第五節 律法の男

 数日後、先生とわたしたちは、首都エルサレムに入城した。エルサレムに来るのは毎年のことだが、これだけの大所帯で大門を潜ったことは流石にない。

 さて、弟子の一人に、熱心党と言う一種の過激派の出身の男がいた。わたしは彼とは旧知の仲で、彼が今、縁を切っている政党とも、旧知の仲だった。熱心党なんていう過激派は、いつでも怪我がつきものだ。だから消毒用の油のお得意様だったというわけだ。決してわたしが政治に興味を持っていたわけではない。皇帝だろうと王だろうと、わたしは詰まるところ、わたしの懐が痛まない程度の治政で十分で、そしてわたしはローマの手先が金を盗むのを見破ることが出来るので、興味が無かったのである。

 ある時、わたしがまたパンを買いに行くと、その熱心党の一人が声をかけてきた。わたしは久しぶり、元気だったかと言った主旨の挨拶をし、早い所買い物を済ませようとした。が、彼はわたしを引きとめ、家に寄れと言った。無碍に断るのも気がひけたので、わたしは承諾した。

 相変わらず、物騒な者が置いてある家だが、とりあえずパンと葡萄(ぶどう)酒は出された。だが食べる気も無い。

「時に、きみはあのナザレ人の弟子だそうだね。」

 わたしは警戒心を剥き出しにして、彼を見やった。彼はニヤニヤ、ニマニマと微笑みながら、パンを割いてわたしに手渡す。とりあえず受け取って、皿に置いた。

「しかしどうだろう。ね、きみ。ぼく達は今、律法やら何やら、ぼく達の先祖の知恵によって、穢れを避け、安息日を守ることで、とても秩序ある生活をしている。そりゃ、あの野蛮な兵士たちやらに苛められてはいるけれど。」

 回りくどい言い方に、苛立つ。この手の連中は、至極単純明快な事柄をくどくどと並べ立てて時間を稼ぎ、こちらが考えるのも億劫になった頃に、無理矢理同意させるのだ。この手のあくどいというか、白々しいというか…。とにかく、ネタの分かっている作戦ほど下らないものはない。わたしにそんな小手先の誤魔化しは効かん、と、腕を組んで背中を反らせた。

「なにが言いたい。」

 わたしは段々不愉快になってきて、いつでも帰ると踵を返せるようにしたかったが、いつの間にか、わたしの周りには律法学者が群がっていて、わたしはそうだ、人気の少ない曲がり角にある、こいつの家に誘導されていたことを思い出した。

「ぼく達は、あのナザレ人にぼく達の秩序を破壊されたくないのだ。彼の教えを守る哀れな民は、律法学者の言うことに逆らって、それこそ神の御望みではない争いが起きている。ね、きみ、頭のいいきみなら分かるね。これは国家転覆罪になる。」

 それは、裁かれれば最も重く残酷な刑と言われる、十字架刑に処されるほどの重罪だった。どれくらい重いかというと、ローマの属国であるイスラエルが、その刑を下すためにローマ総督に許可を求めなければならない程だった。わたしは政治的な事はよく知らないが、要するにイスラエル人の裁きに外国人が介入している、という事なんだろうか。

 わたしは回りくどい奴の言い分に苛々してきて、ざりざりと左の爪先で地面を叩いた。

「出来れば、ぼく達もそんな野蛮な事はしたくないのだ。だから、ね、きみ。あの男をぼく達に引き渡してほしいのだ。」

「引き渡して、どうする。」

「報酬は銀貨三十枚だよ。これだけあれば、恵まれない子供を集めて孤児院を作るだけの土地だって買えるだろう。きみは予てより、慈善事業家だ。取税人の不正を全て見破って、その分を施して貰ったという乞食の評判は上場だよ。ね、きみ。これはきみの日頃の行いを神に是認して頂く為に必要なことなのだ。」

「そんなことは聞いていない。先生を君たちに引き渡して、君たちは先生をどうするつもりなのか。」

「悪いようにはしないよ。」

 はっきりと言おうとしないので、わたしは馬鹿馬鹿しくなって、戸口に立つ律法学者を退けてその場を去った。律法学者としては、律法に背くようなことはしたくないのが本音だ。だれも、わたしに暴力を振るおうとする者はいなかった。その時、わたしは早い所先生の所へ戻りたくて、すぐに律法学者たちの陰謀を秘めた笑みを忘れた。あいつらについて、何か具申するよりも、先生に全てお任せした方が良い、と、思ったからだ。


 エルサレムはわたしたちの聖都だが、最近は巡礼者を獲物にした悪徳の商売人が巣食っており、中には異邦人の占いの館まであった。しかしだれもそれを咎めることが出来なかった。律法学者がたくさんいたから、というのもあったが、すでに染まった我らの聖都に、いまさら誰も進言しようとは思わなかったのだ。

 誰もが誉れ高き、音に聞く先生の来訪を歓迎し、木の枝を敷いて先生の乗るろばの前に、緑の絨毯を作った。

「ホザンナ! 祝福あれ。神の御名によって来られる方に。」

「祝福あれ。今来た、我らの父の国に。」

「ホザンナ! いと高き所に!」

 その中には、律法学者たちもいたが、先生は神殿に向かわれた。もしかしたら、神殿の中がどうなっているのか知っていたのかもしれない。というのは、先生は神殿に入るとすぐさま、商人や客や、神殿を抜けて器具を運ぶ者を追い出し、生贄の鳩の売人の腰かけを倒し、両替人の台をひっくり返したのだ。それはもう、見事に。見事というか、いっそ清々しいほど美しい破壊美とでも言うべきだろうか。

 悲鳴を上げる者と、呆然とする者と、抗議する者との真ん中に立ち、先生はその騒音の中でも響く声で言われた。

「『私の家は全ての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか! それなのに、貴方方はそれを強盗の巣にしたのです!」

 先生の言い分は理に適っている。それまで我慢をしていた者たちは、先生に賛同し、このような状態を作り、放置していた律法学者たちを罵った。わたしはその時、数日前にわたしに声をかけた熱心党の者と律法学者とがいることに気がついた。彼らはひそひそと何かを話していたが、わたしが彼らに気づいたことに気がつくと、そそくさと去って行った。嫌な胸騒ぎがした。

 先生は今まで、ごく平穏に、ひっそりと、しかし目立って教えを広めてこられた。それが、今はちょっとした事件になってしまっている。ずる賢い偽善者たちは、これ幸いと先生に罵られた商人や両替人を取り込み、先生を殺そうと動き始めるかもしれない。先生のお命が危ない。ならばわたしがお側にいなければ。わたしが先生を諫めねば。

 諫める? 何故? 先生は正しいことを成されたのに?

 結局、わたしは先生に進言することが出来なかった。律法学者たちを丸めこむ先生の姿は爽快だったし、何より先生は正しい事を行っているのだから、それを邪魔してさらなる悪人になりたくなかったからだ。

 来年、来る頃には少しは良くなっているといいのだが。そんなことを弟子同士が話していたが、わたしは加わらなかった。何故かというと、その後弟子達は祭りの食事を楽しみ、さっさと寝てしまったからだ。なんて図太い奴らだ。わたしは自分の繊細さがおかしいのではないかと疑ってしまう。


 そして、翌年。思っていたとおりのことが起きた。やはり律法学者たちが、先生を陥れようと、王政党に所属する人間と偽善者とを送ってきた。王政党は、時のユダヤ人の王の権威を守り、わたしたちを支配する傀儡政権を推奨し、異邦人の皇帝との親密な関係を守るために、異邦人への納税を推進している者たちで、律法学者や偽善者達はその逆、つまり神の民が異教の神をあがめる異邦人なぞに納税をすることは、神への冒涜だと考えている者たち。対極と言える彼らも、先生が民衆を引きつけることが面白くなかった。どちらの意見を通しても、先生の行動は社会秩序を乱す、つまり自分たちの権威を失墜させると知っていたからである。

 その日、ある偽善者がいけしゃあしゃあと先生に言った。

「先生。私達は、貴方が真実な方で、誰をも憚らない方だと存じています。貴方は人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」

 わたしと先生は黙っている。

「ところで、皇帝に税金を納めることは律法に適っていることでしょうか、適っていないことでしょうか? 納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか?」

 わたしはサッと血の気が引いた。その問答が、どう転んでも先生にとって不利だと分かったからだ。

 ここで、もし納税を否定すれば、王党が皇帝への反逆者と訴えることが出来る。肯定すれば、神への冒涜だとして、偽善者たちが訴えることが出来る。しかしここで、下手に沈黙すれば、両者の力によって、先生がいんちきな預言者であると言い触らすことが出来る。わたしは今すぐ、この不届き者たちを張り倒したかったが、ここで手を上げるとわたしどころか、先生にまで迷惑がかかるとこらえた。先生は言われた。

「デナリオン銀貨を持ってきて、見せなさい。」

「はい、これです。」

 銀貨には、皇帝の肖像画が彫りこまれていた。だれだっけか、この暴君。しかし先生は、あえて言われた。

「これは誰の肖像ですか。誰の銘ですか。」

「皇帝の肖像で、皇帝の銘です。」

先生は銀貨を返して言われた。

「皇帝のものは皇帝に返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 この的確な答えに、わたしはホッと安堵した。が、すぐに偽善者の一人が、熟れた果実のように真っ赤になるのをみて、すぅっと血が冷える思いがした。

 先生の死ぬ日が、近づいてきていた。 

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