第十二節 荒野の男
安息日がもう間もなく終わろうとしている。荒野で眺めるわたしの夕日は、雲間を流血の跡のように染め上げた。
先生は結局、わたしを許しておられたのか、愛しておられたのか、分からない。
わたしは十字架で死の間際まで、わたしを視ていたわたしの先生を視ている。その眼差しに敵意は感じられなかったし、むしろ慈愛に満ちておられた。
わたしは本当に先生に呪われているのか。もし、先生がわたしをこのような思考の渦に突き落とすために言われたのだとしたら、何故そうまでしてわたしを試すのかが分からない。わたしは先生を単純に愛しているだけでは駄目なのだろうか。
先生はわたしをお疑いなのだろうか。先生は、全て知っておられる。わたしが意思の弱い人間だということも、すぐに卑屈な考えに走ってしまうことも、全て分かっておられる。
わたしは所詮、考える葦なのだ。風が吹かれれば、それに靡く。細くか弱く、考えるだけが能なのだがそれに対して別段優れているわけでもない。しっかりと根を張っているようでも、人間にあっさりと抜かれてしまう葦なのだ。だから、先生に守ってもらいたいと思うのだが、それは甘えだろうか。
子供は自分を守ってくれる両親を愛する。両親の生まれた故郷も、両親の、その又両親の名前を知らずとも、両親を知っているし、愛している。その心に濁りはないし、偽りもない。わたしも同じように先生を知っているし、愛しているが、それはわたしの思い込みだろうか。
考えれば考えるほど、自分の信仰に自信が持てなくなる。それはわたしの弱さなのか、それとも人間の弱さなのか。しかし先生はそれを知っているはずで、結局それらはわたしの考えでしかなく、先生の本質を知るには至らない。
そもそも、わたしのような人間に、先生のような人を理解できるはずがないのだが、やはりどうしても、あの言葉の意味が、その単語の裏が気になる。それはわたしを生かすものか殺すものか知れないのだけれども。まあ、何かしら主語の抜ける方だから、もしかしたらわたしの受け取っている意味と、先生の言いたかった意味は全く別なのかもしれないが。
わたしが何故、先生の一言にこだわるのかと言えば、それはわたし自信が確証を得るためだ。
先生はわたしを裏切っていなかったのだと。わたしのしたことは正しかったのだと。わたしは誰かにそう言ってほしかった。けれど、そんなことは無理だと分かっているから、先生に言ってほしかった。
意味があることだった、という一言が不可能なのならば、せめて『貴方の罪は赦されました』と言ってほしかった。そのためには、あの一言の意味はどうしても解いておきたかった。
わたしがいなければ、先生の預言は成就しなかったのかもしれないのに、何故先生はわたしを呪ったのか。取税人も姦婦も乞食も愛しておられた先生が、わたし一人を呪うなんて。物凄く前向きに考えれば、なんと特別なことだろうと喜べるのだろうか。だがわたしがそれほど前向きで強かではないと、先生が一番知っておられる筈だ。
わたしにはこの十字架は重すぎる。わたしには耐えられない。わたしの重荷は、わたしの|頸木≪くびき≫はわたしには大きすぎる。背負って休ませてくれると言ってくださった先生はどこにもいない。負いやすい|頸木≪くびき≫だと言ってくださったこれは、奴隷の足枷のようにわたしの全てを奪い封じている。
先生、先生、わたしの神!
「語ってください。隷は聞きます!」
風に流されて、わたしの言葉はどこかへ消えていく。岩の下、草叢、木陰、そのどこにも先生はいない。
そうして喉が枯れるほどに叫び続けて、どれほどの時が経ったろうか。
わたしはいつの間にか、荒野のほら穴で眠ってしまっていた。眠っているのだという自覚がありながらも、頭はしっかりと起きている。
わたしは人の声を聞いている。こんな荒野に、こんなにたくさんの人の声が聞こえるはずがない。これは夢だ。そうでなければ、悪魔の囁きだ。
囁きは、わたしを罵っている。わたしの接吻を、たくさんの画家が描いている。あの最後の晩餐の事を、多くの画家が描いている。その中で、光輪を持つのは先生だ。別の画家は、十三人の人間のうち、十二人に光輪を描いている。光輪がないのはわたしだ。ある詩人は、わたしが地獄の底で悪魔の首に身体を食われる責め苦に遭っていると謳う。裏切り者の王。王の中の王を裏切った、史上最も有名な裏切り者。なんということだ、彼に罪はないのに、十二弟子の中にもう一人いた、あの同名の男は、表舞台を追われて風評に呑まれていく。『賛美』の名を、誰もが忌み嫌う。
ふとした時に、そうしたわたしの悪魔の手先という見解は間違っているのではないかという男が立ち上がる。
けれども、その様な者達に、わたしは省みてほしいのではない。あの老人や漁師や元取税人や、その後継者では、わたしは救われない。組織では、わたしは救われない。
わたしは救われているという感覚はなかった。しかし、わたしに対する様々な罵声をどこか冷静に受け止めている自分もいて、正直驚いた。
悲しい、寂しい、苦しい。それらを共有する存在はどこにもない。わたしは暇つぶしに聖書を口遊んだ。それでもわたしを見つめる冷たい視線から、目をそらすために。
嗚呼、吁ゝ、あああ、我が神よ! 何故私を見捨て給うた、何故私を貴方の愛から零したのか!
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