第31章 旅立ちと別れの相転移

 移動中の車内、森谷はずっと沈んだ表情のまま、無言で運転をしている。胡桃を乗せてハイテンションになり、危険運転をされるよりはいささかマシではあるが、ずっと黙っていられるのも困ったものだ。

 そして、俺の座席の隣には宮尾がいる。暮れゆく街並みを見ながら、少しだけ笑顔を浮かべる彼女の様子は、まるで遠足帰りの子どもの様だった。


 俺の親戚の家は、祖師ヶ谷大蔵そしがやおおくら駅周辺の川沿いにある。そして、宮尾の家は四谷よつや方面……そう、代々木駅からほど近い東京総合国際病院からは、彼女の家と反対の方面へと向かっている。それなのに、彼女はなぜ俺の家へと向かう車に同乗しているのか。

 その答えは、先ほどのやり取りにあった。


 それは、俺たちが森谷の車に乗り込む時の出来事――――





「あの……私は後でもいいので、先にハルを送ってもらえませんか? いろいろあって、ハル、多分すっごく疲れてると思うんです」


 突然の提案だった。家に送ってもらう順番まで指定する、というのは図々しいことだと、さすがの宮尾もよく分かっているはずだ。それでも、彼女は申し訳なさそうな表情で、森谷に懇願したのだ。


「え? ああ、それは構わないよ。彼が大変な目に遭っている、というのはさっき聞いたからね。それで、君の家はどこなんだい?」

「え、す、すみません本当に……ええと、祖師ヶ谷大蔵駅の方なんです」

「……祖師ヶ谷大蔵、っと……意外と遠いんだな、それで? え~……」


 森谷は、カーナビをいじりながら、恐らく彼女……宮尾の住所を聞こうとしているようだった。しかし、相変わらず彼は、人の名前を憶えていない様子で、何か考えている。

 そんなことは想定内であった。想定内なのだが、そろそろ名前くらい覚えても良いと思うのだ。


「宮尾ですよ! もう、本当に覚えないですよね……私は、四谷の方です」

「ごめんごめん、四谷ね。……うん? 四谷って……近くない?」

「だから、こうして頼んでるんですよ。ハルを先にして、って」


 聞いてないよ、というようにガックリと項垂れる森谷。代々木駅から祖師ヶ谷大蔵駅までは、おおよそ13km程度。しかし、今はちょうど17時を回ったころ……そろそろ、帰宅などで道が混雑をし始める時間帯なのだ。それを往復するのだから、すんなり行けたとしてもかなりの時間はかかってしまう。

 それだけならまだしも、そこから病院を通り越して、さらに反対方面の四谷まで送るとなると、それなりに時間がかかる。いくら研究や患者の相手がひと段落ついたとしても、これだけ時間のかかることは、できれば避けたいはず。

 しかし、少しだけ考えた様子の彼から出た言葉は、また驚くべきものだった。


「ま、乗り掛かった舟、というやつだよ。俺もこの事件……いや、もっと前から、この全部の件に対しては関与してしまっているんだ。これくらいは何てことないさ」


 森谷の言葉には、罪滅ぼしの一環、という意味も含まれているのだろう。そう彼が思うのであれば、俺が彼の行動を止める意義はない。


「では……すみません、お願いします」

「はいはい」


 こうして、俺たちはまず、俺の家へと向かうことになったのだ。





「あ、ハル見て! あれ、多分芸能人だよ!」

「おいおい、少しは落ち着けよ……」


 窓の外を眺めてはしゃいだ様子の宮尾に、俺は少し辟易へきえきとしながらそれをいさめる。まったく緊張感というものが感じられないが、もしこれで、宮尾を先に家まで送っていた場合……無言の森谷と二人きりでドライブすることになっていたのだ。そう考えると、こんな彼女でも居てくれて非常に助かっているのは事実だ。

 少しは多めに見てやらないとな、とそんなことを考えた時だった。


「……ねぇ、ハル……」


 先ほどとは打って変わり、不安そうな面持ちで俺を見つめる宮尾。


「米村さんの、あの言葉……ハルは、どう考えてるの?」

「どう、って……そう、だな……」


 森谷の乱入、そしてちょっとしたお茶会を始め出してしまったことで、あの恐怖感が薄れていたのは事実だ。しかしこうして、また考える時間が出来たのだ。そろそろ、米村の先ほどの会話の意味……それについて考えなければならない。


「宮尾も気づいたとは思うんだけど、米村さんの様子……あれは、明らかにおかしかった。そうだな、何て言うか……」

「人格が変わったような?」

「そう、それ。普段の米村さんは、あんな風に奇妙に笑ったりしない。それに、よっぽど慌てていたのか、電話を掛ける相手も間違っていたし」


 信号が赤となり、車はゆっくりと停止する。周囲の雑音が一気に静まり、俺の声が一層、車内の隅々へと広がっていく。


「そして……明らかにおかしいのは、村田さんの死を知らないと言ったこと……あの時の米村さんの様子から考えると、あれを演技だというのにはさすがに無理がある。そう考えると、米村さんの身に何かが起きている、ということになる」

「何か……かぁ……」


 うーん、とうなりながら首をかしげる宮尾。聞き耳を立てるつもりはなかったであろう森谷も、前を向いてはいるが、恐らく何か考えているようだった。


「そもそも、今さらどうして俺の両親の話を始めたんだろう……米村さんの話が正しければ、奥村によって殺されたということは新しい事実だ。だけど、それを今伝えるのは……」


 単刀直入に言えば、まるで無意味な話なのだ。もし、それが米村の言う『決着』、あれに関係するのであれば、意味はあるのだろうが……


「……ハルのお父さん、お母さんは正しい人だったって伝えたかったんじゃないかな? 霊身教れいしんきょうを脱退して、悪いことはしたくない、っていう強い信念みたいなものがあって、それで……えっと……」

「……気を遣わなくていいよ、ありがとう。それで、俺の両親は殺されたんだ……そう、か。俺の両親の正当性を、か……」


 そんなことを俺に話したところで、例の組織や霊身教れいしんきょうに対する怒りや憎しみが増していくだけなのに。どうして彼は、そんな話を――――


「ちょっと良いかい?」


 運転席の森谷が、顔は向けずにこちらへと話しかけてきた。バックミラー越しに、彼の神妙な表情が映し出されている。


「君たちの聞いた、その米村さんからの電話っていうのは、俺は聞いてないんだけど……今の話を聞く限り、米村さんは過去の清算をしたいんじゃないのかな?」

「過去の、清算?」


 それは、普段の森谷からは考えられない言葉だった。科学的根拠もない、ただの感情論。しかし、それを聞いた俺はハッとした。


「もしかして……それが、米村さんの……?」

「いや、推測だけどね。君が今回の事件の決着を付けるんじゃなく、彼が過去の……10年前の事件の決着を付けようとしている、そう考えるとどうかな?」


 そうだ、10年前の事件に関わる人物……あの串刺しになり回転させられていた奥村。無数の点滴を投与された渡辺。そして、顔を吹き飛ばされた村田。

 彼らに共通しているのは、10年前の『エンドラーゼ』の事件に関わっているということ。そして、それに米村も関与していたのだ。それも警察官としての立場ではなく、例の組織の一員として。


 10年前の関係者……代表研究者である鈴石は、恐らく死んでいる。その鈴石の所属する会社も倒産し、社長は死に、社員はそれぞれ散り散りになった。そんな社員たちは、今さら『エンドラーゼ』研究について何か語ろうとはしないだろう。何せ、突然職場を奪った研究なのだから。


 それに、『エンドラーゼ』の投与を受けた被害者の遺族たち。彼らは、東野 遥……いや、彼女の乗っていたタクシーの運転手である、息子をあの事件によって殺された支倉の事故により、閉口せざるを得なくなった。団結して戦おうとする者たちに最も有効な手段は、代表者を見せしめにすること。それが恐ろしく効力を発揮したと見て良い。


 そして、当時鈴石と共同研究をし、都合により途中で退職した岬の母親。彼女は死んでこそいないが、それこそ、死んだ方が良かったような状態にされてしまっている。

 岬の父親は、娘への愛情を絶ってでも、自分の妻の事件を封印しようとしていたために狙われなかった。しかし、その娘は事件を追ってしまった。結果、彼女の生命は無事であったが、長期入院を余儀なくされたのだ。そうなってしまえば岬も、もうこの事件を追うことはないだろう。


 最後に残った関係者だった、奥村、渡辺、村田は、今回の事件により全員が死を遂げた。しかも、かなりの凄惨性せいさんせいをもって。

 残るは、治験の審査を行なっていた、しかも霊身教れいしんきょうを脱退した吉岡夫妻の息子である俺……そして、当事者である米村 奎吾。見事なぐらいに、10年前の事件を語るものが、盤面から消え去るように仕組まれていたのだ。


「すべて、辻褄が合う……」

「うん、そういうことになっちゃうんだ。とすると、だよ? 彼の言う決着、それは恐らく……」


 すべてをゼロにする、それが米村のいう、『あのお方』……それの意思なのだとすれば、米村と俺は、あの家……この事件の、始まりにして終わりの家。あそこで殺し合い、そして生き残った方は、『あのお方』とやらに殺される、ということか。


 どうしたって、俺の死はまぬかれない。何しろ、相手は曲がりなりにも警察官だ。拳銃も携帯しているだろうし、近接戦においても、ある程度の武術は身に着けているはずだ。

一方の俺は、隣にいる宮尾にすら、腕相撲で負けてしまうような腕力なのだ。これは、勝負でも何でもない、ただの蹂躙じゅうりんだ。


「ゼロになる……か。もちろん、完全なゼロではないにしても……」

「そうだね、あえてこの事件や、10年前の事件を口外する人間は居なくなるよね」

「……」


 隣でポカンと口を開けている宮尾は置いておくとして、そうなると俺は、死ぬために明日、あの家へと向かわなければならない。それを断ることは、もうできないと考えて良い。



 ――――つまり、俺の命は、あと24時間を切っていた。



「……おや、意外と冷静なんだね。俺だったら、恐怖心でどうにかなりそうだけど」


 森谷の声を聞き、改めて自分自身の心へと問いかける。しかし、やはり不思議と恐怖心とやらは出てこなかった。むしろ、鈴石の幻影に脅かされていた毎日。得体の知れない恐怖との闘いだったあの日々の方が、今となっては恐ろしく感じるくらいだ。


「慣れ、というのとは違いますね……何といいますか、相手が米村さんだから、なのかもしれません。嘘をいていたとはいえ、どこかで俺はまだ、彼のことを信じている。そんな気がしてしまうんです」

「……そう、だよね」


 もちろん、岬をあんな目に遭わせたこと、それに異常な事件を何件も起こしていたという事実は変わらない。でも、どうしてだろうか。米村の警察官としての立ち振る舞い……あれに嘘は無かったと思うのだ。


「それで、米村さんが豹変したという話も聞こえてきたが……確か、彼は例の組織の小間遣い、だか何だかなんでしょう? だったら、その答えは分かる」

「え?」


 青信号に変わった信号を見てアクセルを踏む森谷は、さも当然のことのようにその口を開いたのだ。


「例の、TOX - A……あれを使ってるんでしょう。聞いたかもしれないけど、あれによって強い信仰心を植え付けることができるわけだ。しかし、それも長続きはしなくてね。薬の効果が切れてくると、インプリンティングというべきかな、その効果も薄れてくるんだ。そうすると、突然自我を取り戻して錯乱さくらんを始める……という感じだよ」


 森谷の言葉を聞き、急いで米村の発言を思い出してみる。最初は、焦った様子で村田の死を確認してきていた。そして、俺の問い詰めに対し、彼は……


「そ、そういえば米村さん、何か飲んでなかった? ハル」


 思い出したように、今までほとんど黙っていた宮尾が囁いた。

 そう、だ。彼の行きつけのカフェ・レストリア。あそこで、音を聞く限りは紅茶を飲んでいた……その時に、あの毒物を一緒に摂取したのかもしれない。そう考えれば、今の森谷の説明に合致する。


「そうだ……米村さんはあのカフェで薬を飲んだんだ。薬を切らさないように、誰かから薬を貰っていて、それで……そうだな、頭痛薬とか、そういう風に薬に書いてあれば、何の疑問もなく服用してしまう……」


 今までの事件例からかんがみても、あの毒物の作用速度はとても早い。そうであれば、彼が豹変するまでの一瞬の間……あの瞬間に、彼の体中に毒物が回ったのだ。


「……これで、完璧に米村さんが、その……あのお方、だったか? その人によって操られていることがはっきりした、という訳だね。ま、その犯人については、これ以上の深追いはしない方が良いけれど……っと、祖師ヶ谷大蔵駅……ここかな?」


 白熱した議論だったが故に、自分たちの居場所が分からなくなっていた。いつの間にか俺たちは、もうそんな遠くまで来ていたのだ。


「あ、ああ……ここですね……」


 思わず拍子抜けしてしまい、俺の体に脱力感が襲ってくる。楽しみにしていたドラマが、緊急特番で放送を延期された時の感覚に似ている。


「ここからどの辺だい? 住所を言ってくれれば……」

「あ、いや大丈夫です。近いので……それに、そろそろ宮尾を送ってあげないと……」


 そう言って隣の座席を見ると、もう少し眠そうな表情の宮尾が目に映った。そう、そろそろ彼女は眠くなってくる時間帯なのだ。


「気を付けてくださいね、宮尾、眠いと機嫌が悪くなるので……」

「まぁ、特別俺から何か話すことはないけど……注意しておくよ」


 苦笑いを浮かべつつ、森谷は軽く親指を立てた。


「それじゃ、ありがとうございました。また明日にでも、岬の様子を窺います」

「そうすると良いですよ。……ところで君の大学、最寄り駅は代々木上原駅じゃなかったかい? だったら、ここに住んでいても電車なら一本で行けるのに、わざわざ下宿するなんて……余程のことがあるのかな?」

「……」


 余程のこと。そう、大学入学当時の俺にとっては、とても重要だったことだ。決して、ネグレクトを受けていた訳でもないし、過保護に育てられた訳でもない。ただ、本当の家族ではない……そんなことで、俺はあの家を飛び出していたのだ。

 一人暮らしを経験する、という名目で親戚夫婦には納得させたけれど……本当は、家族という名の赤の他人と共同生活をしている、ということに耐えきれなかった。結局それ以来、俺はこの家に帰ってくることはなかった。


しかし、この事件に巻き込まれて色々な人たちの、色々な思いや苦労を知った。そんな今だからこそ、そして、もう会えなくなるからこそ……最期に会って、今までのことを感謝し、謝罪したかった。


「すみません、それはまたいずれ……それでは、道中お気をつけて」

「……分かりました。君も、どうかゆっくり休んで」


 軽く手を振った森谷は、パワーウインドウを閉め、ゆっくりと駅前の商店街の方向へと車を走らせていった。後部座席の宮尾は、何か言いたげな目つきで、俺をじっと見つめていた。









 祖師ヶ谷大蔵駅から徒歩で数分……小さな川沿いに、俺を引き取った親戚の家がある。外観は、ここを飛び出したころの記憶と大きな変化もなく、ただ少し庭木の剪定せんていおろそかになっているくらいであった。

 本当は、何も躊躇ちゅうちょすることなく入っていきたかった。しかし、いざ玄関の前へ立つと、どうしてもすんなりと入ることができない。インターフォンを押してみようかと、そんな思案をしていた時だった。不意に、背後から声を掛けられたのだった。


「あ、あら? ……春来くん!? どうしたの、いきなり連絡もしないで!!」


 買い物袋を手に下げた初老の女性、高島たかしま 貴子たかこは俺の顔を見るや否や、頓狂とんきょうな声を上げて俺に駆け寄ってきた。


「あ、おばさん……お久しぶりです……」


 突然のことに動揺し、返答にきゅうする俺。久しぶりに会った親戚との会話と同じようなテンションの俺に、貴子は少し悲し気な顔を浮かべつつ、笑顔で言った。


「いいから、早く入って! 蚊に刺されるわよ!」


 鍵を開け、俺を押し込むように家へと入れる貴子。この強引なところも昔から全く変わりがないことに、俺は少しだけ安堵した。


「帰ってくるなら一言いってくれれば……夕飯、どうしましょ。お父さんには残りものでもいいかしらね……」

「あ、いやそんなお気遣いなく……カップ麺とかでも全然いいので……」

「若いんだから、そんなもの食べないの! だからそんなにせて……あら、その傷……」


 そう言うと、貴子は俺の右腕に目をやった。もうかなり時間は経つが、鈴石……いや、実際は井上という女性に傷つけられた腕には、まだはっきりと傷跡が残っている。そんな傷を、彼女は見落とさなかった。


「これ、どうしたの?」

「え、ああ……そうだ、洗濯物を取り込む時に、ハンガーでちょっと抉っちゃって」


 以前アパートの大家にいた、転んだ、というものよりは具体性のある理由だったが、貴子は怪訝けげんな様子で、俺の目をじっと見つめている。


「……嘘を吐いても、私にはすぐに分かるんだから。理由は、言いたくなったら言ってちょうだいね」

「……」


 こんな些細な傷でも、この人にとっては大事なのだろう。そういう風に思うくらいに、俺はこの人に大切にされていたのだ。

 以前までの俺なら、こんなことは考えもしなかった。預かりものなんだからケガさせたらいけない、そんな風に思っているのだろう、と嫌な風に思ったのではないか。

 なんて、なんて俺はバカだったんだろう。


「ああ、春来くんの部屋はそのままにしてあるからね。夕飯が出来たら呼ぶから、それまで待ってて」

「……はい」


 少し、胸の辺りが締め付けられる思いがした。これだけの時間が経っていても、あれだけ不愛想だった俺に、こんなにも優しくしてくれる。それを俺は、本当の家族じゃない、と突き放して。


「……ひとまず、俺の部屋に行くか……」


 パタパタ、と買い物袋を片手にリビングの方へ駆けていく貴子。それを見届けた俺は、ゆっくりと階段を上がっていく。

 この家の二階には、俺の部屋がある。もともとは、いずれ産まれると信じていた彼女たちの子どものための部屋だったそうだが、結局子どもは産まれず、俺が住むことになったのだ。


 部屋の前までたどり着く。相変わらず、飾り気のないシンプルなドアだ。

 そう広くないこの家で、誰も使わなくなった部屋なのだ、今は恐らく、備蓄品などの置き場にされているに違いない。そんなことを考え、俺はゆっくりと部屋のドアを開けた。


「……え?」


 そこに広がっていたのは、俺が飛び出していった頃と、寸分のたがいのないレイアウト。読み散らかした雑誌などは整理されて、ベッドや勉強机には埃一つなかった。

 布団は、触ってみると今日干したかのように、暖かく、ふわりとしている。枕カバーもきれいで、定期的に掃除がされているということが、よくわかった。


「そんな……なん……で……」


 俺は、この部屋の様子に愕然がくぜんとした。行ってきます、とも言わず、無言で飛び出していった俺。食事中もスマホをいじるだけで会話もロクにしなかった俺。正月も、夏休みも、一切この家に戻ってこなかった俺。そんな俺の部屋を、貴子は毎日のように掃除をし、布団を干していた。


「……くそ……なんだよ……これじゃ、俺は……」


 俺がいつ帰ってきても、今までの生活が出来るように整えられた部屋。その様子に、俺はもう堪えることが出来なかった。

 目から溢れた後悔と謝罪の水滴が、頬を伝い、やがて床へと落ち、カーペットへ染みを作る。


「……一人で、俺……バカじゃないか……」


 何が、血の繋がらない他人だ。何が、ただのお節介な住人だ。ここには、しっかりと愛があったじゃないか。目には見えないけれど、立派な家族の愛が。

 零れ落ちる雫の勢いはそのままに、膝から崩れ落ちた俺は、静かに……ただ静かに、泣き続けた。









 ひとしきり泣き終えたころ、一階から貴子の呼ぶ声が聞こえた。夕飯の出来た合図、それも、以前からまったく変わっていない。しかし、少し彼女の声も老化によるものだろうか。張りが無くなったようにも思えた。


 部屋から出て階段を下りる俺。リビングから光が漏れ出しており、そこに、もう一人のよく知った影があった。


「お、おお! 春来じゃないか! 一人暮らししてからずっと帰ってこないから、心配したんだぞ!」


 笑顔で俺に声を掛けてきたのは、高島たかしま 英三えいぞう。貴子の夫で、今は確か小さな会社の経理を担当していたと聞く。


「え、ええ。すみません、全然帰れずに」

「いいよ、忙しかったんだろうしな。そんで、今日は何でまた急に帰って来たんだ? 盆でもないし、まだ夏休みなのか?」

「そう、ですね……まだ」


 英三もまた、貴子と同じようによく喋る男だ。基本的に、この二人がいれば他の人間は話を聞いているだけで終わってしまうことも多い。


「そうかそうか、ほら、そこ座れ。もう酒は飲めるんだろ? どうだ?」

「あ、いえ俺は下戸げこなので……」


 英三は、毎晩のように酒を飲んでいる男だった。そういえば以前、俺と酒を飲みたい、などと言っていた気もする。断るのは気が引けるのだが、下戸げこなのは事実であったし、何よりこれから大事な話をしなくてはならないのだ。酩酊めいていしてしまっては話にならない。


「そうか……で、何でまたこんな時期に帰って来たんだ? それと……その腕。それに何か関係があるのか?」

「お父さん、デリケートな話なんだから……無理に喋らなくて良いわよ?」


 英三もまた、俺の腕の傷に気付いたようだった。さとすように英三をとがめる貴子だったが、もう俺は、全てを話す心づもりでいたのだ。こんな時に、あんな最悪な話をするなんて出来の悪い息子だ。でも、今でなくては話せない。いや、話すことができない。


「二人とも、聞いてくれるかな。俺の、今置かれている状況について……」









「……それ、本当なのかい……?」

「あああ……なんてことなの……そんな……」


 一通り話せる範囲で、今回の事件について語り終えた俺。英三は眉間にしわを寄せ、貴子は青ざめた様子で、しきりに手で口を覆っている。

 話すべきだったのかどうか、それは分からない。しかし、話しておかなければ、あんなに俺のことを心配し、愛してくれている二人なのだ。彼らもまた、支倉たちのように事件の調査をしてしまうことだって考えられる。そうすると、あの組織に狙われることとなる。


 俺は、この二人には悲劇に遭って欲しくないのだ。


「全て、事実です。それで俺は、明日……生家で真犯人と対峙たいじし、決着を付けなくてはならなくなったんです……」

「それで春来、お前は後悔……しないんだな?」


 絞り出したかの様な声で、静かに英三は言った。


「友達や、その家族……みんなのために戦う決意をしたんだな?」

「……そう、ですね。行かなければ、みんなが大変な目に遭う。それは、俺には耐えられないから……」


 大事な人たちを、これ以上傷つけたくない。それに、米村……操られたままの彼も、可能なら助けたかった。


「……はぁ」


 それを聞くと、英三は小さくため息をく。そして、彼はおもむろに口を開いた。


「実を言うとだな……霊身教れいしんきょう……アレの存在を、拓馬くんに話したのは俺なんだよ。拓馬くんが製薬関係の仕事をすると聞いて、こういう思想の人間たちもいるぞ、と。あの時は軽い気持ちで紹介してしまったんだが……そうか……」


 責任を感じているかのように俯き、小さく震える英三。


「いえ、俺がこの話をしたのは、責任の所在を明らかにしたいからじゃないんです。……こんなことになってから言うことじゃない、そうは思いましたが……」


 震える英三の肩を優しく叩いた俺は、今まで言えなかった言葉を口にした。


「今まで俺は、二人のことを偽物の家族だ、と思っていました。だから、身元を引き受けてくれてからもずっと、素っ気ない態度を取ってしまっていました。ご機嫌取りをしているように感じてしまっていたんです……」

「……」


 二人とも、俺の言葉を黙って聞いている。もしかしたら、それは薄々と感じていたのかもしれない。それくらいに、俺の態度は悪いものだったと、今さらながら実感するのだ。


「でも、こうして今回、こうして事件に巻き込まれて、色んな人と出会って……それで、二人に謝りたい、と思ったんです。こんな俺を……バカで、独りよがりな俺を、見放さずに愛してくれた、二人に……」


 泣くまい、と決めていた俺だったが、堪えることはできなかった。一音一音を紡ぐごとに、俺の目には涙が溢れていく。


「もうすぐ死ぬ頃になって、ようやく、こんなことに気付くような俺を……引き取ってくれて……育ててくれて……本当に、ありがとう……そして、ごめんなさい……」


 パタリ、とテーブルに涙が零れる。俯いたままの英三は、小さく震えながらも、うんうん、と頷いている。貴子は、顔を手で覆いながらも、同じように頷いているようだった。

 そして、頬を濡らす俺に、英三は同じように涙を湛えながらポン、と頭に手を置いた。


「いいんだよ、謝らなくて……感謝も、そんなこと、いいんだよ……だって、家族なんだから……血は繋がらなくても、家族なんだからな……」


 そう言うと、英三は俺の頭をでてくれた。優しく温かな手のひらは、俺の涙腺をさらに刺激し、また二粒、テーブルへと雫を落とさせる。


 そうして俺は、声を上げて泣いた。つられたように、二人も一緒になって泣いてしまった。


 本当の意味で、家族となった夜。明日にはもう離れてしまうけれど、俺と二人にとって大切な時間となった。









 そして、翌朝の8時10分――――

ガチャ、と玄関のドアを開け、俺は外へと出る。比較的閑静かんせいな住宅地だが、この時間ともなると、もう車や人の通りは多く、決して静かな旅立ちではなかった。


「もう行っちゃうのか……できれば、もっと話をしていたかったんだけど」


 寂しそうに俺を見つめる英三。

 俺は、今日の17時……あの家で、米村と会わなければならない。そうなると、岬の見舞いなどの時間を考えると、もう悠長ゆうちょうにはしていられないのだ。


「ええ……できることなら、そうしたかったです。でも、これは俺の……いえ、俺たちの戦いでもあります。すみません、こんなことになってしまって……」

「いいのよ……残念ではあるけれど、私たちは春来くんが帰ってくるって、信じて待っているわ。ね?」

「お、おう。絶対に、帰ってこい。そしたら、今度こそ一杯やろう」


 信じて、待つ……その言葉に応えられはしないだろうが、精いっぱい、俺なりに足掻いて見せようと思う。そして、できることなら、あの二人の寂しそうな笑顔を、本当の笑顔に変えたいと強く思った。


「……善処しますよ。じゃあ、行ってきます」


 二人に見送られ、俺は駅へと歩き始めた。この先に待っているものが何であれ、もう俺は心に決めたのだ。米村を迎え撃ち、できることなら、二人とも生きて……そして、ここに帰ってくるんだ。


 俺の戦いを神が祝福しているかのように、今日の空は高く蒼く、どこまでも澄み渡っていた。

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