幕間 狐の恩返し②

怪しい女

 雪山での遭難から三年の月日が流れました。


 奇跡の生還を果たした雪ノ森冬樹は、田舎にある小さな町工場で、新しいニット製品の開発事業をしていました。


 彼の生まれた雪ノ森家は、日本の高度経済成長期にホテル事業やスキー場の運営などで富を築き、財界にもその名が知られた、いわゆる大金持ちの家系で、冬樹は会社の経営者一族の嫡男として、将来、会社やグループを背負って立つ後継者となることを期待されていました。

 しかし、彼は一族の方針に背き、冬物衣料品の開発部門という窓際部署で、新たな商品開発と事業展開に熱を燃やし始めたのです。


 その頃、雪ノ森一族が経営していた会社《スノーフォレスト》は、バブルの崩壊とスキーブームの衰退によって主力事業が不振に陥り、様々な事業からの撤退、あるいは規模の縮小を余儀なくされていました。

 そんな情勢下での冬樹の行動は、一族の和を乱す反抗と捉えられました。本社を追い出され、曽祖父の代に少し縁のあった小さな町工場へ、出向という形で一人追いやれてしまったのです。


 それでも、冬樹はめげることなく働き続けていました。


 雪山で遭難したあの日、寒さに耐えきれず眠ってしまった自分を救ってくれたあの不思議な温かさをもう一度再現したい、と。その事だけを胸に秘め、彼は懸命に、何かに取り憑かれたかのように研究と開発に明け暮れたのです。


 町工場の人たちは、彼の姿勢に感化され、次第に一丸となって理想のニット製品の開発に取り組むようになりました。


 人を心から温める最高の編み物を作る。


 言葉にするのは簡単ですが、それを成し遂げるのは、困難でした。

 人類が、英知と歴史を積み重ねて獲得してきたありとあらゆる技術を試し、いくつもの試作品を作りましたが、どれも冬樹の理想とする温かさには遠く及びません。どれだけ作っても、それはただのニットです。ニットとは、人の身体を部分的に温め、寒さから守ってくれるものであって、人の心を温めてくれるものではありません。


 大きすぎる夢と、高すぎる理想を掲げた冬樹は、やはり、あの一夜限りの奇跡を再現することなど不可能なのか、と諦めてしまいそうになりました。


 日に日に冷たくなる初冬の北風が強く吹き荒れる夜のことです。冬樹が思い悩んでいると、そこへ


「ごめんください」


 と、一人の若い女性が、町工場を訪ねてきました。


 遅くまで工場に残っていた冬樹は、その女性の美しさに思わず目を奪われました。

 銀色に輝く髪と雪のように白い肌、服は所々に朱色の意匠があしらわれた純白の着物で、碧色みどりいろの瞳を見つめ返すと、こちらがその向こう側へ吸い込まれてしまいそうなほど、透き通った目をしています。


 美しく、そして怪しい女でした。


「……道に迷ってしまったのです」


 女はそう言いました。


 確かに、田舎の夜道は暗くてこの辺りは道も入り組んでいるので分かりにくいです。

 車のナビやスマホの地図といった文明の利器があっても、道に迷ってしまうことくらいあるでしょう。


 しかし、女性はそのような機器を一切持っていませんでした。

 車ではなく徒歩で、さらにスマホも紙の地図すらなく、この辺りを歩き回っていたと言うのです。


 ますます怪しい女です。


「……もしよろしければ、今晩、こちらに泊めて頂くことは出来ないでしょうか?」


 さらに女は、様々な事情の説明を全て省いた上で、図々しいお願いをしてきました。


 田舎と言っても、探せば民家は他にもあります。

 若くて美しく、今どき珍しい高価な着物を召した女性が、わざわざ寂れた町工場を選ぶなんて普通では考えられません。


 不審に思って断るのが一般的な反応ですが、その時の冬樹は何一つ迷うことなく、


「どうぞ」


 と、女性を工場へ招き入れました。




 冬樹は当時、町工場の所有者である老夫婦の家に居候をしていました。

 老夫婦もかつては、工場でニットを作る仕事をしていましたが、今では身体が追いつかなくなり、国からの年金を頼りに、小さな畑と田んぼを耕してのんびり余生を過ごしています。


 一人息子が工場を継がずに都会へ出てしまったので、先祖代々受け継いできた町工場を泣く泣く畳もうとしていましたが、かつて縁のあった雪ノ森氏の曾孫にあたる冬樹が、工場を使わせてほしいと訪ねて来たので、彼らは喜んで冬樹に工場を貸し、食事と寝床も厚意で提供していました。

 老夫婦は冬樹を、都会へ出て行ってしまった実の息子の代わりのように思って、彼のことを可愛がっていたのです。


 そんな彼が突然、若くて綺麗な怪しい女を連れて、工場から戻って来ました。

 老夫婦は驚き、冬樹に事情の説明を求めましたが、彼は女の味方をしました。


「昔の知り合いが突然訪ねて来て、今日はもう遅いし、風も強いからここに泊めてあげたいんだ」


 そのように言われてしまっては、人のいい老夫婦は断れません。

 女は結局、数日間、冬樹と共に過ごすこととなったのです。

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