第212話 狂人

 帝都大闘技場はすり鉢型をしている。

 その楕円形に切り取られた空の端が、西からにわかに黒ずみはじめた。

 どこからともなく、ザアザアと鳴り出したのは雨の音か。風の音か。いや、それにしては雨粒の一滴も落ちてこない。のぼり旗のはためきもない。

 その場に居合わせた群衆は思い思い空をながめ、中でも危機意識の強い者は天覧席を見た。そしてそこに大祭主たちの姿がないと感づいて、あ、と、腰を浮かせた。

 これは、なにかある……!

 ぎゃあ、と、またフクロウが鳴いた。

 今度はこれに呼応するように、空で鳴き声の大合唱が起こった。

「あっ!」

「鳥だ!」

「鳥だぁ!」

 それは、ものすさまじい数の鳥であった。鳥が空を黒く染めていくのであった。

 山に住むもの、川に住むもの、森に住むもの、里に住むもの。

 肉を食うもの、穀物を食うもの。

 昼のもの、夜のもの。

 帝国中部に生きる、ありとあらゆる鳥たちが、いま、ひとつの集合体となって、すり鉢の中の人間たちへと襲いかかってきたのである。

「わあっ」

「だ、誰かッ」

 生きた竜巻に仰天し、多くの騎士は剣を抜くどころか、両手を振りまわすことしかできない。誰も彼もが顔や手足を切り裂かれ、ほじくられ、大地はたちまち、悲鳴と血と細かな羽毛と、のたうちまわる人間とによって覆いつくされた。

「弓を!」

 誰かの声は、無惨、瞬時に羽音に埋もれた。

「叩き落せ!」

 と、勇猛果敢に槍を振るった騎士もまた、くちばしの大襲撃に追われて姿を消した。

 タン、タン、と、数度銃声がしたが、それ以上は続かなかった。

「わあっ」

 と、ここでさらに上空から振りまかれたのは、鳥にも負けぬ蛇の大群である。

 飛ぶ力の強い鳥たちが、それのぎっしりと詰まった編みかごを運んできたのだ。無論、毒蛇も含まれる。

「クラウディウス将軍! レッドアンバーが、逃げます!」

 クラウディウスは残忍に笑い、にごった刃を血振りした。

 

 ……ところで。

「逃げろ、逃げろ!」

 と、この事態に驚愕し、出口へ殺到した観客たちはどうなったか。

 不思議とこちらだけは、水鳥の威嚇を受けながらも簡単に場外へ逃げることができたのだが、のちに証言が集められた際、これら市民の中に、おかしな車とすれ違ったと答える者たちがいた。

 おかしな、というのはまさに言葉のとおりで、言うならば犬車。車輪のついた棺おけのような箱を、四頭の大型犬が息せききって引いていたというのだ。

 箱に乗っていたのは、立ち上がって手綱を握り、上空を見ながら興奮もあらわにした長身の中年男と、眼球をむき出すようにして縮こまった、小さな老人。

 この犬車は人々の向きと逆行して、闘技場の方角へと走り去ったということだ。


 縛る縄を切りほどいて脱出したユウたちが、それっと刑台を飛び降りたところで、一台の幌馬車が場内に駆けこんできた。

「早う乗れ、早う……!」

 そう小声に叫びつつ追いかけてきたのは、まくり上げたすそから、すねをのぞかせたカジャディールである。

「わしの用意したものじゃ。お城へ行くのであろう?」

「よし、乗れ!」

 というので、モチを含めた十人と、さらにジョーブレイカーに介添えをされてカジャディールが、薄暗い幌の中へすべりこんだ。言うまでもなく帝城には、いまだ仲間も武器も残されている。

 黒覆面の御者に鞭を当てられた馬は、重そうに一歩踏み出した。

「大祭主様……!」

「なんの、礼はいらぬ。それより肝を冷やしたわ」

 ライフルを撃つか撃たぬかの、あの瞬間のことである。カジャディールはとがった帽子を投げ捨てて、手うちわで顔をあおぎながら言った。

「あの場で、まさか他の将軍が止めに入るわけにもゆくまいが……してみると紋章官殿、クラウディウスめも、そなたらを殺めるつもりはなかったか」

「そのようですな」

「やれやれ」

 混乱した喚声が遠ざかっているところからすると、上手く闘技場を抜けたようだ。

「どうじゃ、カウフマン。追ってきておるか」

「いえ」

「ならばよし。まこと野生の力とは恐しきものよ。……おお、それ、その包みに、とりあえずの得物が入っておる。まさか丸裸では働けまい。もとの持ち物は、奪い返すよう手配しておるゆえ案ずるな」

「なにからなにまで……」

「なに、おもむくままに、よ」

 と……。

 突如、馬の足並みが乱れ、馬車が止まった。帝城にはまだ早い。

「わ、わぁあ!」

 というのは御者の叫びか。ひとり分の足音が転がるように遠ざかっていく。

 全員がハサンを見た。

 こうしたときの判断には、知識よりも特別な五感が物を言う。

 飛び出すべきか、待つべきか。

 ハサンはなにを聞き取ったか、一瞬、怪訝な顔をして、

「行け」

 と、命じた。

 すでに傷を癒し終えたジョーブレイカーが、まず剣も取らずに幌をかき分けて行った。

 この男はいま、その短く刈られた黒髪も、やや浅黒い肌も、顔面の古傷もすべてさらしているわけだが、もちろん、それを恥じている様子はない。ただユウたちははじめてその顔を目の当たりにしたとき、声から想像された壮年の姿よりも少し若いのに驚いた。まだ二十代だ。

 床から剣を拾い上げて、クジャクがあとを追った。

 同じようにしてユウも続いた。

 馬車の横面をまわったところで、先に行ったふたりに追いついた。

 ふたりは、立ちすくんでいた。

「クジャク?」

「……ハサンを呼べ」

「え……?」

 その肩越しに、棒のようなものを片手にぶら下げた敵の、みすぼらしい立ち姿が見えた。妙に左にかしいで、マリオネットのように不安定な男だ。それが立ちふさがっている。

 あれは……。

「……アレサンドロ……?」

 アレサンドロだ。

 だがユウは、そこから動けなくなってしまった。

 確かにそうだ、アレサンドロだ。格好も別れたときのまま。アレサンドロには違いない。

 しかし……なんだろう。

 まったく違うのだ。

 アレサンドロはあのように、とろりとゆるんだ顔などしていなかった。目には知性があり、優しさがあり、生気があった。

 目の前の男はどうだ。

 まるで愚鈍、別人だ。

 男は眼球だけを細かく動かして、馬車を見ていた。

 そしておもむろに、皮膚が伸びるほど顔をこすり、にた、と笑った。

 ユウの背後から声がかかったのは、そのときであった。

「誰だ貴様は」

「ハサン……!」

「アレサンドロでは、ないな。誰だ」

 ユウは自分を押しのけて前へ出ようとするハサンの額に、じっとり、汗が浮いているのを見た。

 陽気のせいではない。

 あのハサンが緊張している。

「誰だ、何者だ、話せんのか」

「……ははァ」

 男はアレサンドロの声で、腐臭をはくように笑った。

「なあ、その中にいるんだろう? 出てこいよ、抱かせてくれよ」

 なんと、男が手にしていたのは棒などというかわいいものではなく、伐採斧、マサカリであった。

「なあ、俺がこんな顔してるから駄目なのかい? なあ……なあ……きれいにしてやるよ? 内側まで、ぜぇんぶ。なあ、怖がることじゃない。みぃんな最期には喜んでくれるんだ。まぁステキ、スッキリしたわ。ありがとうって。カ、カカ、カ、カ……」

 ユウは近寄ろうとして近寄れず、声をかけようとしてかけられず、どうしたらいいかわからなくなってしまった。

 狂っている。

 狂っている男が、アレサンドロの顔をしている。いや、狂ったアレサンドロの顔がこれなのか。ひとすじのひやりとしたものが、背すじを流れ落ちていく。

 思いつく希望の光は、ハサンの言った、アレサンドロではないという言葉だが、あの汗を見てしまってはそれも絶対とは言いがたい。

 そうこうしている間にも、アレサンドロの顔をした男は、アレサンドロの指で、ひっきりなしに自分の頬をこすっている。憎々しげにかきむしっている。大またを開いて、一歩一歩、ずるりずるりとこちらへ近づきながら卑猥な言葉を投げつけてくる。おそらく、馬車の中の女たちに向けて。

「読めたぞ……ひき肉職人、ジーモ」

 途端に、かくん、と、なにかのスイッチが入ったように男の首が倒れ、その焦点がハサンへと定まった。

「騎士か?」

「聞いてどうする」

 ハサンは、クジャクの手から剣を奪い取った。

「ジョーブレイカー君、これを捕まえろ。傷はつけるな。アレサンドロの身体だ。アレサンドロの身体に、別のものが入っている!」

 だが、真っ先に飛び出したのもまたハサンだった。

 よごれにまみれたボロの囚人服に布靴で、髪は乱れに乱れている。およそいつもの魔術師とはかけ離れた姿形であったが、懐に飛び入っての切っ先の一撃は、狙いあやまたずマサカリの柄に突き刺さり、いとも簡単に、それを宙へと舞い上がらせた。

「ゲェエィッ!」

 と、奇声を発してつかみかかる男を組み敷いたのは、ジョーブレイカー。小型N・Sとも言えるその力にかかっては、いかに制御を忘れた狂人であろうとひとたまりもない。身悶えして泣きわめく。

「眠らせろ、舌でも噛まれたら事だ」

 ジョーブレイカーの身体の下で男の手足が硬直し、直後、だらしなく地面に伸びた。

 ものの数秒の出来事であった。

「ハサン」

「うむ……クジャク君、ここから先は君にまかせる。行け」

「なに?」

「私とジョー君は、アレサンドロを目覚めさせてから行く。このままでは連れていけん」

「しかし……」

「急げ、やつらが追いついてくる。時間をかければかけるほど不利になるぞ」

 ハサンは前髪をなでつけたが、なかなか上手く整わない。

「わかった。向こうで待つ」

 と、クジャクが物わかりのいいところを見せると、

「待ちすぎるなよ」

「ならば待たせるな」

「ンッフフフ、了解だ」

 かがみこんだハサンは、遠ざかっていく馬車を耳で追っただけで、見送らなかった。

 それよりも、アレサンドロであった。

「さて……」

 さっそく身体を仰向かせ、探る。

「私が思うに、これは洗脳ではない。アレサンドロは別人格を植えつけられたのだ」

 と、頭蓋。

「ああ神よ、感謝します。脳の入れかえではない」

 これには、ジョーブレイカーも安堵のため息をもらした。

 ならば、と、次に、

「少し支えていてくれ。ああ見ろ、これだ!」

 それは、長髪をかき分けてはじめて見える、盆の窪にあった。

 小さな小さな、赤い、ビーズのようなものだ。それがちょうど、くぼみの真ん中に貼りついている。

 ハサンはそれを少し、本当に、ふれるかふれないかという強さで、一、二度つついた。

 ビーズには針が生えていて、それが肉の中へ深々と入っているのだった。

「……どうしたらいい」

 ハサンは顔を覆った。この先、自分にまかせられるだろう役割が、容易に想像できたからである。

「どうすればいい」

「抜け」

「これがどう刺さっているかもわからんのに?」

「……」

「……自信がない」

 と、本音がもれ出した。

「他に誰がやる」

「延髄だぞ。傷つければ死ぬ」

「このままでも同じことだ」

「ああ、まったくそのとおり。わかっているとも、君はいつでも正しい。だがこれはアレサンドロで、私は盗人、この針を仕込んだのは、魔人とスダレフだ!」

 ハサンは誰もが知るとおり、天地がさかさまになっても取り乱す男ではない。だがこの場合、相手がジョーブレイカーということもあったのだろうが、極まった現実主義が、この男を駄々っ子のようにした。

 すなわち。

 自分にもできることとできないことがある。

 とにかく、アレサンドロは死なせたくない。

 そしてこれはおそらくオオカミも同じで、だからこそ大丈夫だとも思うが、やはり針は抜きたくない。

 さらに言えば、こんな気持ちでは、なにをやっても成功するはずがない。

「……ハサン」

「なんだ」

「なにかが、来る」

「なに」

 ハサンは、はっと耳をそばだてた。確かになにかが来ている。

 馬車のようではあるが、微妙に違う。

「頼もしいな、ジョーブレイカー君。君はまた、いつも冷静だ」

 言ったそばから、それは角を曲がってきた。

 珍しい犬の引く車だとわかって、息をついたハサンは、逃げずにその正体を確かめることを決めた。

「通りすぎるようならば放っておけ。止まるようなら……さて、どうしたものかな」

 ハサンは横たえたアレサンドロの頭を胸に抱き、ジョーブレイカーに目隠し役を頼んだ。

 犬車は、ハッハと荒い息づかいを残して横合いを通過していったが、

「アッ!」

 後部座席の小男が甲高く叫んだので、止まった。

「チ……」

「……ハサン。あのふたり、見覚えがある」

「なに、どこで」

「アレサンドロの縁者だ」

 犬車の手綱を握っていた男が、麻のローブをひらめかせて駆け降りてきた。そのひょろりとした長身よりもさらに長い、樫製の杖を手にしている。

 男はすぐにでも近づきたい心を、ぐ、と、抑えた様子で足を止め、

「もしや、君たちはレッドアンバーで、その子はアレサンドロと言うのではないかな」

 と、遠くから、気づかわしげに語りかけてきた。

「あなたは?」

「ウォレン・ストーン。魔人ジャッカル」

「これに医術を教えた……?」

「ああ、やはりそれはアレサンドロだったか。どうした、怪我をしているのなら、みせてみなさい」

「助かった!」

 まさに天の助け!

「先生、頼む。アレサンドロを助けてくれ! あなたにしかできない。アレサンドロを助けてくれ!」

「なんと?」

 ジャッカルはぎょっとして、飛びつくようにアレサンドロを引き受けた。

 

 さて……。

 実はこの光景を、物かげから見ていた者がいる。

 逃げたはずの御者だ。

 うふ、ふ、ふ……。あれが、ジャッカル。

 手間がはぶけたな。

 御者は覆面をたたんで、踊るように駆けていった。

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