不仕合わせに咲く花

節トキ

姉は、絶つ。


 明るくて可愛らしい、天性の愛され上手――私にはそんな妹がいる。


 五歳年下の妹は、私と同じ血を分けたとは思えぬほどの美貌の持ち主だ。珠のような子とはよく言ったもので、彼女の美しさは生まれて間もない赤子の頃から飛び抜けていた。当時まだ幼子であった私ですら、母の腕に抱かれた妹と初めて面会した時は声を失い、陶然と見惚れてしまったくらいだ。


 両親は、アカリと名付けた妹をそれこそ目に入れても痛くないという諺を体現するかのように大層可愛がった。


 両親だけではない。祖父母も親類もそうでない者も、大人も子どもも皆、名前の通り灯りに惹き寄せられるが如く、彼女に魅了された。


 アカリは美しい見た目のみならず、美しい心まで持ち合わせていた。彼女の清らかな性質は、成長するにつれて際立つ美貌と共に磨き上げられていった。そして誰しもに分け隔てなく優しく接する彼女は、ますます愛されるようになった。


 一人ぼっちでいる子には率先して声をかけ、素直になれず意地悪する子がいてもすぐに打ち解け、陰口を言う子だって彼女の人柄に触れれば、嫉妬心も忽ち憧憬に塗り替えられてしまう。




 美しく心優しいアカリを嫌う者など、きっとこの世のどこにもいないだろう――私を除いては。




 姉の私は、アカリとは正反対。


 存在感が薄い顔立ちに似合いの引っ込み思案な性格で、大輪の薔薇のような妹の引き立て役にもなれない雑草だ。


 両親による姉妹への対応の違いも、非常にわかりやすかった。


 私には仕事が忙しいと言ってろくに構おうとしなかったくせに、父も母もアカリに対しては過剰なまでの愛情を注いだ。その結果、姉である私はさらに顧みられなくなった。



 悲しくて不平を零せば、『アカリはまだ小さいんだから仕方ないでしょう』。


 寂しさに耐え兼ねて泣けば、『あなたはお姉ちゃんなんだから我慢しなさい』。


 アカリはアカリはアカリはアカリは。


 お姉ちゃんなんだからお姉ちゃんなんだからお姉ちゃんなんだから。



 この言葉を繰り返される内に、私は彼らにはアカリしか見えていないのだと思い知らされ、そうして愛情に飢え渇いた心は干涸らび捻れ、じりじりと歪んでいった。


 不満を訴えても無駄だと悟ったせいで、めっきり口数が少なくなった私を物分かりの良い子だと思ったのだろう。本音を閉ざしてから、両親は私にアカリの世話を任せることが多くなった。



 お世辞にも自慢の姉とは言えない不出来な私に、アカリは何故か両親以上に懐いていた。家では必ず私の後を追いかけ、お姉ちゃんお姉ちゃんと笑顔を向けて必死に構ってもらおうとする。おまけに忙しいと知ると我儘は言わず、空気を読んでそっと引いてくれる聞き分けの良さまで兼ね備えていた。


 素晴らしい妹だと、皆に羨ましがられた。こんな妹がほしいと口を揃えて言う友達に、しかし私は曖昧に笑って濁すしかできなかった。




 忘れもしない、あれは中学一年の時の夏休みだ。


 その日、私はアカリと二人で留守番をしていた。というより、無理矢理家に留め置かれたのだ。数少ない友人と遊ぶ予定があったのに、アカリが微熱を出したせいで。



『アカリの具合が悪いんだから、傍にいてあげなさい。あなたはお姉ちゃんでしょう』



 お姉ちゃんだから。



 両親はいつもの呪文で私を黙らせ、対してアカリには治ったら遊園地へ行こうと笑顔で約束し、それぞれ仕事に出かけていった。



 最初こそ心配したものの、アカリは仮病なのではないかと疑うほど元気だった。両親についでとばかりに押し付けられた家事をしようにも、その日に限っては何度制してもアカリも引かず、しつこく付き纏って邪魔をした。


 普段以上に纏わり付いてくるのは、大好きな姉に心配かけまいと気丈に振る舞いつつも、やはり具合が悪くて心が弱っているせいなのかもしれない。



 そう考えて懸命に堪えていたけれども、アカリに抱きつかれた弾みで畳み終えた洗濯物を蹴り崩してしまった瞬間、私はついに爆発した。




 怒りの衝動に任せて腰にしがみつくアカリを振り解くや、事もあろうか、力一杯突き飛ばしたのだ。




 まだ小さなアカリの身は軽々と跳ね飛び、散らかった洗濯物の上に投げ出された。




 少しの間を置き、アカリは火が点いたように泣き出した。


 フローリングに叩き付けられた衝撃のせいか、大好きな姉に拒絶されたショックか、恐らく後者の方が強かったのではないかと思う。



 起き上がることもできず、床に倒れたまま泣きじゃくる妹の姿をぼんやり眺めていた私だったが――――じわりじわりと、何かが込み上げてくるのを感じて震えた。




 湧き起こった震えはすぐに全身へと伝播して喉を頬を、くちびるを激しくわななかせた。


 自分が笑っているのだと気付いたのは、箍が外れたようなけたたましい声を吐き出しながら自らも床に膝を付いた時だ。




 嗚咽を漏らしつつ、私を見上げるアカリが、目に映った。おかしかった。この上なく無様なその顔が、この上なく愉しかった。




 こんなに笑ったのは、どのくらいぶりだったろう。




 その時、私の心に満ちていたのは、最高の歓喜。生まれて初めて知る、甘美な充足感。




 誰より可愛いアカリ。皆に愛されるアカリ。そんな彼女が、泣いている。悲しんでいる。絶望している。


 何の取り柄もない、私なんかの手で打ち拉がれている!




 ずっと自分の中に燻っていた薄暗い感情の正体を、私はここで初めて知った。


 誰にも言えず、言っても理解されないと諦めて一人で溜め込み続けてきた。自分自身でも否定し、必死になって見ないようにしていた。



 そうだ、私はアカリが妬ましかった。アカリが疎ましかった。アカリが、憎らしかったのだ。



 アカリを己の手で泣かせることで覚えた素晴らしい爽快感は、私が心の奥底にしまい込んでいた本音と向き合わせてくれた。私にとって、世界が変わった瞬間だった。




 その日、夜遅くに帰宅した両親は、さすがに申し訳ないことをしたと思っていたようで、友達と約束があったのに妹の世話をしてくれてありがとうと感謝を述べ、私にだけケーキを買ってきてくれた。

 まだ本調子ではないだろうから、とお預けを食らったアカリの目の前で食べるショートケーキはとても美味しくて、頬が綻んだ。後ろめたさは多少あったけれど、優越感の方が勝った。




 余程ショックだったのか、アカリは私との一件を両親に告げ口をしなかった。




 また、あんなことがあったにも関わらず、アカリのお姉ちゃん子ぶりは全く変わらなかった。それどころか、一層私にべったりくっ付くようになった。


 何かの間違いだったんだと、思い込もうとしたんだろう。大好きなお姉ちゃんが自分を拒絶するはずがない、事故のようなものだったんだ、お姉ちゃんもきっと後悔していると、私を信じようとしたんだろう。



 しかし、私はそんな彼女の希望を裏切った。何度も何度も何度も。



 あの日以来、私の行為はどんどんエスカレートしていった。両親の目を盗んではアカリに暴力を振るい、悦に浸る日々。


 アカリはその度に泣き、私はそれを見て大笑いした。


 我ながら酷い姉だと自覚していたが、自責の念に駆られることはなかった。


 叩かれても打たれても大好きだと縋るアカリが滑稽で、こんなものを愛する周囲の皆を見下す愉悦に酔い痴れていたのもある。



 それともう一つ。


 ケーキの件も含め、アカリを痛め付けると何故か私に幸運が舞い込むのだ。



 アカリのお尻を布団叩きで叩いた翌日、抽選で外れたと思って諦めていたライブのチケットが送られてきた。


 アカリの腹を青痣ができるくらい抓った時は、高校の部活でギリギリのところで逃したはずのレギュラーに選ばれた。主戦力のメンバーが怪我をして出られなくなったせいだったので結果こそ散々ではあったが、初めて出場できた試合はとても楽しく、良い思い出となった。


 大学では陰湿なイジメに遭ったものの、首謀者だった同学年の女子の家が火事になった。その子はそのまま学校を辞め、自然とイジメもなくなった。



 大学を卒業して会社に勤め始めると同時に、私は一人暮らしを始めた。とはいえ実家からそう遠くはない場所だったので、アカリはよくアパートに遊びに来た。


 この期に及んでも彼女は懲りておらず、姉の愛を妄信していた。



 本当に、愚かしいまでにいじらしい妹。



 そんなアカリの一途さが余計に神経を逆撫でし、私は二人きりなのを良いことにワンルームの部屋では実家以上に手酷く彼女を痛ぶった。


 アカリの涙は、私の幸せ。


 猿轡で塞がれた声の代わりに、心身の苦痛を必死に訴えて溢れる透明な液体は、何よりも美しく尊い。そしてその涙の輝きは、至極の宝飾品のように私を幸せの色で鮮やかに彩るのだ。


 アカリを苛むほど、私は幸せになった。


 深夜に決まって大勢の仲間を呼んで騒いでいた迷惑極まりない隣人は早々と引っ越し、きちんとゴミ出しをしているのにいつも待ち構えて文句を垂れる近所の老人は姿を見なくなり、ネチネチと嫌味を言って残業を強要する上司も左遷された。アカリが涙を流せば流すだけ私には笑顔が増え、心が満ち足りていった。


 まるでアカリに注がれた愛情を奪い、それを幸運として己が身に吸収するかのように。



 わかっている、ただの偶然だ。


 けれどこの数々の偶然が、妹への虐待に拍車をかけた。嫌なことがあれば、それを喚き散らしながらアカリを殴る。そうすれば心が晴れ、問題も解決する。恋が叶うおまじないに傾倒する乙女の心理と、少し似ているのかもしれない。




 そして今――――私はこれまでで一番の幸せに直面している。




 場所は、私のアパート。目の前には、アカリが五年も付き合っていた男性が神妙な表情で正座している。


 てっきり、アカリへの虐待がバレたのだと思い身構えていたのだが、彼は想像もしていなかった台詞を吐いた。



 曰く、結婚を前提に交際してほしい、と。



 アカリの三つ上、自分の二つ年下であるその人のことを、実は私も密かに想っていた。整った顔立ちもさることながら、性格も温和で優しく、有名大学を出て有名企業に務め、女性なら誰しもが求める条件全てを満たしすぎるほどに満たした最高の男性。こんな人が身近にいたら、心奪われて当然だ。


 現在大学四年生のアカリは、卒業したら彼と結婚するつもりだと言っていた。彼も隣でその言葉に頷いていた。


 どれだけ恋い焦がれようと、アカリが相手では敵うわけがない。だから、結ばれたいなどと考えたこともなかった。



 なのに、どうして。



 正直、全く理解できなかった。清らかで賢く美しく、誰もが羨む恋人を捨ててまで、何の取り柄もない日陰の雑草じみた私を選ぶ? ありえない。冗談だとしても、質が悪すぎて笑えもしない。


 適当に濁して受け流そうとしたものの、彼は本気だと訴えて引き下がらなかった。


 そうして押し問答を繰り返していると、恐れていたことが起こった――――ここにタイミング悪く、アカリが家にやって来たのだ。



 状況が飲み込めず首を傾げる彼女に、彼は私に告白した内容をそのまま口にした。




 まさかの事態に息を飲んで見守る私の前で――――アカリは、涙腺が暴発したかのような勢いで号泣し、床に崩れ落ちた。




 それを見た瞬間、私の中に大きな衝動が湧き上がった。


 これまでのように、妹の泣き顔が可笑しくて笑いが込み上げたのではない。そんなものとは全く異なる、初めての感覚。



 息が詰まって苦しい。早鐘を打つ心臓が痛い。苦しくて痛くて、声も出ない。



 それでも私は震える身を叱咤して、彼を促し今日のところは帰ってもらった。




 残されたのは、慟哭するばかりのアカリ。


 赤子みたいに声を上げて泣きじゃくる彼女は、今まで見た中で最も惨めで憐れで痛々しくて――呼応するかのように、私の目からも涙が吹き出した。



 そうして己の心身を襲う耐え難い苦痛を吐き出すように、泣いた。泣いて泣いて、泣きながら笑った。笑いに笑った。


 泣いて笑って、気が狂いそうなまでの絶望を感じながら、私は心の中でずっと燻っていた薄闇の正体を知った。



 存在を察知していたにも関わらず、触れて確かめようとしなかったそれは、知るのが怖くて逃げ続けてきた自分の真の想い。




 ああ、そうか。私は、アカリを憎んでいたわけじゃなかったんだ。




 ――――アカリ、ごめんなさい。私、彼と結婚するわ。




 泣き笑いの間に間にそう告げると、アカリは涙に濡れた目を向け呆然と私を見た。しかしすぐに顔を歪め、また伏して号泣した。




 私はアカリが憎かった。憎くて憎くて堪らなかった。


 彼女は、私がどれほど望んでも手に入れられないものを持っている。時が経つにつれ、花咲くように美しく成長した彼女は多くの人に愛され、あらゆる意味で満ち満ちていた。



 けれど、そんなことはどうでも良かった。きっかけにはなったが、私がアカリを虐げ続けたのは、嫉妬や憎悪などという単純な動機からではなかったのだ。


 その証拠に、肉体を傷付けはしても、彼女を蔑ろにしたり罵詈雑言を吐いて貶めたり、大切にしているものを奪ったり壊したりはしなかった。



 ただ憎んでいたのなら、彼女の美しい顔を潰せばいい。でも私はむしろ、顔に危害を加えることを避けた。アカリに私を見てほしかったから。


 心を完全に手折りたいなら、お前など愛していないと突き放せばいい。でも私は、一度も彼女への嫌悪を言葉にしなかった。アカリに縋ってほしかったから。


 そんなに目障りなら、事故にでも見せかけて殺せばいい。でも私にはそんなことできなかった。アカリに、愛されていたかったから。



 私は、確かにアカリを憎んでいた。けれど同じくらいアカリが可愛くて可愛くて仕方なかった。ずっと心が引き裂かれそうだった。



 いいや、とっくに引き裂かれ、見失っていた。



 だから私にしか愛せないやり方で、私だけの愛を示した。それが、彼女を虐待した理由だったのだ。



 憎らしくて愛おしくて、大嫌いで大好きな妹。


 この歪んだ愛情は、姉への思慕を責め苛みながらも一縷の希望をちらつかせ、それに必死になってしがみつこうとする彼女の姿を愛でることでしか満たされない。だってその瞬間だけは、アカリの心を私一人が支配できたから。



 アカリを傷付けていいのは、私だけ。

 アカリが泣きながら大好きだと縋るのは、私だけ。


 それを実感すると嬉しくて嬉しくて、笑わずにはいられなかった。



 だけど、それももうおしまい。



 愛しい愛しい、大切な大切なアカリ。私が今、彼女に負わせた傷は、暴力なんかよりも痛いだろう。拷問なんかより辛いだろう。彼女の心に、大きな跡を残すだろう。




 そして、私は幸せになるのだ――――アカリの愛を失う代償に。




 この時が来るのに怯えつつも、私はずっと待ちわびていた。


 今度という今度こそ、アカリは私に見切りを付ける。姉に愛を乞うことを止める。代わりに、私を憎むようになる。



 それが私の罰。醜い心で妹を愛してしまった、私にとって死ぬよりも辛い罰。



 本当は、彼など欲しくない。両親の愛も、もう要らない。世界中の誰にも愛されなくなったって構わない。アカリが愛してくれるなら、他に何も要らない。アカリが私を欲してくれるだけで、この上なく幸せだったのだから。


 しかし、理解してもいた。このままじゃいけない。愛する妹を、不幸にし続けてはいけないと。




 私は、アカリを愛している。ひどく歪んで、傍目には愛とわからない形にまで変質してはいるけれど、誰よりも何よりも彼女を愛している。



 だからもう、彼女を私という重荷から解放しなくてはならない。



 アカリ、アカリ、ごめんなさい。あなたが私の全てだった。あなたに愛されたかった。あなたの心が欲しかった。


 許してなんて言わない。言えるわけもない。


 私にできるのは――――この想いを生涯胸に秘めて、幸せになった振りをし続けることだけ。

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