名探偵の殺し方
フタエ
プロローグ
プロローグ
「なるほど。つまり、殺したのはあなたですね」
名探偵は、自らの持つ彫刻のような美しさを一切動かさずに言い放った。
相手の女性は荒れた口唇をあんぐりと開け、目元のしわが消えるほどに目を見開いている。
驚くのも無理はない。彼女は、この名探偵に仕事を依頼したはずなのに、次の瞬間には殺人犯であると断定されてしまったのだから。
依頼人の表情の変化を、名探偵はじっくりと観察し、そよ風のような息を吐いた。
この男にかかれば、ため息さえも絵画のようだ。
僕は一連のやり取りを台所から傍観していた。
ここは古い造りの館だ。
客の応接をしている居間までの障害物はないものの、流し台は壁に向かって取り付けられているため、ことあるごとに背を向けなくてはならないのがもどかしい。
アンティークな飾り棚から、華奢な花の絵柄に彩られたティーカップをニつ取り出し、インスタントコーヒーの粉を計量スプーンで計って入れる。ティーカップでコーヒーを飲むことに対する違和感から首筋がむずむずするが、仕方がない。コーヒー党のくせにティーカップしか用意していない家主が悪い。
沸騰したお湯をそそぎ、片方のカップに、用意しておいた液体を入れる。大切なのは思い切りのよさ。
鼻をつく独特な匂いに思わず笑みがこぼれる。
恨むなら、こんな危険物をそこらに放っておいた自分を恨んでほしい。
トレーにカップを乗せて音を立てずに運ぶのは、この一ヶ月で習得した技術だ。
「
細心の注意を払って、カップを二人の間のローテーブルに置くと、止まっていた時が動き出すみたいに、女性が声を荒らげる。
「私が殺したって、どういう意味ですか?! 冗談ならやめてください」
「あいにく、私にはジョークのセンスはないようです。小説的な比喩表現でもありません。言葉はそのままの意味にとらえていただいて結構ですよ」
ああ、そんな言い方をしたら。
女性はとうとう、顔を真っ赤にして立ち上がった。しかし、言い返す言葉が見つからないようで、ただ金魚のように口をパクパクとさせている。
振勤でこぼれてしまったコーヒーを注意深く拭きとりながら、僕は記憶をたどる。
今回の事件の経緯を。
すでに事件ではなくなってしまっているのかもしれないが。
本日、飛び込みでこの『名探偵・蓮水』事務所兼自宅を訪れた女性からの依頼内容は、『昨日から行方不明となっている父親の捜索』であった。
女性は五十代後半に見えるが、化粧っ気がない上にくたびれた様子なので、ひょっとするともっと若いかもしれない。
父親は八十代で、認知症を発症している。一人娘のことすら正しく認識できていないらしい。母親は三年前に他界しており、独身の彼女が一人で父の介護をしている。
父には徘徊癖があり、今回のような事例は一度や二度ではない。もはや警察は相手にしてくれず、女性の心情としても警察は信用できない。
そこで、巷で評判の『名探偵・蓮水』に依頼することを思いついた、とのことだ。
いったい、どこでの評判なんだ。グーグルで星でもついていたっていうのか。そんなわけないか。
それを確かめる術は今の僕にはないのだけど。
なんにせよ、たかが口コミごときで、よくこの館に足を踏み入れる気になったものである。
端から見れば、幽霊屋敷か植物園にしか見えないだろうに。
蓮水さんは、そんな奇特なお客様に対して、最初は恭しく対応していた。
「一人で介護をされているなんて、大変でしょう。施設に任せてしまえばよろしいのでは」
「父はとても優しい人だったんです。私はそんな父が大好きでした。母がいなくなってしまった今、寂しい思いをさせるようなことはできなくて」
名探偵の黒真珠のような瞳が瞬いた。
父親が行きそうな場所の候補を聞き出し、一息。
「なるほど。つまり、殺したのはあなたですね」
こうして、この爆弾発言と相成ったのである。
「つまらないなあ」
この後に及んで、更に依頼者の神経を逆撫でるようなこと言って、名探偵はベルベットのソファに体を沈める。
ストライプのスラックスに包まれた長い脚を組んで、しまいには桜色の貝がらみたいな爪をいじり始めてしまった。
「お父様の居場所を探すことは至極容易です。八割方見当は付いているので、目撃者を見つけ出せば小一時間後にはお父様の元へ辿り着くでしよう。しかし、その頃には時既に遅く、お父様は息を引き取っている、というシナリオなのでしょう」
なんという強引な憶測。もはや妄想の域だ。妄想探偵。古本屋で埋もれてる小説のタイトルにありそう。
彼女も同意見だろうと踏んでいたのだが、なんと女性は顔色を蒼白にカラーチェンジしているではないか。
「なぜ、そう思うんですか」
あくまで冷静を装おうとする平坦な声。
そんな質問をしてしまうこと自体が、肯定と同義だというのに。
「私、言葉の使い方にはうるさい方でして。あなた、お父様のことを『優しい人だった』と過去形を用いて説明していたのですよ。『大好きでした』ともね」
蓮水さんは指の逆剥けを剥きながら言う。
「私はこう捉えました。父が優しかったことが過去のことであるか、父の存在そのものが過去のものであるか。あるいはその両方か。見極めるためにカマをかけてみたのですが、見事に引っかかりましたね」
いくらなんでも重箱の隅をつつきすぎだ。書けないくせに文章作法にうるさい小説家志望者か。
現実世界では小説みたいに一つ一つのセリフを推敲することはできない。
だから、それくらいの言い間違いなんか、考えすぎだと一蹴してしまえばいい。
だが、女性の涙腺はついに決壊してしまい、頼まれてもいないのに自白し始めた。
それは名探偵の推理とまったくの同様で、まるでリピートの音声を聞いているような気分だった。
蓮水さんは耳に入れることすら拒否するように顔をしかめている。
僕はもう少し上手に表情をつくれているはずだ。たぶん。
「ああ。実につまらない事件だった」
過去形で言う。
「もう興味は失せてしまったので、あなたとのやり取りが脳に保存されることはないでしょう。我が優秀な助手の脳にもね。そうだろう、
名指しされてしらばっくれるわけにはいかないので、僕は小さくうなづいた。
「罪を重くするか、軽くするかは、あなた次第ですよ」
その黒真珠の瞳が再び女性を映すことはなかったが、声音には少し温もりがあった。
「結末までつまらなかったな」
ようやっと悲劇が幕を閉じ、館には蓮水さんと僕の二人きり。
場の華やかさに女性の存在は関係ないのだなと思い知る。
ただ単に、室内のいたるところに花が植えられたプランターが置かれているせいではあるかもしれない。
そんな物理的に華やかな空間においても存在感を独り占めにしている男は、ソファに腰かけたまま、おっさん臭く肩を回す。
若そうに見えるのになあ。
「これが小説ならプロローグにも値しない。涙を流しておけば丸くおさまると思っている。これだから人間は嫌いだ」
「あれ、声がかすれていますよ。しゃべりすぎたんじゃないですか」
気配りの達人たる僕の差し出す冷めたコーヒーには目もくれず、蓮水さんは来客側に置かれたままの口のつけられていないティーカップを手に取り口に運んだ。
「うん。口を潤すには丁度いい温度だ」
「こっちも冷めてますよ」
「虫を殺す成分を高濃度で接種すれば、さすがの私でも無事ではいられないよ」
バレたか。よく響くように舌打ちをし、ポケットに忍ばせておいた殺虫剤の瓶をローテーブルに放り出した。
「無事でなくさせたかったのに」
ソファの空きスペースに、無理矢理尻をねじ込む。
せまい。むさ苦しい。ざまあみろ。
「勘のよさはさすが名探偵ですよね。味オンチのクセに」
「失敬な。私は違いのわかる男を自負しているんだ。これは先日いただいたコロンビアの豆でいれたものだろう」
「残念。インスタントでした。あれはもったいないので僕が全部飲みました」
悔しかろう。涼しい顔をしてもう一口味わっているが、内心では悔しがっているはずだ。そうに違いない。
「悔しくなどないさ。理に適った判断だと感心はいているがね」
「なんでわかるんだよ! エスパーか!」
「エスパーではない」
紅をひいたみたいな美しい口角のラインが、キュッと上を向く。
「名探偵だよ」
「知ってるよ! ムカツクなあ!」
ああ、もう、やってられない。勢いまかせに立ち上がる。丁度、夕食の仕度をする時間だ。
「昨日買ってきた鮮度のわるい鶏肉があるので、夕飯は鶏刺しです。カンピロバクターで死ね!」
「親子丼がいいなあ」
「くそっ、親子丼の口になっちゃったじゃないですか! 卵も使い切れるし丁度いい!」
「やはりよい判断だ。浪人生にしておくのはもったいないな」
「浪人生じゃない。フリーターです!」
そう。僕、英 実詞は高卒フリーターだ。
この『名探偵・蓮水』の事務所兼自宅で住み込みでアルバイトをしている。
蓮水さんは助手と言うけれど、やっていることは家政婦(夫?)だ。よく言えば、執事だろうか。
なぜ僕がこの人の側にいるのか。
それは、名探偵を殺すため。この、完全無欠の名探偵を。
僕は名探偵を殺すために生きているのだから。
「さて、カップぐらいは私が片づけよう」
「やめてくださいよ。あんた、自分で思ってるより違いのわからないポンコツなんだから」
「えっ」
ガッシャーン。
完全無欠……ときどきポンコツ(いや、だいぶポンコツ)な名探偵の殺し方とは、どのようなものなのだろうか。
とりあえず、この割れたソーサーで頸動脈をかっ切ってやろうか。
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