42 海のお約束なんだが

 比較的混んでると言える海水浴場で難なく場所を取ることに成功し、ビーチパラソルと少し大きめのブルーシートを地面に設置し終えた頃。

 水着に着替えた俺はそのビーチパラソルの下で大の字になっていた。


 いくら海に来たと言っても俺は元々インドア派の人間、いきなりテンションが上がるなんてことはない。


「暑い……」


 視界のほとんどを占めるのはビーチパラソルの骨組み部分だが、時折近くを通る人の影が視界にちらついている。

 暑さで意識がボーッとする中、一つの影が俺に覆い被さる形で止まった。


「拓也君」


 影はザクザクと砂を踏む足音と共に俺へと近づき、鈴を転がしたような声で俺の名前を呼ぶ。声の特徴と俺の呼び方から大体誰が来たのかは予想出来た。


 椎名えり、彼女は相変わらずの無表情で俺を左側から覗き込んできた。


「ああ、何か用……ぶはっ!」


 突然吹いてしまったのは別に何か面白いことがあったからではない。

 俺を覗き込んでいるので当たり前だが彼女は現在軽く屈んだ状態。体勢的に俺の視界には彼女の豊かな胸が広がっていた。

 吹いてしまったのはあまりにも突然そんな光景が俺の視界内に入ってきたためだった。それにしても彼女は着痩せするタイプらしい。

 

「どうしたの!? 大丈夫なの!?」


 俺が驚くとさらに彼女が近くに寄って来る。

 段々と迫る双丘に俺は慌てて自身の無事を伝えた。


「大丈夫、大丈夫だからあまり近づかないでくれ!」

「そう……」


 しかし俺の言い方が悪かったのだろう、気づけば彼女は俺から数メートル離れたところで体育座りをして落ち込んでいた。

 やってしまった、彼女を拒絶するつもりは全くなかったのだが結果的にそうなってしまったのは事実である。


「いやこれは違うんだ」


 咄嗟に彼女に弁解しようと試みるも上手い言葉が出てこない。


「何が違うのよ」

「それは……」


 ここで本当のことを言えば誤解は全て解けるのだが言ったら言ったで俺はきっと彼女に冷たい目を向けられる。

 考えてもみてほしい、素直に『あなたの胸の大きさに驚きました』と伝えて、『はい、そうでしたか』という言葉が返ってくるだろうか?

 答えは否、断じて否。大抵の人は一歩下がってゴミを見るような目を向けてくるに違いない。

 そんなこんなで色々考えてその二つを天秤にかけたとき、俺の中で最終的に傾いたのはそれでも前者の方だった。やはり本当のことを伝えないままは気分が悪かった。


 俺は本当のことを伝える決意をし、先程から重い口を無理やり開く。


「その……胸が近かったんだ。あのままだと当たりそうで、そっちも気づいてないようだったから……」


 言ってしまった、そう思うと同時に彼女から向けられるであろう視線に身構える。

 だが彼女は目を瞑った状態の俺に何かを言い返してくることはなかった。


「そ、そうなの……」


 その声に目を開けると彼女はただ下を向いていた。

 いや下を向いていただけではない、よく見ると彼女の顔はほんのりと赤く色づいていた。

 彼女の顔が赤くなっていたのはもちろん拒絶されたわけではないということが分かった安堵もあっただろうが大部分は恥ずかしさからくるものであると彼女の静かに身悶える姿がそう語っていた。


 それからしばらくして現実に復帰した彼女はハッと何かを思い出したように声を出す。

 続けてビーチパラソルの近くに置いてある荷物の中からとあるボトルを取り出した。そのボトルには『UVカット』の文字、察するに日焼け止めであろう。


 しかしまさかな、ついさっきあんなことがあってそんなベタな展開あるはずがない。だが俺の想像は現実になったようで。


「拓也君、日焼け止めを塗ってくれないかしら?」


 ついさっきのことでよく俺に頼んでこれるなと彼女のメンタルの強さに感心するが、彼女が未だに赤い顔をしていることから別にメンタルが強いということもなさそうだ。


「良いのか?」

「何がよ」

「いや何でもない。分かった、それを貸してくれ」


 彼女から日焼け止めのボトルを受け取り、横になるよう促す。

 それにしても何故俺なのだろうか?

 こういうことは普通他の二人に頼むことであってあえて俺に頼む理由はないだろう。

 まぁ単純にビーチパラソルの下で大の字になっている俺が暇に見えたから頼んだという理由だけかもしれない。


「背中をお願い。さっき塗ったのを忘れてシャワーを浴びてしまったのよ」

「流しちゃったのか?」

「そうよ、マヌケな私を笑いたければ笑うがいいわ」

「いやそんなことはしないが」


 うつ伏せになった彼女との雑談の中で日焼け止めのクリームを塗る旨を伝えると、俺はクリームを彼女の背骨のラインに合わせて線上に出した。


「……ひぃあ!?」


 クリームを背中に出した瞬間辺りに響く甘美な声。

 咄嗟に周りを気にしてしまうが俺達に視線が集まったのは少しだけ、人が多いせいかそこまでではない。

 しかしだからといってこのままではいけない。

 このまま気にしなければ俺達は目立つし、なにより俺の人間性が疑われる。

 こうなったら彼女自身に声を我慢してもらうしかない、その考えで俺は彼女に声をかけた。


「もうちょっと声を抑えられないか?」

「それは分かっているのだけれど……ひぃあ!?」


 だがどうやら彼女は相当な敏感肌の持ち主のようで俺の手が少し触れただけでも変な声を出してくる。

 彼女も声を抑えようとしているようだが、ほんのりと赤い顔で必死に耐えている様が逆に周りの視線を集める原因となっていた。これでは逆効果か。


「まいった」


 その言葉が自然と口から出てしまうほどに俺は困っていた。

 だって手が触れただけで変な声をあげられるのだ。

 それも必死に耐えている様が逆に視線を集める。


「仕方ない、一気に塗るからタオルとかで口を塞いでてくれ」

「わ、分かったわ」


 彼女が自分のバッグの中からタオルを取り出し口に咥えたのを確認したところで俺は彼女の背中へと視線を移す。

 こうなったら勢いだ。勢いでやれば短い時間で終わる。多少視線は集めてしまうだろうが長く時間をかけているよりはマシだ。


「よしいくぞ!」


 それからは出来るだけ周りを気にせず一気にクリームを塗った。肩甲骨から腰の辺りまで満遍まんべんなくだ。

 彼女は俺の手が触れる度に必死にタオルで声を抑えているようだったがそれでも少しは漏れてしまったようで時折周りから『おー』という謎の歓声が上がっていた。

 それでも俺は手を止めずにやりきった。彼女の頼みを最後までやりきった。


 だが塗り終わった後、彼女の顔を見ると彼女はまるで捨てられた子犬のような目を俺に向けていた。


「バカ……」


 俺に視線を向ける彼女は若干涙目で。

 それは俺に背中を触られてくすぐったかったのと、恥ずかしかったのとが混ざった結果なのだろうということが窺えた。


「すまん」


 そんな彼女の表情に俺はなんとなく謝罪の言葉を口にする。同意の上なので別に謝る必要はないのだが、なんとなくそれが正解のような気がした。


 それから俺はしばらくの間、彼女を直視することが出来なかった。申し訳なさで、というのもあるが一番の理由は水着姿でぐったりする彼女が妙に艶っぽかったからだった。

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