月宮の兄妹

「失礼します」と、妖花はいつもと変わらない様子で、アパートの中へと入っていく。静夜はその後を追って部屋に入り、両手に持った大量の食材をよいしょと降ろした。


 妹を部屋に泊める。別に最初から断る理由などないのだが、なんとなく妖花と二人きりでこの部屋に居るという状況が、静夜には不思議な感覚だった。


 時刻は既に午後六時を回り、外はすっかり暗く、部屋の中は冷え切っている。カーテンを閉めた部屋は閉塞感が増していつもより狭く思えた。

 上着を脱ぎ、マフラーを取り、手洗いうがいまで済ませると、妖花はその長い銀髪を後ろで結び、腕まくりをして宣言する。


「それでは早速夕食を作りましょう。今日の献立は唐揚げです」


「え?」


 一瞬、妖花の楽しそうな笑顔が恐ろしく邪悪に見えた。


「兄さんは鶏むね肉の方が好きなんですよね?」


 まさかとは思うが、もしかして、あの時の冗談をまだ本気にしているのだろうか。


「そ、そんなこと、僕言ったかな?」


「言いましたよ? 兄さんは胸が好きだと」


「いや、少なくとも胸が好きとは言ってない!」


 そもそも、その「むね」とは果たして鳥の胸なのか、それとも別の何かの「胸」なのか。


「……」「……」


 無言で見つめ合う兄妹。先に折れたのは兄の方だった。


「……ごめん。お願いだから、その話はもう忘れて欲しい。今日は久しぶりに、妖花が作ってくれるいつも通りの唐揚げが食べたいな」


 両手を合わせて懇願すると、笑顔で怒りを示す妹は沈黙の後、「ま、まあ、兄さんがどうしてもとおっしゃるなら、そうします」


「どうしても。お願いです」


 もう一度頭を下げると、妖花は組んでいた両腕を解いて、また少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「じゃ、じゃあ、今日は兄さんも作るの手伝ってください」


「……」


 妹の申し出に、静夜は思わず呆けて、笑い出しそうになってしまった。


 あの妖花がそんなことを言うなんて珍しい。静夜は失笑を堪え、穏やかな笑みを返した。

「それはもちろん」と。



 昔から、夕食の準備と片付けは妖花の仕事だった。

 生まれた時から母のいなかった妖花は、仕事で忙しい父のために料理を勉強していたらしく、義父に引き取られた直後から月宮家の台所は、妖花に任されていた。

 静夜も負けじと料理を覚えたが、それも所詮、妹の見よう見真似で、徐々に腕を上げていく妖花には結局追い付けなかった。


 しかし、妖花は妖の血が流れているためか極端に朝に弱く、朝食やその他の家事は静夜の仕事となっていた。現在の舞桜との共同生活で、静夜が朝の内に全ての家事を終わらせているのは、当時の習慣の名残でもある。


 名前に「夜」が入っているのに朝に強いとは変な話だが。


 ちなみに義父である月宮兎角とかくは家事が一切出来なかった。家族も近親者も久しくいなかったというのに、それでどうやってこれまで生きて来たのかと疑うほどに、彼の生活力は低すぎた。

 本人は息子と娘に任せきりではよくないと頑張って家事を覚えようとしていたが、あまりにも頼りにならないので、むしろ邪魔者扱いされ、さらに不満げになっていたのを静夜はよく覚えている。


 そして、その義父が死んだ後も、この役割分担は崩れなかった。

 妖花は協会で働くようになってからも、頑なに夕食の仕事を譲らず、静夜に手伝わせてくれたこともあまりなかった。それはきっと、彼女なりの意地だったのだろう、と今になって静夜はようやく理解する。


「……あの時は、私がわがままを通して協会に入ったのだから、兄さんにこれ以上の負担を掛けてはいけないと思って……。それに、もう兄さんに頼って、守ってもらうだけの自分はやめにしようって、そう決意したばかりの時だったので……」


 鶏肉(いつも通りのもも肉)に下味をつけながら、妖花は当時を回想する。


「逆に僕は寂しかったよ。もう僕の力なんか必要ないって言われたみたいで……」


 その隣で静夜は、サラダに使う野菜を洗いながら、あの時の想いを吐露した。


 ずっとすれ違っていた。兄妹はずっと二人で近くにいたのに、互いになんとなく溝を感じて、無意識のうちに距離を取っていた。


「妖花が高校生になって、特派が出来てからは、家の中で顔を合わせることも減ったし」


「休日に大掃除をしたり、お昼ご飯を一緒に作って食べたり、二人で鍛錬をすることもなくなりました」


「なんか、今更って感じもするけど、」


「でも、ちゃんと気付けて良かったって、そう思います」


 失ってしまった時間を取り戻すように。今のこの時間を忘れないように。


 実家のキッチンよりも狭い台所で、互いの呼吸を感じながら、義理の兄妹は心の底に沈んだ淀みを、まるで甘いココアを作る時のように、優しくかき混ぜて溶かしていく。


「妖花の方は最近どうなの? 学校とか、ちゃんと勉強してる?」


「そこは心配しないで下さい。最低限、恥ずかしくない成績は維持しているつもりです」


「それ以外は?」


「相変わらずです」


「相変わらず、毎朝ラブレターの山?」


 試しにからかってみると、妖花は微妙な表情でカクっと首を折り項垂れたので、答えを察する。


「兄さんが卒業してから、少し量が増えました」


「え? それ関係ある?」


「意外と見かけますよ? 『お兄さんがいなくなった寂しさを僕が埋めてあげます』とか、『シスコンのお兄さんより俺の方がいいだろう?』みたいな一文」


「……相変わらず、律儀に全部の手紙を読んでるんだね」


 おかげで静夜は、母校の後輩が自分の事をどう思っていたのか知ることが出来た。

 妖花は憂鬱そうに目を眇めながら続ける。


「当然です。少しでも対応を間違えると、同性の反感を買うんですから」


「反感を買いたくない相手とかいるの?」


「いえ、別にそういうわけではありませんが、変に悪目立ちするのも嫌じゃないですか?」


「まあ、それもそうか」


 高校二年の冬になっても、学園のアイドルの悩みは尽きない。


「最近は一年生の男の子とか、同性からの手紙を増えて来て、断るのも大変なんです」


「誰かいいなぁって思う人とかはいないの?」


「私は、今はそういうのに興味が持てないので……」


「じゃあ友達とかは?」


「それもあまり……。仕事がありますし、結局、大きな隠し事をしたままでは健全な友人関係なんて作れません」


「……だよね」


 静夜にも覚えがある。結局、陰陽師とは孤独なものだ。


「ですから、大学へ行って驚きました。兄さんにあんなにも多くの友人がいるなんて、知りませんでした」


「……うちの専攻は男子が少ないからね、一塊ひとかたまりになってるだけだよ」


「それでも、康介さんとは随分と親しそうでした」


「まあ、アイツはね……」


 彼の事をまっとうな友人と呼んでも良いのか、静夜には分からなかった。義父のような立派な陰陽師になろうとして、あるいは、妹を守れる強い兄になろうとして、人付き合いを軽んじて来ただけに、友人の作り方とか線引きというものがいまいちピンと来ないのだ。


 ただ、康介が悪友として親しい間柄である事だけは間違っていないようにも思う。


「私は、兄さんが人並みに大学生活を楽しんでいるようで、安心しました」


「……それもこれも妖花のおかげだよ」


「いえ、兄さん自身の人徳です」


 鍋に油を注いで火をつける。部屋の暖房も効き始め、キッチンは暖まる。オレンジ色の照明が二人を包んだ。


「でもそれだけに、なぜ兄さんが栞さんとお付き合いしないのか、疑問でなりません」


「ぶふっ!」


 突然、背中を刺されて静夜は噴き出す。油の温度を見ていた妖花はじろっと横目で兄を睨んだ。


「栞さんのような恋人がいれば、兄さんは普通の大学生として完璧になれると思うのですが、どうしてお付き合いしないんですか?」


「……す、少なくとも、学部内で一番人気のある女子学生と付き合える大学生は普通の大学生じゃない。それに恋人を作らないと大学生として不完全なんてこともないだろう?」


「でも、栞さんは間違いなく、兄さんの事が好きですよ?」


「ウッ……」


 今度は心臓が止まりそうになった。妖花に殺されそうになるのは三年ぶりだが、今はあの時以上に胸が苦しい。


「まさか、気付いていないなんてことはないですよね……?」


「そ、それはまあ、……そんなこと、ないけど……」


 声を出すのも精一杯と言うように絞り出す。いくら何でもそこまで鈍い男ではない。

 ここで「え? 何のこと?」とでも言おうものなら静夜は間違いなく、妖花の手によって消されていただろう。


 当然、静夜は栞の気持ちを察している。明確な言葉があったわけではないが、普段の態度や言動にそれは現れていたし、さらには先日の忘年会でのやり取りだ。これで彼女の気持ちが分からないなどと宣う男がいるのなら、そいつは間違いなく少年漫画かライトノベルの主人公だ。


 だが、静夜はこれでも、栞の想いのほんの一部くらいは理解しているつもりでいる。


「それでも、僕は栞さんの気持ちには応えられない」


「……それは、舞桜さんがいるからですか?」


「それもまあ、ないことはないけど……」


 仕事の都合上とは言え、舞桜は静夜と二人でこの六畳一間の狭い部屋で一緒に暮らしている。お互いにその気はないが、今の状態で栞を受け入れるのは、確かに不誠実だ。


「でも、実を言うとそういうことじゃなくて、舞桜がいるいない以前に、僕じゃダメだってそう思うんだよ。……栞さんはもっとちゃんとした人を頼るべきなんだ。今日の総会に集まった《平安会》の人たちを見ただろう? 彼らは、僕と同世代の人たちでさえ、僕よりも強くて、陰陽師としての覚悟も決まってる、立派な人たちだ。京都にはそういう人が他にもたくさんいるし、それは協会でも同じだ。……僕じゃダメなんだよ。少なくとも、今の僕じゃ……」


 鍋の油が煮えたぎる。妖花はため息をついて兄から目を背けると、鶏肉を揚げ始めた。ジュウ、と音が鳴って油が跳ねる。余計にお腹が空いて来るのを感じた。


「……相変わらず、兄さんは真面目ですね」


「それ、絶対褒めてないよね?」


「はい。全力で貶しました。そんなつまらない意地ばかり張っていると、気付かないうちに大切なものを溢してしまいますよ?」


「溢して困るものなんて今の僕には何もないよ。何もないから、下らない見栄を張り続けて、必死に自分を保つしかないんだ」


 たとえ中身が無くても、その見栄も、意地まで失くしてしまったら、後には何も残らない。張りぼての存在の定義は、風に吹かれて脆く儚く、崩れ去る。


「……それは、どういうことですか?」


 妖花には兄の言っていることがよく分からなくて、難しい顔で首を傾げる。

 それを見た静夜は気恥しくなって、


「妖花は分からなくても大丈夫だよ」


 と、自嘲の笑みを浮かべてお茶を濁した。


 その時、鶏肉を揚げる鍋から少し大きな破裂音がして、妖花はそれに驚き身を仰け反る。静夜は「気を付けなよ」と笑って注意した。

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