第一章(4)
家に帰って、まずは落ち着こうとテレビの電源をつける。内容が頭に入らない。柄になく宿題を始めるもはかどらない。
優からLINEが来た。
『助けに来て』
そんなメールが来ることを、想定に入れてはいた。要するに、逃げ出したがっていたのだろうと思った。が、栄太はダシに使われるだけの寂しい自分を認めたくなかった。
『彼氏のフリでもすればいい?』
『それがいいかも。もうLINEできない。お願い早く来て』
早く来るようにという念押しの意味がよく分からなかったが、ともかく、家で何をするでもないなら助け舟を出してやろう、そのくらいの心づもりで栄太は自転車を走らせて市街地へと向かった。
カラオケ屋の、入り口の前に見慣れた顔があった。中学に入ってから、優と仲良くするのをよく見る生徒だった。彼女は――耳を真っ赤にして、顔を両手で覆っていた。栄太は彼女と交流がなかったので、一瞬ためらったが、
「大丈夫?」
そう声をかけると、彼女は――邪悪なものへの怒りを籠めたような視線で栄太を見、身をこわばらせた。まず名前を名乗るべきだったと後悔した。
「俺、長谷だよ。優の――えっと、彼氏の」
彼女は、栄太の声を聞いたのち、何か言いたそうにしていたが、喉がつかえているのか、なかなか声を発しなかった。嗚咽の音が聞こえるようだった。栄太はしかし、何もできずにいた。どうすればいいのか分からない。
「……優ちゃんが、中で」
「どうしたの」
「10号室で、優ちゃんが……」
不穏さに身震いがしたが、栄太の反応は鈍かった。ゆっくりとカラオケ店に入り、フロントに声をかけて許可をとり、前払いの料金を支払ったあと、10号室の様子を見にいった。ノックをして、部屋に入る。
優が泣いていた。とろんと虚ろな視線が、ようやく来た栄太に向けられる。救いを求める、すがるようなまなざしが刺さった。栄太は優のそういう表情をこれまで、一度も見たことがなかった。あ、自分は優を助けに来たんだ――ぼんやりとした実感に包まれていた。
その場の異様な雰囲気を完全に把握するまでに時間がかかった。優のほかに男子生徒が三人いた。前にテーブルがあり、両隣のイスがふたりの男子生徒に占拠されていて、彼女が逃げられないようになっていた。煙草の匂いがした。左隣の石井がぼんやりとしている栄太に、一瞬目を白黒させていたが、一転興味深そうな表情を浮かべて、
「お、長谷じゃん」
声のトーンが明るく、その場に似つかわしくなかった。栄太はその場に漂うのが、煙草の匂いだけではないことに気づいた。どこか鼻を突くようなにおい。覚えがある。優の足元が濡れていた。栄太の視線に気づき、優が恥ずかしそうに目を伏せた。
「優ちゃん、おもらししちゃって。我慢してたのかもしれないけど、本人が言いださなくって。恥ずかしかったのかな」
言いだせないようにした、あるいはそれだけの恐怖をあおったのは彼らに違いないと、栄太は思った。栄太の腹の底で、怯えの感情が渦巻いた。カラオケボックスに入ってから今まで、優を助けようという思いよりも逃げ出したいという気持ちのほうが強かった。
「店員さんにばれたらまずいし、煙草の匂いでごまかしてんの。優ちゃんに恥をかかせないために。優しいでしょ? 服が乾くまで、ちょっと待ってるんだ。そう言うわけで、栄太くん、帰って?」
彼がそう言って、強引に優の体を触っている。満足そうな石井の下卑た笑みが、網膜にべっとりと貼りついた。なんだか嫌だった。そうじゃない。かなりの不快。これはかなり不快だ。反吐が出そうだ、自分で唱え、栄太は一瞬目をそらす。そらしてはいけない。恨みのこもった目で石井をにらみ返す。やはり怖い。これが現実ではないと祈るように、優は強く目を閉じていた。その表情。ひとり尻尾を巻いて逃げだしたいという感情。それでいいんだろうか? 自分はただ優を助けなければならない。そのために呼ばれた。優を助ける。優がLINEをくれた相手は、僕だった。僕に期待してくれたのだ。あまりにも悪役めいた悪役が、この世に存在するものだ。どこまでヘタレれば自分は気が済むんだ。短い言葉の怒涛が脳内で渦巻いた。そしてそののち、何かがはじけ飛ぶ音がこだました。
「どけよ」
栄太自身、思ってもみないような、どすの効いた声が、腹の底からついて出た。石井君が片方だけ眉を動かし、何やら吐き捨てるように言った。彼がなんといったか、こめかみの脈動がうるさすぎて栄太には聞き取れなかった。
「なんだよ急に偉そうになって」
「優は俺の彼女だから。手出しするな」
「なに、調子に乗ってんの。お前鏡見たことある? 顔いまいちだし、勉強もできないし、部活だって落ちぶれたじゃないか」
栄太にも、そういう物差しで自分の能力を見ていたころがあった。それは懐かしいような気がした。そんなことと、人間性とは何の関係もないのだと、栄太は感じ始めていたのだ。その思いを石井に対してだけ抱いているわけではない――すなわち劣等感をあおられて切れているわけでは全くないのだが、今はひとまず、テーブルを持ち上げ、石井のほうをめがけて思い切りひっくり返した。石井たちが怯んだところで、彼は優の手を取ってドアを開け、駆けだした。
カラオケ屋の入り口で泣いていた優の友達に叫ぶ。
「駐輪場に僕の自転車がある、乗って逃げて!」
「でも……」
「いいから!」
その女子がサドルにまたがったところで、三人の男子生徒が追いかけて来るのが見えた。もう一目散に、優の手を引いて、走った。
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