第2話#人格の編成

私の歳は、S60(エスロクジュウ)だ。いつもこうやって何処かの星雲を語ってみる。

年号ははやふたつ過ぎ去った。


昭和は千葉の都会方面の蘇我(生まれて3年ほどである)。平成の12年間を、上空から見ると猪の様な形の市。千葉県の真ん中に位置する八街市で過ごした。非常にのどかでのびやかな環境であった。


八街では、小学校から3キロ離れた場所に住んでいたもので(バブルで土地が高騰した)、1キロ先のバス停に出向き、そこからバスに乗り小学校につくかと思いきや、正門を150メートルほど通り過ぎる。

大人になってから、この遠回りに気が付いた。


ここを買ったのはなかなかの冒険だと思うが、当時はこのあたりしか買えなかったのであろう。下水の処理は駐車場に設けられた浸透桝。

数年使うとすぐに染み込まなくなり、仕方なくポンプで汲み上げて、隣接している草原に流していたものだ。染み込んでいても、流していても結果は同じであろう。

今はなき建築会社よ、よくもまあこんな由々しい家を作ってくれたものだ。

普通に考えて、庭が北にあるなんて…ベランダも北向き。

親も親。この南北逆に作ってしまった風な家に住めると思ったのか謎である。


家のぼろくそを語ろうと思えば、まだまだ出るがとどめよう。


さあ、幼少期は“怖いこと”への挑戦をしたがるものではないか?

よく道とは言えない道を使って下校した。独りのこともあった。

子どもを持った今、絶対にあんな道は通らせたくない。

でも、どこを通って帰ってきたかなんて聞かれた記憶はございません。

保険に申請されている通学路を通ってこないと……なんて説明も受けたことがございません。

なので、道は選びたい放題なわけだ。

どんな遠回りでも家に着けばいいのだ。


八街の名物はやちぼこり(八街のつちぼこり)で、帰宅後は床に新聞紙を広げて、毛穴に入った土埃を落とす作業を強いられた。特産品には落花生、スイカ、ゴボウと様々あるが、“住”を経験した人間にとっての名(迷)物第一位はこれだと思う。


環境はのどかだが、私の生きた家庭は厳しめだ。TVは1時間、番組の制限は当たり前。

午前授業で昼前に帰宅すると、宿題をすぐに終わらせてからの外出は許されていたが、門限は13時だ。

なにが出来る??たまに、布団にもぐって「くそばば~~~!!!!」と叫んだことがある。

正直、小学生じぶん、苦痛な思い出しか残っていない。


狭められた世界で、何を得られるか?

自分を俯瞰≪ふかん≫に見られるわけもなく、日々、自分中心で、自分による遊びに没頭を余儀なくされた。


ファッション雑誌にお金を落としたことはほぼない。本屋までは車か自転車を使わないとたどり着けないし、お小遣いは月に一冊りぼんを買える程度で、周りと比べるとひもじい思いをしたことが多々あった。


まあそんな、ダサいトンチンカンな女だったわけだ。

井の中の蛙ってやつだ。


……しかしながら彼氏が居たことがあるのが意外でならない。

はじめは小学6年生。そしてぼちぼちと……

最初の彼とは、よくわからない関係だった。

お友達と同じ男の子を好きになってしまったのだ。

ひょんなことにその想い人から10×5センチ、ミッチリ思いのたけが綴られたラブレターというやつが、私のランドセルからポロっと出てきた。

初めてのことで、鼓動が走りすぎてハムスターにでもなったかんじだ。

高揚もつかの間。高揚感が疲れの原因になって電話しても楽しくなかった。ただあの感覚は忘れられないし、幼い私の声は震えた。


中学生の頃のお付き合いはこれまた難ありだ。

好きな人に「なあ!好きな人教えて!お願いだから!」と、好きな人なのにイラつくほどしつこかったし、彼には好きな人がいるとうわさで聞いていたから

「あんたの近しい友達だよ」

なんて、適当な人間の名前を伝えてしまったものだ。


結果、私はその適当な名前の彼と何か月か付き合ってみることになったのだが……どうも好きにはなれなくて……(当たり前だ)


高校一年になり、生まれた家にまた戻ることになった。(ここは説明を始めると、どろどろの親類関係をあらうことになる)

人間置かれた環境で劇変するもので

ダサい眼鏡勤勉少女は、まあ目が当てられる位に成長できたのだ。


成長したのは外見だけではない。

異常に面倒くさい女になった。女によくある特性の一つが発達した。

過去の武器を常に背後に持ち歩いていて、すかさずあげ足をとってマシンガンのごとく攻撃を辞めない。自分でも思う。こんな奴は彼女、ましてや妻に持ちたくない。

(この特性も家族に起因するのだが)


進路は、親が走らせたワンマンバス。様々な進路を提案した。

でも、終点は初めから決められていたのだ。

私は中学の時に読んだ白◎社の漫画の影響で、美容師になりたかったのだ。


「でも、あなた、手の皮膚弱いんじゃない??」


これは、完全にNOということだ。

偏差値をあまり気にしなかったので、私が余裕で合格できる程度の学校でファッションショーも体験するという服飾科を希望した。


「偏差値が低いから、あなたには合わない」


昔からわかっていた。“このおんなと戦っても無意味”

反抗期とは関係のない、母親への諦めが私にはあった。


面倒臭いのだ。

自己肯定感の小ささがうかがえるだろう?


進路を提案して、一度も肯定などされたことはない。

まぁわかってはいた。

テストは60点を取ると顔が曇り溜息、70点だと眉間に皺がより

80点「もうちょっと勉強しないとね」90点でやっと口角が上がるんだ。

だから期待なんてしない。彼女の正解の進路をもっていかなければ、すべてを否定されるのだ。


こうやって私は、母への忖度な人生を、私なりに生きてきたのだ。







 



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