第16話 パトリシア・ピークス
「一八六七年、私は生まれた。
一八七三年、父が“例の絵”を買った。
同年、私の魂は絵の中に吸い込まれ、絵によって封印を緩められたクトゥルフと、大いなる種族との戦いに巻き込まれた。
クトゥルフの力の一部とアトラの魂は私の肉体に、私の魂は大いなる種族の女王アトラの肉体に入った。
そう。パトリシア・ルルイエあるいはルイーザ・ルルイエと名乗り、サン・ジェルマンに恋い焦がれてアトラに嫉妬するあまりニャルラトホテプの力に手を出し、最期はサン・ジェルマンの遺体と分離できないほどに一つになってロンドン郊外の墓地に眠る存在は、私じゃなくてアトラだったのよ。
私はヘンリーを養子にしていないし、キャロラインなんて孫もいない。
ねえ記者さん、どうして私の居場所がわかったの?
こんな異国で人目を避けて、息を潜めて暮らしてきたのに。
私、記者さんにいきなり名前を呼ばれてすごく驚いたわ。
そうでなければあなたのこと、反射的に……ふふふっ……
あなた、強がりね。
……いいわ。
こうして人と話すのも久しぶりだし、あなたの訊きたいこと、何でも話してあげる。
アトラの肉体に宿った私は、アトラの従者に教えられるままクトゥルフを再封印して……
もともとクトゥルフは“例の絵”のせいで一時的に目覚めただけだったから、私のママが何も知らずに“例の絵”を処分しちゃったことであっさり引っ込んでくれたんだけど……
絵がなくなったせいで、私の魂はもとの世界へ帰れなくなった。
最初はとても恐ろしかったわ。
見知らぬ世界に一人きりで放り込まれて、周りは全員バケモノで、私自身もバケモノにされて。
でもバケモノたちは私をお姫様のように扱ってくれた。
だから決めたの。
姫を超えて女王になる。
この世界を私が守るんだ、ってね」
※パトリシア・ピークス、不気味な高笑いを上げる。
「私の肉体を使ってアトラがしてたこと、全部見えてたの!
アトラにはこっちの様子は見えてなかったみたいだけどね!
……うらやましかったわ。
サン・ジェルマンはそこまで私の好みじゃなかったけれど。
旅をしたり恋をしたり、本当は私がするはずだったのに……っ!
クトゥルフの目覚めのときが来て、私はキャロラインを利用しようと考えた。
キャロラインの肉体を犠牲に、私の魂でクトゥルフの肉体を乗っ取って火口に飛び込んで。
でもね、私、世界を守るって言っても、世界のために死ぬ気なんてなかったの。
クトゥルフの肉体が溶岩に接する直前に、もう一度キャロラインと魂を入れ替えたのよ」
※パトリシア・ピークス、くくくっと笑う。
「私、人間の暮らしに戻りたかったの。
人間の世界を旅したかったのよ。
旅をするのは私が人間だったころからの夢だったの。
六歳のころ、絵本で読んで以来、ずっとね。
でもクトゥルフの復活が近いってわかってるのにのんびりもしてられないから。
クトゥルフを倒すところまでは大いなる種族に付き合うつもりだったの。
誰か適当な人間を身代わりにして自分は生き延びようってのは最初から計画に入れてたわ。
誰にも秘密にしてたけど。
だってまさかクトゥルフを殺せないなんて思ってなかったから。
だからクトゥルフが火口から這い出すのを見て、私、怖くなって逃げちゃったの」
※パトリシア・ピークス、恥ずかしげに円錐形の胴体をよじり、頭部の触手をモゾモゾさせる。
「ねえ記者さん、この姿を見ても驚かないなんて、私のほうが驚きだわ。
表通りを歩けるのなんて、ハロウィンの渋谷ぐらいなのに。
ああ、でも、不便だからって人間に乗り移るつもりはないわ。
こっちの体のほうが寿命が長いから。
この世界には、見たいものがまだまだあるのよ。
深夜の路地裏や下水道を散歩してるだけでも楽しいわ。
大いなる種族の町じゃないってだけで、どこへ行っても楽しいの。
運が悪いと人間に見つかってスマホを向けられることもあるわ。
これとかね。
写真を撮られちゃったんで取り上げたの。
昔はケータイを奪うだけで良かったんだけど、今はクラウドに上げられちゃうからしっかり隠蔽しないとね。
記者さん、あなたまさか、自分は隠蔽されないとでも思っているの?
そうそう、このスマホでね、おもしろい話を見つけたのよ。
記者さんはこんなのとっくに知ってるのかしら?
ん? これ? スマホのもとの持ち主の指。
これが腐るまでは私もスマホを使えるわ。
料金未払いで止められるほうが先に来ちゃう人もたまにいるけど。
それより記者さん、このサイトに書かれてるキャロライン・ルルイエのメッセージボトル。
未発見のもののほうが大半なんでしょうけど、これを読む限りだとあの子、自分がクトゥルフになっちゃったって受け入れられていないみたいね。
ウロンウロンって毒草よ。
パメーレのポルリリにしたってそう。
大いなる種族はクトゥルフを殺すためにあの手この手を試してるのに、キャロラインにはノーダメージどころか、殺意を向けられてると気づいてもいない。
キャロラインってとってもいい子。
とっても純粋。
それだけに……一回でもブチ切れると、その一回で行き着くとこまで行っちゃうかもね」
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