エウリュアレーと渡る虹

管野月子

   

1章 赤の線

01 虹の生まれる場所

 なぜ、こんな時にばあちゃんの言葉を思い出すのだろう。


綾十あやと、機が熟したその時に、生まれてくるからね』

『なにが生まれるの? きがじゅくした時? 木のみ?』

『ふふ、機が熟すというのは運命が動き出す、ちょうどいい時になったということ。木の実ではないんだよ。でも……そうだね、あれは果実みたいなものかもしれない。因と果の実。綾十の行く末を指し示し導く、生きた果実だよ』


 ばあちゃんの言葉はなぞなぞのようで、意味は分からなかった。分からないまま答えを教えてもらうことなく、ばあちゃんはこの世を去った。

 もう、十年も前の話だ――。




 今、俺は夢を、見ている。


 眩しいほど、白く、輝く世界。

 十数メートルはあるだろう高い天井はアーチ状になっていて、遺跡を思わせる白っぽい石造りの大きな窓から、光が注ぎ込んでいる。

 暑くも寒くも無い。

 ふわふわと浮いたような感覚で、音もなく、風も感じない。


 頭の芯がぼんやりとしている。

 見覚えのない景色。

 思い出せないだけなのか、そもそも知らないのかも分からない。ただ居心地は悪くないと思う自分がいる。見覚えが無いのに、懐かしいとすら感じている。


 不思議な……夢だ。


 このまま目覚めたならきっと気持ちいいだろう。いつまでも毛布の中でぬくぬくと過ごす、休日の晴れた冬の朝のように……と思うのに、一向にその気配が無い。そもそも夢の中で、これは夢だと気づくなんてことはあるのだろうか……。

 ふと湧いてきた不安に、俺はゆっくりと立ち上がった。

 立ち上がってから、ずっと座っていたのだと気づくぐらいに、ぼんやりしていたのだと思う。改めてぐるりと周囲を見渡した。


 光にあふれた部屋は教室ぐらいの広さで、ほぼ円形になっている。床にはどこからか転がってきた物なのか、それとも元から配置されていたのか、膝丈ぐらいの石が点々と置かれていた。

 多くは崩れかけ原型を留めていないが、残った欠片から卵型や球形だったのだろうと想像する。芸術的オブジェというより魔術的な印象を受けるのは、ゲームのしすぎだろうか。

 いやここは、いつかどこかで見たゲームの一場面かもしれない。

 夢なのだから過去の記憶を元にしているに違いないのだから……。


 部屋の周囲は、等間隔で並んだ大窓になっていた。

 窓といってもガラスがはめられているわけではない。西洋の神殿にあるような、壁を切り抜いただけのもので窓の上部分はアーチ状になっている。その一つに近づいてみた。

 高さは三メートルほどで横幅も軽く両手を伸ばしたくらいある。近づいてよく見てみると、窓というよりは通路のようだ。向こう側は眩しい光でよく見えない。濃い霧でもがかっているのだろう。

 部屋から通路の出口では大股で十歩ほど。慎重に端で立ち止まって手を伸ばすものの、何も触れない。それどころか伸ばした自分の指先すら白く霞んで見える。

 風が流れる感じも無く音も無い。

 匂いすら感じない。

 外、ではないのだろうか。


 部屋の中に戻り、何気なく足元を見る。

 乾いた、壁や天井と同じような白っぽい石が敷き詰められている。そこに裸足でいることに気がついて俺は眉根を寄せた。足の裏に石の感覚はない。自分は本当に床の上に立っているんだろうか。

 壁に手を伸ばすと、わずかにざらついた感覚が指先にあった。けれどそれすら抜歯する時にかけた、麻酔の抜けきらない唇のように痺れていてよく分からない。

 まだこの体が、世界の感覚に、馴染んでいない……。


「なんだそれ」


 笑いながら自分の思いつきにツッコミを入れてみる。

 声を出して呟いたはずなのに、まるで他人の声を聞いているようだ。

 普段の生活ではありえない無音の世界にいて、床を擦るように歩く自分の足音は微かに分かるから、耳が聞こえていないわけではない。ただ……すべての感覚が、おかしい。


 夢は……覚める気配がない。


 そもそも自分は本当に、夢を見ているのだろうか。




 得体の知れない不安が這い上がってきた。

 夢だと思い込んでいる場所が夢でなかったとしたら、自分はいったい、どこに居るのだろう。

 両手で目をこすりもう一度周囲を見渡しても、何の変化もない。

 静かで明るくて無機質な空間があるだけだ。


「なんだよ、これは……」


 まぼろしを掴むような頼りなさに声が震える。

 背中に、冷たい汗が流れる。


「誰か、誰かいないのか?」


 光に溢れた部屋は何も返さない。

 壁伝いに歩き窓をひとつひとつ覗き見ていくが、どれもが白い霧に覆われている。他に出入りできるような扉も通路も見当たらない以上、この霧の向こうが出口であり入口のはずだ。


 壁に背をつけたままずるずると、膝を抱えるように座りこんだ。

 目を閉じていても、瞼を透かして光が刺さる。


 少し落ち着け。

 これは……夢だ。最初にそう感じたはずじゃないか。

 夢ならただ覚めればいい。

 起きて、机の上の目覚ましアラームを止めて、さっさと着替えて朝食をとる。

 じいちゃんはもう朝の散歩に出ているかもしれない。父さんが出張から戻るのはいつだっただろう。小言のうるさい母さんと姉貴は相手にしないようにして、今日は早めに家を出よう。

 高校生になって初めての夏休みまでもう少し。友達と夏の予定も計画しないと。


「目覚めろ。早く目覚めろ……」


 呼吸のように何度も呟く。

 呟きながら次第に声が強くなっていく。

 このまま一生、何が何だかわからないまま、夢のような世界から出られなくなるのではないかという恐怖が忍び寄る。冗談じゃない。


「早く、目覚めろ!」



 叫び声と同時に、カタリ、と音がした。


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