第一章(5)

「俺のほうが足速いって知ってるだろ? 馬鹿だな」

 そんな声を、もはや栄太は聞いていない。彼の心には自分の目的――優を助けることしかなかった。石井の牙が自分に向けられている。それを怖いと思っておののき足を止めることは、優の手前、本当に恰好が悪いし、緩慢に過ぎることだと思った。

 栄太は夏休みに入って散歩をよくしていたので、狭い路地に詳しかった。ひとりで逃げるなら、彼らからすぐに離れる自信はあった。けれど、優の足が付いてこなかった。いつの間にか体力差がついてしまったのだ。石井たちから、距離を稼げない。

「まだ、頑張れる?」

 ゼイゼイと荒く、たまにはあ、はあと女性の声帯音の混じる呼吸が、聞いていて痛々しい。走りながら、かろうじて優はうなずいた。自分より頭一つぶんも低い背、走ることに向かないような、ひらひらしたひざ丈のスカート。昔は優のほうが、足が速かったっけ。最後に一緒にかけっこをしたのはいつだったろう。そんなことに気づかないほど、優と一緒にいることを避けていた自分を恥じた。

 彼らの気配を感じながらも、一定の距離は保てていた。このまま、もっとよく知っている、自分の家の近くまで走りつけば、もうまいたも同然だった。そこでついに、優が力尽きた。走りづらそうなローファーを引きずるようにしながら、

「足、つった」

 涙を流さんばかりの悲しい表情で言った。

「わかった、優」

 栄太は優に背中を見せ、乗れ、と目顔で指示する。

「ちょっと、駄目だよ」

 優は濡れたワンピースの前を気にしているようだった。

「大丈夫、行くよ」

 優はおとなしく彼の背におぶさった。栄太の想像よりずっと、軽かった。眩しい細腕が栄太の首に回される。彼女の細い体のことを意識している余裕は、栄太にはなかった。彼女の足が地から離れるのが分かった瞬間、走り出した。

「しっかり食べてる?」

 栄太は純粋な疑問をぶつけただけだった。結果として、息の詰まる空気を和ませる、機転の利いたセリフになった。

「ねえ、私軽い? そう言われると、結構嬉しいんだけど」

 これなら思ったほど足が重くない。アドレナリンの分泌がそう感じさせていただけにしろ、栄太は彼女を背負って走ることに満たされた思いがした。あわや、追われていることを忘れかけるほどには。

 今は、どこへ自分が走りつくか、分からない。それでも優と、一緒に駆けたいと思った。額に米粒のような汗が浮かぶ。苦しみ抜いてたどり着いた先であれば、どこだって納得がいくだろう。今は走れ。現実の闇に飲まれては遅い、前に手を振り足を回せ。人生を回すようにひたむきに進め。そんなことを考えたのは、栄太にとって大胆ではあったが、必然だった。

 人の気配がなくなった。栄太たちは自動販売機で飲み物を二本買い、砂場しかないような小さな公園で涼むことにした。

「優、降りてみて」

 優は恐る恐る地に足をつけ、もう片方の足をつけたところで顔をしかめた。歩けなくはなさそうだったが、栄太は念のため彼女の足を手でもみほぐすことにする。砂場にお尻をつけて、優を座らせた。

 足がつったとき、陸上部の顧問によくやってもらっていた方法だった。

「気持ちいいかも」

 応急処置を陸上部員に施すのと、まるで勝手が違った。彼女の脚の、押せば肉が沈み込むほどの柔らかさ、ひと思いに折ることすらできそうな華奢さ、陽の光を跳ね返して真珠色に光る眩しさに心を奪われていた。

 八月の陽が道路を燃やすように舐めていくのを、一人がけのぼろい木製の椅子にそれぞれ座って見た。優は自分で歩いて椅子までたどり着くことができた。遠くに蜃気楼が見え、渦巻いている。汗が顔を伝って顎のところにたまり、しずくが落ちていく。己の汗だらけの体に密着していた優の肌触りを、もみほぐした脚のしなやかさを、今更強く意識してしまう。

「一緒にA高に行こう」

 火照った顔のまま、優に話しかける。彼女のワンピースもすっかり乾いて、夏の匂いにうつり変わっていた。

「何かっこつけてるの、栄太の成績じゃ無理だって」

「じゃあ、勉強教えて」

「――そうだなあ、栄太に教えるのは大変かもなあ」

 心底から嬉しそうな笑顔を咲かせながら、

「言ったでしょ、私は栄太のそばにいてあげるって」

 栄太が平常心で受け取るには、その言葉は大胆すぎた。

「……これまで何もできなくてごめん」

「ふふっ、なんで謝るの?」

「おれは、受け身だったよ。全部、周りがやるから自分もやらなきゃって思うことが、たくさんある」

「そんなことないよ」

「そんなことあるって」

 優は思い出すように唇に指を当てて、柔らかく笑い

「最後の大会、栄太泣いてたじゃん。あれは、陸上を周りに流されながらやってきて、流せる涙?」

 栄太ははっとした。同時に、そこまで深く自分を観察していた優を尊敬し、畏れ多い思いも増すのだった。

「全力でやって、たどり着けなかった。挫折した人が流す涙はきれいだよ。それに勇気づけられる人だっているんだよ」

 栄太たちはそろそろ家に帰ることにした。家近くまで走るバスを待つ間、ほほえんで、

「たとえば、ここにね」

 優がそう言ったような気がした。

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