第七節 油売の男

 ベタニヤはとても貧しい村だった。しかしこの皮膚病の男の家に似つかわしくない香りがした。わたしの香油売りの鼻が、高価な香油の匂いを嗅ぎつけたのだ。これは多分、ナルドの油だ。ピンキリまであるが、売れば最低でも三百デナリで売れる。それだけの金があれば、施しどころか、数日分のパンをこの村の人々全員に与えることが出来るだろう。

 香油を持っていたのは、女だった。女は先生の近くに寄ると、死人にそうするように、先生の頭に注いだ。いくら先生に妬み心が出てきたからと言って、先生はわたしの先生なのだ。わたしにとっては、香油の高価さもそうだが、先生を死期の迫った病人のように扱ったことが許せなかった。思わず立ち上がり、彼女を責め立てた。

「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか! この香油なら、三百デナリオン以上に売れて、貧しい人に施しが出来たのに。」

 三百デナリオン、という値段に驚いた弟子の何人かが、わたしに賛同した。しかし、先生はそれを戒められた。

「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。私の為に立派なことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつも貴方方と一緒にいます。それで、貴方方がしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。」

 先生の視線が、わたしを捕らえた。やはり、先生はわたしの施しを知っておられたのだ。先生に、わたしの善が認められたようで、少し嬉しくなったが、次に先生はあまりにも絶望的なことを言った。

「しかし、私は、いつも貴方方と一緒にいるわけではありません。」

 それは、いつか先生がわたしたちから離れていくということだった。

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、私の身体に、前もって油を塗ってくれたのです。」

 ビシリ、と、わたしの何かに大きな、修復できないほどの大きな亀裂が走った。

 埋葬の用意、だと。前もって、だと。

 先生はもう間もなく死ぬと言うのか。わたしたちから離れていくというのか。

 わたしを救ってくださる前に、死ぬというのか。

 何故、何故、あああ、何故何故何故そんなことを!

 貴方は知っているはずでしょう、どんなにわたしが貴方に焦がれているか、貴方がどれほど麗しいか、貴方を愛した人間達がこの後数多、屍になるであろうことも理解して、尚もそんなことを何故仰るのだ!

 裏切られた気分だった。先生の教えを聞いて、それに導かれていれば、救われる。わたしのような者も救われるのだと説いてくださり、わたしはそれを励みに先生に尽くしてきた。いつか、この心の苦しみも失せ、自分の求めている完璧さが得られるのだと信じて、自分がどんどん嫌な自分になっていくのにも耐えて、眼をそむけ、先生に尽くしてきたというのに、先生はわたしが苦しんでいるまま、わたしから去ろうとなさっている。

 わたしを棄てようとなさっている。

「おい、どうした?」

 老人の声で、わたしはハッと我に返った。葡萄酒に酔ったかもしれないと、わたしは先生の許可を得て、家を出させてもらった。

 酷い絶望感だった。今までにこんな大きな重荷は感じたことがない。両肩にのしかかって、それはわたしの背中を曲げ、わたしの頭を垂れさせている。心地よいはずの夜風も、今は冷え冷えとした心に染みるだけだった。

 わたしは先生への尊敬の念が、掌に掬われた水のようになっているのに、気がついた。

 しかし、わたしは思い直した。わたしは卑屈で歪んだ人間だが、神の愛を体現しておられる先生は、それでもわたしを気にかけてくださっているに違いない。わたしは弱いから、今少し動揺しているだけなのだ、と。

 そうとも、先生ならば、たった一言わたしにかけてくださるだけで、この絶望感を取り除いて下さる。決してわたしへの救いを放棄したわけではないのだと示して下さる。

 わたしはそう思い直して、来た道を戻った。


 わたしたちは過越祭の種なしパンの祝いをエルサレムで行うため、今年もエルサレムへ上ることにした。しかしベタニヤでお疲れになったのか、先生はろばを持ってくるようにと仰せになり、弟子の中から二人を選び、晩餐(さん)を行う家の使用人を探して来いと言われた。わたしは命ぜられなかったので、おとなしく先生と一緒に待っている。

 ふと、わたし以外の弟子が離れたのに気がつき、わたしは思い切って、先生に尋ねてみた。

「先生、先生はいつ、御戻りになるのですか。」

「貴方も、悟らないのですか。」

 先生はわたしの言わんとしている事をいつも先回りして理解して下さっている。今回もそうだった。だが、それはわたしの望んだ答えではなかった。

「ごまかさないでください! 先生、わたしは先生を愛しておりますし、先生がただの預言者でもなければ、ペテン師ですらないことを承知しております。だからこそわたしは、貴方の愛の教えに従い、貴方がわたしを愛して下さっているということを確信しているのです。」

「それなら、どうしてそのような事を聞くのですか。」

「先生はお忘れです。貴方はわたしの全てをご存じですのに、わたしを不安にさせるようなことばかり仰います。先生は肝心なところは何時も語ってくださらないし、必要な所は沈黙を守られます。それが貴方のご計画であり思し召しならば、わたしは従うしかありません。しかし先生。わたしは羊なのです。羊飼いがいなければ、すぐに迷ってしまうのです。」

 すると先生は、静かに言われた。

「私が語らなかったのではありません。貴方方の眼が開いていないので、見えないだけです。」

「そうです、わたしは盲人です。だからこそ貴方に、眼を開いていただきたいのです。それなのに、先生は盲人の手を引くこともなく、手を叩いて誘導して下さるだけ。わたしは不安なのです。盲人を導くのであれば、手を握ってくださらなければ、どうして盲人は安心して前に進めるでしょうか。」

「もし貴方にカラシダネほどの信仰があれば、目が開かれるでしょう。」

 参った。これではわたしは信仰の薄い者だと自白しているだけになってしまうではないか。わたしは口をつぐみ、先生に詫びて、それから先生とは個人的な話をしなかった。

 先生が人よりも優れた人であることは、わたしの中で未だ揺るぎないものであったが、先生の印象というか、位置というか、そう言ったものは変化しつつあった。


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