そして春は始まった

お望月うさぎ

第1話

 私の眼下一杯に少し葉桜の混じった桜並木が見える。

スマートフォンのカメラで、濃いピンクから薄いピンクまで所々に映える緑色を添えながら蒼い空に向かって咲く桜をせめてブレない様に撮って、いつもの様に君のSNSに短い文と共に載せる。

《もうすぐ桜が散りそうだけど、それでも僕はまだ綺麗だと思うんだ》

終ぞ君との会話で言葉遣いは治らなかった。

他の人とは敬語を交えることで誤魔化すようにした。


送った日を示す、白い5月24日の文字が昨日の下に追加されて光る。


もうすぐ、春が終わる。

君からの返信は、まだ、来ない。





「​─────さん!大丈夫ですか!? ​────さん!」

 誰かを呼ぶ声が近くで聞こえる。僕の名前では無いのだけど、近くで呼ばれるせいで目が覚める。

目を開けると、白衣を着た灰色の女性のナースと男性の医者と目があった。遅れて全身に痛みが走る。

「いっ……!」

思わず漏れた声は別人の声だった。

「え?」

確認の為に零した声も先程と同じ女の子の声だった。

「大丈夫ですか!? 急に苦しみ出したって向かいのベットの人がナースコールを押してくださって、それから3時間意識不明だったんですよ!?」

慌てた様子のナースにそう言われて、少し記憶が戻ってくる。いつもの様に一日の終わりの検診を済ませ、ベッドに入った時に急に全身が苦しくなって、息が出来なくて気を失ったらしい。そして今に至る様だ。

しかし1つ繋がらないことがある。

「僕は……なんで女になったんでしょうか」

そう。僕は男だった。性同一性障害とかそういうのじゃなく、正真正銘の男だったのだ。ずっと病院にいたので確かに線は細いと言われていたが、女の子と間違われることは無かった。なのに

「……? 女になった? 何を言っているんですか? ───さん、あなたは産まれた時から女の子じゃないですか」

ナースはそんなことを言って、医者も特に反論する様子は無い。聞いたことも無い名前は、上手く頭に入ってこなかった。

「急な発作に混乱されている所申し訳無いのですが、影響を調べたいので幾つか質問させて頂いてよろしいですか?」

医者がとてもおずおずと聞いてくる。先程までの身体の痛みは大分と楽になっていた。

「はい」

そう返答した瞬間、ナースと医者が大きく動揺する

「だ、男性と話せるんですか!?」

「え? 話せますが……」

寧ろ僕は女性が苦手だ。それでも話せない程では無いが。

「そ、そうですか……克服されたのなら良いことです、では早速質問させていただきますが、まず、何処か痛む所はありますか?」

「所々少し痛みはありますが、酷くはないです」

「ふむ、では視界に何か変化はありましたか?」

「……。何も変わってないです。同じ灰色の先生が見えますよ」

そう言うと、医者は残念そうな顔をする。

僕の性別は変わってしまった様だが、僕の変な色盲は治らなかった。僕の視界は簡単に言うと、いつもモノクロ写真のカメラを構えているような感じだ。僕には、色が見えない。発症したのは小学生とかそこらだった気もするが、今ではその色もよく覚えていない。色が見えないというのは予想以上に不便なもので、日常生活に支障をきたし始め、遂に入院と相成った。

しかし現代医学でも目はデリケートで難しいらしく、今のところ進展は見られない。

「ふぅ。そうですか、それは残念です。では最後に、……これは先程知らされて​────さんが極度の男性嫌いであるということで却下しようと思っていたのですが。

……あなたの隣の空いたベッドに明日から新しい男の子の患者が入ります」


 話し合いが終わり、病室に戻ると彼は既に寝ていた。

短い髪の少年だった。布団で詳しくは分からないが、顔つきを見るに同年代程と思う。

一目見て思ったことは、あまり煩く無いといいな、ということ。僕の隣のベッドは僕が入院した時にはとある女性が入っていて、その人と一悶着あり、その人が退院する頃には女性が、いや。本当のことを言うなら人が苦手になっていた。その事から長らく隣のベッドは空いていたのだった。

とりあえず起こさないようにベッドに入り込む。

ベッドの感触がいつもと違ったが、違うのは自分の身体だった。

質問が終わった後見せてもらった鏡には、腰程まで長く髪がストレートに伸び、顔は小顔で整っていて、身体は元の身体が男であるのを示すようにそこまで発育している訳では無いが、それでも女性だと解る曲線を描いていた。全てが全て、元の冴えない僕とは思えない美少女だった。

まさか自分の苦手な存在に自分がなるとは思わなかった。少し憂鬱な気分になる。どうすれば戻れるのだろう。

原因の全く分からない現象に混乱したまま、僕の意識は落ちていった。



「検温ですよ」

 そんなナースの声に起こされた。

眠い目を擦って身体を起こす。いつもの様に体調を聞かれる。特に異常は無かったので答えていたら、ナースが不思議な顔をする。

「ちゃんと起きてますか? いつもは質問してきたり、髪を整えたりするのに今日は何も尋ねてこないし、ボサボサのままボーッとしてますよ?」

……髪を整える?確かに寝癖を直すことはあるが、毎朝やる程では無いはずだ。

「ほら、ちゃんと起きてください?」

そう言って僕にナースは櫛を手渡してくる。灰色が濃いが、何色かは分からない。

そうか、今の僕は髪が長いのか。昨日のことは夢などでは無かったようだ。

手順などは知らなかったのだが、1度髪に通してみると身体がほぼ勝手に済ませていく。不思議な感覚だった。

検温が終わり、簡素な食事を摂ろうとした時、隣から声がかかる。

「すみません、はじめまして」

見ると、昨日見た少年がぺこりとお辞儀をする。上半身を起こした姿は、身体が弱いのか元の僕以上に線の細い身体だったが、やはり同年代程の身体だった。

「あ、はい、はじめまして」

挨拶を返す。女の子らしい声。思わず顔を顰めそうになったが一般的には綺麗な声だろう、表に出さないよう努める。

「僕の名前は下元しももと よう。君の名前は?」

「僕の名前は───らしいよ」

「らしい?」

「気付いたら女になっていてね。その時呼ばれていたのがこの名前だったんだ」

言ってしまってから少し後悔する。いったい誰が初対面の人間に元々の性別は違うと言われて信用するのか。その証拠に彼はくつくつと笑っている。

「面白いね」

そんな初めましてだった。

それから僕たちは段々と会話をしたり、院内を散歩したりするようになった。少年は何度も男だったことを訴える僕に呆れたのか信じたのか、笑わなくなっていった。それと同期するように、どうでも良かった筈の隣人は気の置けない人へと変わった。自分自身も始めは女の体に慣れず大変だったが段々と『無意識で出来ること』が増える、男だったことが失われていくようで恐ろしいような、生活が楽になるような、不思議な感覚を味わった。

しかし、反比例するかのように始め元気だった少年は段々と元気が無くなり、点滴に縛られる日が多くなった。それでも僕と話す時はいつもは優しくて強いなぁと思っていた。



「​────さん、あなたに退院の話が持ち上がっています」

 ある日医者に呼ばれて行った部屋で言われた言葉はそんな日々を吹き飛ばすように僕に降りかかった。

「退院、ですか」

「はい、入院生活で日々の活動にほぼ支障がない程度で日常生活を送られるようですので、このまま改善の見込みが無いのならいっそ退院して外の要因に頼った方が良いのでは、と言うのが会議でまとまった結論です」

「そう、ですか」

退院のことよりも、まず頭に浮かんだのはあの人のこと。

もうすぐ、彼は成功率が低い難しい手術をするらしく、後遺症の心配まであると言っていた。その時に僕が退院なんてするのがとても心苦しかった。

「退院は、いつ頃ですか?」

「そうですね、予定は三日後です」

「出来るだけ!」

思わず大声が出て自分で驚いた。すこし落ち着いて言い直す。

「出来るだけ、延ばして下さい、せめて、彼の手術が終わるまで」

「それは……、そうですね。検討します」

医者は優しそうな顔で静かに頷いていた。



病室に戻ると彼は既に寝ていた。

短い髪の少年は規則正しく布団を上下させているが、同年代程だった顔つきは少し痩せてしまったように思う。

一目見て思ったことは、このままがずっと続けば良いのに、ということ。僕の隣のベッドは空いている時を忘れるくらい自然に彼を寝かせている。その人と別れは、何故か苦手とか関係なく嫌だった。その事が私の中を占めていた。


いつかと同じように起こさないように布団に入り、目を閉じた。窓を打つ水音。今夜は雨が降っているみた苦しい。


「っ!?」

息が出来ない。声が出せない。感じたのは首の締まる感覚と全身に何かがのしかかる重さ。目を見開くと、すぐ目の前に、見慣れた彼の顔があった。

「ぁ……何……で?」

「君さえ居なかったら!君さえ居なかったら僕は!」

自分の首を締めている様な苦しそうな表情をしながら私の首を締める。

苦しい。息が出来ない。苦しい。けど。

私は不思議な気持ちを抱いていた。うまく説明出来ないのに、どうしても彼に伝えたい。


あぁ。これが、女の恋っていうことか。


男でさえこんなにも身を焦がしたことは無かった。こんなにも、違う。しかも、僕は彼の気持ちが本当によく分かる。


彼が欲しかったのはきっと弱さだ。


女の僕が居なかったら。彼は1人で弱さを吐き出せた。もし僕が男なら。一緒に弱さを共有できた。でも、女の前で、弱さなんて見せられない


そういうことなんだろう。分かってしまう。分かってしまうんだ。だからもう、私はこの人の為に死んでも良い。


苦しさと何かとほんのちょっとの悲しさで涙が滲む。滲んだ視界の先に


染みるような髪の黒色と、色白い肌色と、薄いピンク色の唇から滲む鮮やかな赤色の血が。



色が、見えた。




「……っ!!!」

息苦しい中力が籠る。まだ、まだ死ねない。そうだ。だってまだ彼を支えていない。なんの為に退院を延期した。彼の為に死ぬ為か。

違う。違うでしょう。頭の何処かで声が叫んだ。もう慣れ親しんだ、昔嫌っていた、綺麗な綺麗な女の子の声だった。

「ぅ……ぁぁ……!」

両腕を掴んで出来るだけ押し返す。ほんの少しだけ楽になった首から出来るだけ息を吸って、足を全力で振り上げる。膝が彼の内腿を打ち据える。

「っごほっごほ!」

急な衝撃に驚いたのかもう身体が限界なのか彼は急に咳き込んだ。緩んだ隙を見逃さずに拘束から逃れて、


私は彼に抱き着いた。

「!?」

勢いのまま、ベッドに押し倒す形になる。

「やっとさ、分かったんだ」

「何を……いってるんだよ」

「色が見えなくなった時にさ、色々諦めたんだよ。色のない世界には何も無いって」

「本当に何を言ってるんだよ、僕は君を殺そうとしたんだよ!?」

「死んでないし、仕方ないことでもあるよ」

「意味がわからない」

「だって、きみ僕を生き返らせてくれた。思い出させてくれた。わからせてくれた。君が太陽みたいに私を照らしてくれたんだよ。陽君」

「……」

「でもね、それをずっと続けるのは無茶だよ。どこかで夜が来てしまう。それに私が気付けなかったから、それに照らされないと光れない私は、……中満なかみつ 美月みつきは、光を失いかけたんだよ」

陽君は口を噤んでいる。お互いに息が上がっていて、汗が肌を濡らしている。今はもう、透明な色がハッキリと見えた。

「だからこれからは私が夜の間、君から受けた光で代わりに照らすんだ。その為に、今君にこの命をあげる訳には行かない。君には私の生涯をあげるから」

「それは……」

「こんな男だった女なんて嫌なら嫌で構わない。でも、私は、君が大好きになっちゃったんだ」

彼の夜空の様な瞳を正面から見て、私は返事を待つ。

何か思い詰めた様な顔をして、ふと、陽君は語り始めた。

「そっか、僕はね、君が退院するって何処かで聞いた時、本当は全力で祝いたかったんだよ。でも心の何処かにいる絶望した僕が、そんな奴には絶望を押し付けてしまえって言うんだ。本当はいつまでだってあの日々を過ごしたかっただけなのに。こんな病的な思いが許されるのなら、僕は出来るだけ君と一緒に居たいよ」

「いいの?」

「良いなら僕から頼みたいくらいだ」

「……ありがとう」

もう一度、彼に抱き着いた。窓の外には夜明けの眩しいくらい白い太陽が、沈みきらない黄色い月と今まで気付きもしなかった止んだらしい雨に濡れている鮮やかな桜色の桜を照らしていた。

月も、桜も、輝いていた。



退院の日。私は入院中終ぞ使うことのなかったスマートフォンを充電していた。彼は意外と使っているらしく、SNSを交換しておこうという事だった。

そして一通りの操作方法を教えて貰い、退院後毎日外の写真を送って元気づけることを約束した所で、彼の手術の時間がきた。延ばして貰った結果、当日までここにいれたのだ。運ばれていく彼に着いて手術室まで行く。

「頑張れ、必ず生き残ってくれよ」

「任せてくれよ。準備運動はバッチリだから」

そんな軽口を最後に、彼は扉の向こうに吸われて行った。

閉じられた扉の前のベンチで座って祈る。

こんな時ばかり、無限に感じる一瞬って、こんな感じなんだろうな、と乱れた考えが過ぎていく。

それでも待ち続けていると、ふと横から足音が聞こえた。

「美月さん、時間です」

医者が隣に立っていた。

「……まだ、もう少しだけ」

「親御さんがもう外で首を長くして待っていますよ」

「……はい」



親に連れられて来た、わざわざ借りたらしい新しい部屋はシミひとつない程に真っ白でだった。でもそれが私には、私の未来を示しているのか、今の私を示しているのか分からなかった。


それからしばらくたった。


君からの返信は、まだ、来ない。


写真を撮った場所から歩く。階段を降りる。

降りる途中に携帯から微かな振動を感じた。

「?」

そのまま開いていたSNSの画面が目に入る。

『ありがとう。ただいま』

心臓が大きく音を立てた。

沢山の葉桜が咲き誇っていて。

そして春が始まった。

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そして春は始まった お望月うさぎ @Omoti-moon15

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