へと戻されていたことに気付く。ぼんやりとした意識の中、自分の体の機能を確かめるように手足を動かし、深呼吸をしてみる。思い通りに動く俺の体が、そこにあった。


 まだ体が機能を失っていないことに安堵したが、すぐにその思いはかき消された。あの時に体が動いていれば、彼女を恐怖に支配などさせなかっただろうに。助けて、あげられただろうに……俺はまた、彼女を救えなかったのかもしれない。


 激しい自責の念に駆られ、今にも叫び出しそうな気持を抑えきれなくなっていたその時、病室のドアをノックする音が響き渡った。そして、この病室へと踏み込んできたのが、中原と胡桃だったのだ。


「お邪魔しますよー……って、あれ。どうしたの?」


 呑気な様子の中原……恐らく、宮尾の話どころか、俺がまた担ぎ込まれたことすら知らないようだった。そんな彼女に少し苛立ちを感じたものの、その背後にいる胡桃のことが気になった。

 俺がここにいるということを知っているのは、森谷と中原だけだ。患者情報を漏らすことになるため、森谷が胡桃に連絡を入れることは考えにくい。であれば、中原が胡桃に電話か何かで連絡を入れたのだろう。


「胡桃に、俺のことを伝えたんですか?」


 別に伝えて困ることではなかったが、断りもなく連絡をするのは、些か不愉快ではあった。とはいえ、丸二日ほど寝込んでいた状態だった俺から、そんな言質げんちを取ることなんて出来るはずがない。それに、共に過ごした時間は短いが、事件のことを相談し、推理し合った仲なのだ。いずれ連絡を入れるつもりであったし、その手間が省けたことも事実だ。そこは感謝しておく必要があるか。


「……あの場所で起きたこと以外は、私の見た事実をそのまま伝えたつもり。と言っても、両肩が上がらないから電話できないし、チャットで話す内容でも無かったしね。直接ここに呼んだ方が早いなって思ったワケ」


 あの場所で起きたこと、か。つまり、米村の死、宮尾の独白、そして俺の決断……それらは全て伝えず、結果だけを胡桃に伝達したのだろう。そうでなければ、あの胡桃がこうして黙っているはずが無いのだ。今も必死になって、何が起きたのかを推理しているに違いない。


「そう、ですか。ありがとうございます、気を遣っていただいて。……それで、ここに来たってことは……」

「……うん、春来くんに聞きたかったの、決着の内容について。……言っておくけど、被害者の家族だからという気持ちで、こんなことを聞きたいんじゃない。友達のことだから、知っておきたかったの」


 こちらが気圧けおされるくらい、力強い言葉だ。彼女にそれほどまで信頼されているのだと実感し、気恥ずかしさと共に俺の選択の身勝手さを改めて思い知らされた。

 ……いや、あの時の決断は正しかったはずだ。ああしなければ、今頃俺は、宮尾をこの手で……しかし、その宮尾は今や……


「ねぇ、それより……何でさっきよりもモニターとかの数が増えてるの? 何か悪いところでも見つかった?」


 中原の質問に、思わずドキッとする。さすがに警察官だ、そう言ったところは目聡めざとい。一時的なパニックによる過呼吸からの呼吸困難とはいえ、脳やその他の臓器に異常が無いとも限らない。そのため、いくつかの機器が追加されていた。

 ちょうどいい機会である。こうして、事件の当事者でもある二人がここに集結しているのだし、この閉鎖された環境がいつまで続くのかは分からない。であれば、こうして俺がここに戻された理由を……宮尾に起きたことについてを、話すべきだ。


「……聞いてもらえるか、あの家で起きたことも含めて、今一体何が起きているのかを」









 こうして、俺は二人に事件の詳細について話すこととなった。意外にも、胡桃は大人しく話を聞き入っていたことには驚いたが……あまりにも様々なことが起こりすぎたことで、頭の整理が追い付いていないのかもしれない。


 理解できないのは当たり前のことだ。当事者である俺ですら、未だにこれは夢なのではないかと疑う始末なのだ。いや、夢であったのならどれだけ良かったか。誰しもが不幸となったこの一連の事件を引き起こしたのは、俺の……いや、俺たちの友人であり、誰よりも壮絶な人生を送っていた宮尾で、その彼女は今、記憶を失っており精査を受けているところなのだ。


 そして俺の話がひと段落ついたところで、ちょうど西日が差し込んできた……というところまでが、現在へ至った経緯である。俺の話はかなり時間を掛けたはずだったが、それでもなお、森谷による宮尾の検査が終わらないらしい。


「もちろん、慎重に検査をして貰った方がいいけれど……もしかしたら、あの森谷さんにもはっきりと分からないことがあったのかもしれないよね」


 テレビを眺める中原に、胡桃はやや不安げに話しかけている。夕方のニュース番組のようだが、この事件について触れられることは一切なく、高速道路での車の事故を報じていた。どうやら、母子による無理心中だったらしい……それに対し、無神経なコメンテーターは、愛だの何だのと、持論をまくし立てる。


「私、この人嫌い。理想論ばかりで何の解決策も見出せない上に、こうして世間一般の人たちを煽って……」

「いや、そういう台本があるんですよ。私も、出演者側だったから分かります。結局のところ、彼は持論を述べている訳じゃなくて、こういう風に話してくださいね、という依頼を受けて、自分の言葉で語っているだけ。それはそれで凄いことなんだよ?」


 そんな二人の話に聞き耳を立てていると、俺の耳は病室のドアが軽くノックされる音も拾い上げた。危うく、彼女たちの話し声で聞き落とすところであった。


「どうぞ」


 俺の呼びかけに、来訪者は静かに病室へと入って来た。どうにも浮かない表情の、白衣の男……森谷だ。恐らく、宮尾の検査結果が出たのだろう。そして彼の表情は、その結果がかんばしくないことを物語っている。


「ああ、起きて……おっと花南ちゃん!? なんだ、だったらもっと早く……あ、いや、そういうことじゃないね」


 胡桃を見つけ、やや表情の明るくなった森谷だったが、すぐにそれを真剣なものへと切り換えた。


「どう、だったんですか……宮尾は……宮尾の記憶は……」

「率直に言うと、脳自体への影響はやっぱりない。運び込まれたときより少し変化はあったけど、衰弱した影響だと思われるから、これは問題なかった」


 脳への影響はない……そうであれば、一時的な記憶の混乱によるものなのだろう。そう思うと、安心にも似た疲労感が、全身の力を弛緩させる。しかし、森谷はさらに話を続けた。


「でも、問診や、簡単なテストを何個か行なってみた結果だけど……恐らく、一過性健忘ではなく、全生活史健忘……要するに、であると診断できた。つまり、記憶の混乱とかそういう簡単なことじゃなく、解離性障害……強烈なストレスへの防御反応だね。これが生じてしまった訳なんですよ」


 宮尾は、記憶喪失になってしまった。強烈なストレス……俺の自殺を目の当たりにしたことで、彼女は……全ての記憶を失ってしまったのだ。映画やドラマなどでしか存在しないと思っていたものに、宮尾が……。


「……それ、は……」

「ああ、日常生活を送る上での支障はないよ。失認、失行、遂行、それに記憶の面では特に異常はなかった。注意力は少し劣っていたけど、まぁこれは元々の問題だろうね。……とにかく、彼女の高次機能は保持されていたということだよ」


 高次機能、と言われてもピンと来ないが……要するに、一般人として社会生活を送るための機能は問題がない、ということなのだろう。


「問題は、エピソード記憶だ。俺の名前どころか、自分の名前すら記憶されていなかった。どこで産まれたとか、どの学校に通っているのか、今何歳なのか……それらを全く覚えていない。もちろん、この事件のことも、全てね」


 それが確かなのであれば、今まで俺たちと共に行動してきたこと……一緒に笑い、泣き、時には喧嘩をしたことも……全て忘れてしまった、ということになる。


「そ、そんな……」


 愕然がくぜんとした表情で、胡桃は崩れるように椅子に座り込む。中原は、眉間にしわを寄せたまま森谷を凝視している。


「元に、戻るんですよね……そうだ、記憶喪失だったらまだ……」


 そう落ち込んでばかりいても仕方がない。確か、映画などでは主人公たちの必死の努力で、少しずつ記憶が蘇っていくはずだ。もし宮尾もそうであるのなら、ゆっくりと時間を掛けて……俺たちが……。


「そう、君たち……特に高島くんと岬さんだね。家族のいない彼女にとって、一番身近だった存在である二人の協力があれば、比較的早い段階で彼女の記憶は戻る可能性がある。もちろん、いつ戻るのか、などということは分かるはずないんだけど……はっきりしているのは、元に戻すことが可能だ、ということだよ」


 ようやく、森谷は彼らしい笑顔を浮かべる。

 そう、か。俺たちの努力次第で、幾らでも宮尾の記憶を取り戻すことができる、かもしれない……。そうであるなら、やるしかない。神様は、俺に……いや、俺たちに再出発の機会を与えてくれたんだ。振り出しに戻して、一からやり直す機会を。彼女の人生と向き合い、共に歩んでいくための……。


「ちょっと待ってください、一つ、教えてほしいんです」


 希望に溢れる俺の耳に、胡桃の声が伝わる。


「この事件を起こしたのが藤花ちゃんだってことは、さっき春来くんから聞きました。でも、あれだけの殺人を起こしておいて……私の姉を、あんな無惨な方法で殺しておいて、春来くんが死ぬことがショックで記憶を失った、というのは……」


 俺は、胡桃にこの事件の経緯しか話していない。宮尾の過去……母親の死、親戚による暴行、そして殺害……そのことについて、俺の口から話してしまうのははばかられたため言っていなかったが、それを知らなければ、確かに不自然なことであった。

 それを理解しているのは、あの場にいた俺と中原だけ。しかし、特に親しかった訳でもない中原がそんな話をするのは、確かに少し違う。俺が話さなければ。


「……この事件の発端は、10年前のあの『エンドラーゼ』の事件だ。あれによって、宮尾は母代わりであった鈴石を亡くし、父親とも離れ離れになってしまった。その後、彼女は親戚の家に引き取られたが……そこで彼女は、叔父から暴行を受けたんだ。ええと……殴られたりとか、そういう暴行ではなく、その……」


 俺の言葉に、胡桃は口を手で覆う。強烈な吐き気を我慢しているかのように喉を鳴らし、必死にその体の震えを抑えているようだった。


「……そこで、彼女は叔父を殺した。多分、撲殺ぼくさつしたんだと思う。偶然その現場を目撃した叔母は、宮尾の身代わりとなり出頭して逮捕された。そして、また彼女は父親と二人で暮らすようになった……そう聞いている」


 そう、事件の始まりはあの臨床試験。あれによって、俺もそうだったが、家族は離散し、親戚の元へと預けられ、そして、ゆがんだ愛情を受けてしまった。彼女の叔母の取った行動も、決して彼女を愛していたからではないだろう。彼女を引き取り、自身の夫の凶行を止められなかった自分の責任だという、罪の意識から生まれたものだ。相当に、宮尾のことを恨んだに違いないのだ。


 そんな風にゆがめられて育ってしまった彼女が、自身の人生を悲観し、死を選ぶということについて大きな疑問はない。しかし、当時の彼女は幼かった。その幼さが故に、自ら命を絶つ行動が取れず、罪の意識に苛まれるままいたのだ。その上、精神疾患を患った父親の世話もしなければならず、生活費も工面しなければならない……死ぬことも出来ず、ただ苦痛を受け続けるだけの日々を、彼女は過ごしていたのだ。


「それで……真っ当な愛というものを知らずに、彼女は高島くんに会ってしまった。最初は、『エンドラーゼ』の事件を調べるために仲良くなろうとして近づいた……そうだったよね」

「……」


 中原の言葉に、俺は黙って頷く。

 そう、それこそが宮尾の狂気を進行させた、最大の要因だ。俺に愛されようと、殺し続けてしまった。あの組織の力を借りて、思うがままに。そして、それが成就される寸前……俺が自殺を図ったのだ。しかも、彼女の目前で。


「……そう、だったの……ごめんなさい……」

「いや、胡桃は全然悪くなんてない。お姉さんを理由もなく殺されたんだから、犯人である宮尾を恨むことは当然なんだから。許してほしいと思わないし、罪は償われるべきなんだと思う。でも……」


 でも、そうであるなら……宮尾も被害者の一人なのだ。この事件は、一体誰が被害者で、誰が加害者なのだろう。犠牲ばかり増えていって、その責任の全てを宮尾が負う……それでいいのだろうか。彼女を無間地獄に追いやったのは、誰の責任なのだろう。


 そうか、彼女が囚われているのは……過去なのだ。そんな彼女を檻の中から救い出すには、過去を捨て去ること以外にない。壊れてしまったものは、まだ修理が可能だ。しかし、壊れてしまった心は、修理ができない。これから俺たちのことを思い出していくたびに、また彼女の心は壊れていくのだ。だとすれば……俺の、いや俺たちがすべきことは……。


「森谷さん」


 不意に名前を呼ばれ、やや驚きの表情を浮かべる森谷だったが、お道化どける様子もなく、真剣に俺の目を見つめ返す。恐らく、彼もその考えに至ったのだろう。


「宮尾を、このまま……全てを忘れてしまった状態にしておきたいんです。それが、彼女を救うたった一つの方法だと、俺は思います。ですから……すみません、治療に協力できません」

「な、なに言ってるの高島くん! 記憶を失ったままだったら、彼女は……それに、協力しないって、まさか……」


 声を荒げ、俺へ腕を伸ばそうとする中原。しかし両肩に激痛が走ったようで、苦悶の表情を浮かべ、その場に座り込んだ。それでも彼女は、俺を睨み続けている。


「……思い出さなくても、思い出しても……罪が消える訳じゃないんだよ? それを分かってて言ってるんだよね、春来くん……」


 消え入るような声で、泣きそうな目を向ける胡桃。恐らく彼女も、俺の思い至った結論を考えてはいたのだろう。しかし、姉を殺された彼女としては、その事実をしっかりと受け止めて欲しかったのだろう。それに、友達ともう会えないということ……その苦しみを、彼女は充分過ぎるほどに理解しているのだ。俺の結論は、受け入れられないに違いない。


 二人の意見は当然だ。全部忘れたままにして、それでおしまい。そのようなことが許されるはずがない。いや、許されてはいけない。そのようなことは、俺も充分理解している。両想いであった彼女と……最愛の人間との永遠の別離は、苦渋の決断だ。

 それでも、この方法を選択するしかない。彼女を救うためには、これしかないのだ。


「考えることを放棄した訳じゃない、ということでいいんですね? 俺としては、宮尾さんはれっきとした病人だ。治療してあげたいと思うのは当然であるんですけど……そんな俺に向かって言うんですから、本気なんですよね?」


 あくまでも、感情論ではない、一人の医療人としての意見を俺にぶつける森谷。一見すると非難しているように思えるが、それは非常に彼らしく、俺の背中を押してくれているような、そんな風に感じられた。


「……ええ、俺は……もう彼女に会うことはありません。岬や、みんなにそれを強要するつもりはないですが……分かってください。彼女を……宮尾 藤花を、地獄から救う手助けを、お願いします……」


 そしてベッドから立ち上がり、深く頭を下げる。自然と目から零れ落ちる雫が、つま先を染め上げる。

 一滴、また一滴と零れ落ちるそれを、三人は黙したまま眺め続ける。


 そんな時だった。病室のドアが開けられ、一人の看護師が入室してきたのだ。


「あ、えっとすみません……先生宛に、これを渡してくれと……」


 病室の雰囲気を察したのか、バツの悪そうにもじもじと、森谷へと小さな封筒を手渡す。


「……君、これは?」

「えっと、受付の者が預かったそうなので、詳しくは分かりませんが……手紙のようなものらしくて、もし急ぎの要件でしたらと思い……」


 想定外の出来事に、全員が困惑する。俺も、下げていた頭を上げ、その手渡された封筒を見た。ごく一般的な茶封筒……厚みもなく、確かに手紙一枚くらいのものしか入っていないようだった。


 病室を去る看護師を見届けた後、森谷はすぐさまそれを開封する。その表情は、今まで見たことのない……いや、あの表情は、どこかで見たことがあった……それは一体、いつだっただろうか。


 そして、封筒から一枚の紙を取り出した。綺麗に折りたたまれた、A4サイズほどの紙。それを広げるのと同時に、コーヒーの香りが辺りに漂ってくる。どこかで嗅いだことのあるような、懐かしさと共に、なぜか背中に寒気のようなものを感じた。

 その手紙を読んだ森谷は、静かに目を閉じて言った。


「……ここは、高島くんの意見に従ってください。俺も、彼女の治療を諦めます」

「……え?」


 俺を含め、全員が一斉に森谷を見つめる。彼は肩を小刻みに震わせ、クシャッと音を立てて茶封筒と手紙を握りつぶす。

 これは、ただ事ではない。あの森谷が、治療を諦めるというのだ。それを決断させる何かが、そこに書いてあったというのか。


「ど、どういうことですか森谷さん。その手紙には、なんて――――」

「……いや、この手紙とは特に関係はないよ。それより……高島くん。君は、救うと言ったね。治療を施さないのではなく、手を加えない治療、そういう意味なんだよね。それは一種の、緩和医療に近い」


 緩和医療……確か、苦痛を取ることを目的とした、治療ではなく生活の質QOLを上げるための行為のこと、だったと思う。言われてみれば、それに近いものを感じる。


「精神科領域での緩和的アプローチか……冒険的だが、俺としては推奨したいと思うんだ。どうだろう、みんな」

「……」


 思いの外、強い力で俺の決意を後押ししてくれている森谷。どういう心境の変化があったのかは分からない。彼の手に握られたあの手紙……あれが影響したのかもしれないが、それが無かったとしても、彼の思いは真摯しんしなものであるように感じた。


「私は……彼女がこれ以上、罪を犯さないという保証があるのなら……村田先輩や、米村先輩のような被害者を生まないのであれば……こんな考え、警察官としては相応ふさわしくないと思うのですが……」


 俯いたまま、中原は絞り出したような声で言った。公人としては、決して正答とはいえない。それが本当に宮尾のためになるのか、そして自分の正義にもとるものなのかどうか……自問自答した末の答えだったのだろう。


「いえ、中原さんは……立派な警察官です。これを機に辞めようだなんて、考えないでください。それは、村田さんや、米村さんの意思に反することだと思います」

「うん……絶対に怒られるね。先輩たちは、色んな思いを私に教えてくれてたんだ。自分で言うのも何だけど、期待されてたんじゃないかな。……うん、辞めないよ。辞めるもんか。この国の警察が、正義を失うまでは絶対に」


 あとは、胡桃と岬……岬については、今そのような話をできるような状態ではない。落ち着いてから、俺がゆっくり話すとしよう。岬には悪いが……いや、きっと彼女も俺の意見を後押ししてくれるだろう。彼女も、ずっと傍で見守っていながら、宮尾を止めることが出来なかったのだから。


「私は……藤花ちゃんを許そうとは思わない。ちゃんと生きて、その罪を償ってほしいと思う。でも……忘れてしまっていた方が、絶対に良い。不思議だね……あんなにも憎んでいた犯人を、こんなに思いやる心があるなんて。殺してやりたいくらいに憎んでいたはずなのにね……」


 胡桃は天井を見つめながら、どこか遠くへ行ってしまった姉に話しかけるかのように、ポツリと呟いた。本来ならば仇を取りたかったはずの犯人への想い……それは、彼女の悲惨な過去を知ってしまったからなのか、あるいは友人だったからなのか、それは誰にも分からない。ただ、彼女のその姿は、仇を取れなかったことへの謝罪をしているかのようだった。


「……ごめん。家族を宮尾に殺されているんだ。恨む気持ちは強いはずなのに、こんな選択を迫ってしまって」

「……いいの。もちろん、自分の手を汚してでも、だなんて考えてないから安心して。そんなことを、あのお姉ちゃんが望んだとしたら……ううん、あり得ないな。だってお姉ちゃんは優しかったもん」


 にこりと、疲れたような笑顔をこちらへ向けて見せる。どこかその在り様は、年長者としての振る舞いを思わせるものだった。


 これで、全員の意見は一致した。宮尾 藤花の記憶は、このまま取り戻さない。そしてそのためにも、俺たちはもう宮尾と会うことはない。いや、会ってはいけない。それに……。


「俺は宮尾だけじゃなく、みんなとも会わないようにしたい。この事件との関係を、なるべく思い出させたくないから。それに……」


 顔を上げ、全員の顔を見渡す。押しなべて寂しげな表情をしている。当たり前だ、ここ数日、家族とも思えるくらいに一緒に過ごしてきた仲間たちだ。別れを告げるのは寂しい。でも、そうでなくてはいけない。


「宮尾が戻って来る……もしそんなときが訪れたら、その時に……みんなで会って、笑い合いたいんだ。だから、それまではみんな、元気にしていて欲しい。これは俺のエゴだから、付き合う必要はない。街中で偶然会うこともあるだろうし、その時は普通にしてもらっても構わない……どう、かな」


 全員、黙って静かに頷いた。これでいい。これで、宮尾 藤花という女の子の人生が、ようやく正しい形で始まるのだ。歪んで積みあがった全てを壊し、新たに彼女の形を作り上げてくれれば、それでいいんだ。


「最後に一つ、いいかな」


 零れる涙を拭いながら、中原は俺へと問いかける。


「君は、それでいいんだよね。一生かけて守ると誓うほどに好きだった女の子を、自らの手で突き放してしまって。君の人生を変えてくれた、そんな子ともう会わないなんて、出来るの?」

「……できますよ。だって」


 俺は、彼女の言葉に笑顔で答えた。


「どこにいても、離れていても彼女のことを想う……それが、愛でしょう?」



 こうして、一連の事件は終わりを迎え、俺たちはそれぞれの道を歩むこととなった。決して綺麗な別れではない。全員がすべてに納得していた訳でもない。これから先、宮尾 藤花がまた記憶を取り戻し、暴走を始める可能性だってある。

 しかし、それでも……わずかな時間でもいい。彼女には幸せな日々を送って欲しい。今までの不幸をすべて取り戻せるような、そんな人生を過ごして欲しい。


 これは、みんなの望みであり、一つの幸福なのだ。これを『』なのだと、俺は思う。









 全員の離散を見届け、森谷は静かに研究室へと戻っていく。その道すがら、暗い廊下の中、一人の男性が彼の目に留まった。初老の、やや怪しげな雰囲気をまとったその影は、彼の存在に気付き近寄ってくる。


「やあ、上手くいったようだね。さすがは森谷くんだ。やはり、君のような人材をこんなところで遊ばせておくには勿体ないのだがね」

「……いけしゃあしゃあと。すべてあなたが仕組んだことでしょうに……俺は、あなたの元へなど帰るつもりはありません。どうぞ、お引き取り願います」


 淡々と、しかし憎悪を込めて森谷は男へと言い放つ。しかし、その男はそんな彼の態度を意に介さないように、小さく笑った。


「……何がおかしいんです」

「いや、なに……それだけ強がっておきながら、私の手紙一つで萎縮いしゅくしてしまうとはね。いやはや、傑作けっさくだよ。あの狗米村も、最初はそんな感じで噛みついてきましたからね。最終的には従順な仔犬へと成り果てましたが……君は、そんなつまらない存在へとならないよう、忠告しに来たのですよ」


 そして、その男は無防備にも森谷へと背中を向け、陽気に歩き去っていく。仕留められる距離であったが、森谷は彼へと刃を突きつけられなかった。

 ギリッと奥歯を噛み締め、悔しさを滲ませる森谷へ、その男は独り言を呟くように言った。


「ああ、そうそう。私の店は、今日で閉店いたします。彼らにもそれとなくお伝え願いますか? ……いやなに、コーヒーというのにも飽きましてね。もうちょっと若者を呼べるようなものを探求してみたいのですよ。……それでは」


 背中を向けたままそれだけ言って、彼は闇の中へと消えていった。後に残された森谷は、その手に握られた封筒と手紙を、さらに強く握りしめた。


「地獄へ落ちろ、大野 幸貞……」

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