第221話 錠前屋ニコ

 あのとき、声が聞こえたのだ。

『戦いがはじまればどうなるかわからない』

『言いたいことがあるなら伝えておいたほうがいい』

 それは、アレサンドロにとっては不吉な言葉ということになるかもしれない。しかし、宿の階段を駆け下りて、表へ出た直後のユウの足を止めるには、十分な説得力を持った言葉であった。

 このまま別れて、自分もララも後悔をしないか?

 新年の朝、一度リセットしてくれたララの心に、今度は一生残る傷を刻むことになりはしないか?

 それで戻ったのだ。

 それで、あんなことをしてしまったのだ。

 夜でも凍りつくことのなくなったシャーベットの道を行きながら、ユウは唇にふれてみた。ひんやりとしたそこにはまだ、柔らかな味が残っている。

 ふんわりとして温かい。まるで、メレンゲを使ったケーキのような。

 これが、救いか……。

 ユウの胸の中はいま、恐怖よりも達成感よりも、感慨で満たされていた。

 ララ。

 いまこそ誰に問われても、それは特別な人の名前だと答えることができる。

 なんなら、この往来で宣言しても構わない。

 あの目が好きだ。あの声が好きだ。

 あの髪が好きだ。あの指が好きだ。

 自分のために見せてくれた、あのうなじも。

 自分のために見せてくれる、あの笑顔も。

 前向きで、突っ張った性格も。

 本当は女の子らしい、あの心も。

 全部、全部、大好きだ。

 全部大好きだ。

 これからのことが上手くいって、アレサンドロの夢がかなったら、きっと一緒にどこかへ行こう。

 知らない世界を見に行こう。

 ユウは、目的地の直前というところで足を止め、来た道を振り返った。

 ララは寝ていたが、こんな時間に床につくのは子どもぐらいなものだ。小さな街のストリートながら、立ち並ぶ食堂や酒場は、にぎやかな光を道路にまで伸ばしている。

 ここにも、また来たいな。

 ユウは空へ向かって、ひとつ白い息をはき、ある大きな酒場の裏手から、その敷地内へと入っていった。


「早いな、ニコ・ソランデル」

 偽名を呼ばれたのは、それから三十分ばかりたって、街の鐘が鳴りはじめたときである。

 薪小屋に寄りかかり約束の時を待っていたユウは、木立の作る暗闇の向こうに光石ランタンを差しつけた。

 実のところ、もう十分も前から誰かに見られているような気はしていたのだが、こうした場合、気づいていないふりをするに越したことはない。

 口は災いのもと。利口ぶれば、相手の警戒心に油をそそぐ。

「テニッセンさん?」

 ユウは不安げな顔と声を作り、名を呼んでみた。

 待ち人は猫のような足取りで、光の中に踏み入ってきた。

 テニッセン。

 この男は数日前の出会いの際、ただそう名乗った。これが姓なのか名なのかは、はっきりとしない。

 細い面にたれた眉。彫りの深い目。カギ鼻。歳は三十五、六の、剣よりも本のほうが似合いそうなタイプである。

 だが、身体中に目がついていて、いつもこちらを見ているような、油断ならない印象の男であった。

「よしよし、着替えてきたな。いい男になった」

 テニッセンは、ゆるゆるとユウの周囲をまわりながら、優しげな声で言った。

「緊張してるのか?」

 問われたユウは、

「は、はい!」

 と、いかにも苦渋の決断をしたように、それでいて好奇を抑えられないように、奮然として答える。

 インテリな笑いでそれをあしらったテニッセンは、ユウの肩に腕をまわして、こうささやいた。

「心配するな。余計なことさえしなければ、危険なんてのはこれっぽっちもない仕事だ。明日、おまえは、錠前屋の息子を卒業する。明後日の朝には大金持ちだ」

「金……!」

「欲しいだろ?」

「欲しい……欲しいです!」

「ああ、だから、働けよ」

「は……はい!」


 ユウの演じる『ニコ・ソランデル』。

 その設定は、こうだ。

 ニコ・ソランデルはユウと同年の、現在二十二歳。アルデンから出てきた。

 アルデンには伝統的に鍛冶屋が多いが、ニコの実家もその技術を応用して錠前屋をやっている。

 そしてニコもまた父のもとで学び、高い技術を身につけているのだ。

 だが、錠前屋の修行は厳しかった。

 厳しい上に、並の職業なら、とっくに一人前と認められてもいいこの歳になっても、まだ父親の助手という立場であった。

 何度も何度も殴られる。

 自分で自由になる金は一フォンスたりともない。

 だからニコは店の金を盗み、家を飛び出した。

 自由になりたい、その一心での逃亡であった。

 それから、やや一ヶ月。

 流れ流れて、このウスコの町にたどり着いたのが、およそ半月前。

 ニコの懐には、もうほとんど金がない。このあたりにはコネもない。

 どうしよう。

 それが、数日前の状況である。

 さて……。

 ここからが、ユウのたくらみだ。

 実のところユウは、このような大層な設定を最初から考えていたわけではなかった。

 なぜならば、みすぼらしいなりをして酒場や食堂を渡り歩き、店のすみでパンのかけらでも頬張っていれば、大抵、親切な中年が食事や酒をおごってくれる。

 ここで、

「親がいない。金がない。仕事が欲しい」

 などと言えば同情もされるだろうし、

「あの城はとてもきれいだ。あんなところに住んでみたい。誰が住んでいるのだろう」

 などと言えば、ランゴバルトの情報も手に入る。

 そして気に入られれば、

「あの城の中で働けないだろうか」

 と、こうだ。小さい町はコミュニティも小さいため、案外これで、やすやすと城に入れたりする。

 つまり、錠前屋だのなんだのという複雑な設定は練り上げる必要がなかったのである。

 それが、とある酒場で計画が変わった。いや、計画が動いたと言っていい。

 ユウは気づいてしまったのだ。

 白鳥城の下働きがしばしば一杯引っかけにくるその店で、こそこそと、あやしい男がなにかをかぎまわっていることに。

 長年裏社会に生きてきたユウは、その男から同族のにおいをかぎ取った。自然と動きを目で追うようになり、そして男の目当てが、まさしく城の下働きであることを知った。

 これだ。

 ユウは思った。

 そして先の設定が生まれた。

 錠前屋の息子、ニコ・ソランデルが。

 ユウが行動を起こしたのは次の日の晩である。

 その日は偶然、酒場の女将が物置小屋の鍵をなくして大騒ぎをするという事件が起きたのだが、ユウは自ら名乗り出て、それをものの三秒で解錠して見せたのだ。

 盗人業界では、常に腕のいい錠前師が求められている。純朴そうで、かつ金に困っている様子のそれが目の前に現れて、黙って見すごせる悪党がいるはずがない。

 案の定、男はすぐにユウのもとへやってきて、テーブルを酒食で埋めつくした。

 それが、テニッセンであった。

 テニッセンは『ニコ』の語る生い立ちに激しく同情を示し、千フォンスの角金貨を小遣いだと言ってよこして、一生遊んで暮らせるほどの金が欲しくはないかと聞いてきた。

 ユウの答えはもちろん、

「欲しいです」

「ああ、そうだろう」

 それからというもの、テニッセンは、なにくれとなくユウの世話を焼き、いくつかの錠前を持ってきては開けさせたりした。

 盗賊団の一味だと告白し、手伝ってみないかと持ちかけてきたのが、実に今朝のことであった。

「ほら見ろ。きれいなもんじゃないか」

 テニッセンはユウの隣を歩きながら、雪明かりの中の白鳥城を指さした。

「あれを明日、空にしてやるんだ。胸がわかないか?」

「わきます」

「そうだろう、そうでなきゃ駄目だ」

「テニッセンさん、これからどこに?」

「ああ、あの角を曲がったところに、仲間のやってる酒屋がある」

「酒屋……」

「そうだ。もう三年も前からそこで商売をしてる。いまじゃ、お城御用達だ」

「あ……」

「そういうことさ」

 ユウの胸は、確かにわいてきた。

 大事を前に不謹慎だろうが、ひさしぶりの大きな盗みだ。指の先がむずむずとする。

 ……フフン。

 ハサンの声が聞こえたような気がして、ユウは思わず振り返った。

「どうした?」

「……いえ」

 ユウは動揺を隠すため、軽く手のひらを揉み合わせた。

「そう緊張するな。うちのお頭には、ちゃあんと話が通ってる。気づかなかっただろうが、おまえが鍵明けをしたあの日、お頭もあの酒場にいたんだ」

 このことを、ユウは知っていた。

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