第206話 案ずるより産むが易し(2)

 天使の風に呑まれた直後のことを、マリア・レオーネはよく覚えていない。

 赤いL・Jに投げ捨てられ、あっと思ったその瞬間。ただ、幼いある日のことを思い出した。

 あれは、神殿からの帰り道だっただろうか。

 突如生じた黒雲が見る間に空を覆い、母の真珠よりも大きな氷の塊を、いくつも、いくつも降らせてきたことがある。

 それが、あまりにも激しく馬車の屋根を打つので、臆病な兄たちは真っ青になって貧乏ゆすりをはじめ、しかもそれを屋敷に着くまでやめようとはしなかった。ひどくがっかりさせられたものだ。

 いまこのときも、それに似た音と振動があったが……ひとつだけ、この道連れの様子だけが違った。

『おい、ぼさっとしてんじゃねぇ!』

『……なに、私がいつ?』

『してんじゃねぇか』

 気づけばアリオトの腹には、ミザールの鉄鞭が二重三重にからみついている。

 あたりはまるで泥水の中のような視界の悪さで、ピンと張った鞭の先は砂の色に溶けこみ、どこにいても目立つはずの金色の装甲はシルエットすら見えない。しかし、その長さを考えると、そう遠くにいるとも思われなかった。

 マリア・レオーネが口をつぐんだのは、これがなければいまごろ風に押し上げられ、空高くへ放り出されていたに違いない、と、そこに思い至ったからであった。

『テメェ、さっきシュトラウスのやつと、凧だのなんだの言ってやがったな。できるのか、いや、やってもらわなきゃならねぇ。こっちがもう限界だ』

 おそらく、氷結のアリオトを捕らえた別の手で、天使のパーツか、それに引っかかった枝木でもつかんでいるのだろう。それがはずれかかっている。

 ひと息にはき出されたギュンターの言葉には、その切迫と、冷静とが入りまじっていた。

『おい』

『わかっている。だが……』

『だがもへったくれもあるか。やるぞ、こうなりゃやけくそだ』

 ギュンターは答えも聞かずに数えはじめた。

『一、二、三! それ!』

 上体が前にのめり、肩の鎧板とシートベルトが、うめき声にも似た音を出してこすれ合った。

 のぼって行く、飛ばされて行く。

 一回転し、もうそれだけで、目視だけでは上も下もわからなくなった。

 鞭をたぐって現れたミザールが、力強く、アリオトの腕を取った。

 ……くそ!

 やるとも、やってやる!

 マリア・レオーネの指が、決意に燃えて動いた。

 まず……。

 天才がどのような状態を期待しているのか知らないが、落下傘状の氷にぶら下がる、などというのは物理的に不可能だ。所詮、氷は氷。この風圧の中で複雑な形状を維持できるはずがない。

 いやそれ以前に、アリオトは凍結液を、剣か、足首のアンクルユニットからしか噴射できないではないか。

 とすれば、これしかない 

 凧……そうだ、氷の板に乗るのだ。

 アリオトは二度三度、くるぶしにあたるサポートユニットをぶつけ合わせて土を払い、それを風上へ向けて突き出した。

 さて、ここからは技術がいる。

 凍結液噴射の威力が強すぎると形を作る前に霧散してしまうだろうし、弱すぎると噴射口をふさいでしまう。

 その絶妙なポイントを見つけ出すのに、マリア・レオーネは非常に苦労した。

 そもそも、許された作業時間は数秒。どうやっても無理があった。

 土煙を構成する粒子の、ひと粒ひと粒に日光の輝きが加わりはじめ、嵐の終わりがすぐそこまで来ていると現実が語りかけてきたとき、

『くそっ!』

 マリア・レオーネは操縦桿を放り出して自身の腿を殴った。そして再び、桿を引っつかんだ。

『天才め! なるようになれ!』

 ギュンターの言う、やけくそだ。

 適当に速度、角度を合わせて噴射された凍結液は一直線に風上へ走り、風の勢いに押されて、凍りながら広がった。

 天才への劣等感が、運を呼びこんできたとしか思えなかった。

『……できた』

 完成した形はさながら、半球の、サラダボウルのよう。

 ありったけの凍結液を使った上、繊維片や土を取りこんだせいか仕上がりはかなり頑丈で、二機のL・Jが中心に落ちこんでもびくともしなかった。つまりそれだけの大きさもあった。

 なめらかな曲線を描く、すり鉢の底にしがみつき、さらに数秒。

 はたと気づくと……。

 そこには、光があふれていた。


『……ギュンター』

『……』

『私たちは、生きているのか?』

 ちぎった綿をまとめ合わせたような灰色の雲。その隙間から見える青。L・Jのカメラはすぐにしぼりを調整して、それらを見せてくれたが、この、波間にただようような感覚はなんだ。

 隣のミザールはすでに半身を起こし、安穏とも呆然ともとれる様子で彼方を見つめている。

『ギュンター?』

 問うと盛大なため息が聞こえた。

 見ろよと言うので従うと、マリア・レオーネはむしろ、ため息と言うより、驚愕に息を飲んだ。

 二機は揺れる氷の舟に乗って、土色の海の上にいたのである。

『こ、これは……?』

『ボケてんじゃねぇ。野郎の頭の上に決まってんじゃねぇか』

『では……』

 これは天使・旋風の排気か。排気にまじった塵あくたが引力に負け、進行方向を変えて地上へと向かう、そのラインが海原に見えているのだと言うのか。

 確かに、はるか彼方に望まれる景色は、いまいるこの場所が身もすくむような高さにあることを物語っている。

 それにしても静かだ。

 マイクが壊れてしまったのだろうか。

 マリア・レオーネは、なんだか気が抜けてしまった。

 戦闘中にこのような気分になるなど、ついぞないことであった。

『どうしたよ』

『……え?』

『天才に近づいたんだ、うれしそうにすりゃいいじゃねぇか』

 ギュンターの声には嫌味がない……ように聞こえる。いままで、ただの挨拶だろうが癇に障っていたのだが不思議なものだ。

『うれしいものか。ただのまぐれだ』

『……天才に』

『?』

『天才に勝つにゃあ、どうしたらいい』

『知るか。それより、この高さからどうやって降りるかのほうが重要だ』

『……チェッ』

 ギュンターは舌打ちしたが、確かにそれは大きな問題だった。

 どのような猛者であろうと、おそらくこの状況はぞっとしない。


『ねぇ、ユウ! どうしたらいいか考えてる?』

『考えてないのか?』

『考えてるけど、ユウのが知りたいの!』

『この風を止めたいんだろ。そうすれば上のふたりでもこいつを倒せる。ふたりは大丈夫なのか?』

『うんまぁ、ダメだったらなんか言ってくるって。それよりもぉ』

『壁に穴を開ければいい。上に行く風を横から逃がしてやるんだ』

『あ! あたしもそれ考えてた!』

『よし、やろう』

『あたし左ね、ユウは右。はいはい、わかってるって、頑張ろうね、モチ!』

『ホ、ホ』

 サンセットⅡとN・Sカラス。この会話がかわされたとき、アリオト、ミザールはまだ砂にもまれていたのだが、二機は天使・旋風の側壁にそってふた手に別れ、得物を構えた。

 この壁の厚みがどのくらいか、などということは考えない。ある程度の傷をつければ、内腔からの圧力によって自然に裂け、弾けるだろうからだ。

『せぇの!』

 と、スピナー、大刀が同時に閃き、壁に突き立った。

 そしてそのまま切創を引きながら、それぞれ天使のまわりを一周した。これには少し時間がかかった。

『よっし!』

 結果は思ったとおり。

 小規模な破裂が、あちらこちらで起こり、さらにはその穴を起点として、ファスナーを開けるように傷口が広がった。

 ぶう、と、天使の全身から土色の血が振りまかれる。

 天上に吹き上がる風が見る間に透きとおり、天使・旋風は悶絶のうちに、外気の吸入を停止した。

 さて……。

 そうなって窮地に立たされたのが、ミザールとアリオトである。

 おそれていた事態は突如現実となってやって来た。落下がはじまったのだ。

 まず足もとがすっぽりと抜け落ちる感覚があり、はじめは、なぶるようにゆっくりと、そしてすぐに、身も凍る重力の逆転が……。

 それは胃の腑を持ち上げ、足をすくませ、肌を粟立たせて悲鳴を強要する、静かな暴力だった。

 なまじ風よけとなる氷の足場があったために、大きく揺れもしないのがかえって恐ろしい。あまつさえ不透明のそれのせいで、地上はおろか、真下にいるはずの天使までの距離さえ測れないのである。

 あと何秒で激突する……?

『ち、くしょう!』

 ギュンターは今日、何度こう思い、口にしてきたことだろう。

 だが今回のちくしょうは、ただの悪態ではなかった。絶望でもなかった。

 ミザールのひとしごきでとぐろを巻いた二条の鞭が、足もとの氷を鋭く叩いた。

『な、なにを……!』

 鞭は『火炎』のふたつ名のとおり炎をまとい、表面に突き出た木っ端や折れ木を燃え上がらせた。中には深く入った木もあって、熱した楔を打ちこまれたように、そこには大きなヒビが走る。

『やけくそついでだ、ダイブするぜ。バーニア噴かすのは天使の野郎に近づいてからだ。あせって無駄使いしやがんじゃねぇぞ。うるせェ、くどくど言ってるヒマはねぇんだ。こいつを割るぞ。さっさと立ちやがれ!』

 鋼の鞭が再びうなった。

 みしみしと、氷に似つかわしくない音を立てて足もとが折れ曲がり、それがふたつの塊に分離するや、すさまじい風圧がL・Jを押し上げた。

 最も近い、天使の頭頂部まで、およそ百メートル。

 今度はまじり物のない風であったので、よく見えた。

『着地できるのか!』

『テメェのL・Jに聞け! 少なくとも……』

 天才ならやってのける。

『いまだ!』

 ギュンターのかけ声に一秒と遅れずついてきたのは、マリア・レオーネもさすがの将軍であった。

 青い炎がバーニアノズルを焼き、落ちているのだか、少しは持ちなおしたのだかわからない時間は、ひと呼吸で衝撃に呑まれた。

『くっ……』

 無我夢中のうちに操縦桿をこねまわす。

 傾斜を転がり落ちているような感覚。

 再び衝撃があり、見れば、天使の頭飾りの隙間にはさまっている。

 機体は無事だ。

 バーニアの作用だけでなく、天使の表面を余すことなく覆う、柔軟な皮膚装甲のおかげで助かったのだ、などと分析する余裕は、この時点ではどちらにもなかった。

『ああ、ちくしょう、なんて日だ……』

『L・Jとは丈夫なものだな』

『ちぇっ、いいデータになったろうよ』

『つ……』

『おら、異常がねぇなら、もうひと仕事やるぜ』

『天使か……』

 もうどうでもよくなってきた。

 いかにもそう言いたげな渋面を見せつけられ、ギュンターは思わず、ぷっと吹き出してしまった。ひとつ事を成し遂げたためか、自分でも胸のつかえがおりているのがわかる。

 そして感じた。

 天才に勝つためには、バカになりゃいいのか、と。

 計算や経験値のおよばぬ世界、と言う意味では、ふたつは同じものだ。

『へ、へ。考えてみりゃ、あいつも大概だよな』

『なに?』

『いや、なんでもねぇ』

『それで、どうする』

『お、おぅっと』

 そこで大きなうねりが起こったため、ふたりの会話は一時途切れた。どうも、天使・旋風の腕が振りまわされているようだ。

 追い立てられているのは、赤いL・J、黒いN・Sか。

『いい気味だ。そのまま叩きつぶされちまえ』

 天使はいまだ側壁を展開中で、その外側についた腕は身体の中心から離れている。そのため、いまいるこの場所には、さしあたっての危険はないように思われた。

『あ』

『ど、どうした、ギュンター』

『この天使ってやつぁ機械だろ。半分肉でできてようが、カメラ使ってものを見てるからにゃあ、どっかから排熱かましてるに違いねぇ。ひと皮むきゃ、ダクトがあるってこった』

『ああ……確かに。可能性としてはあるな。そうか、わかったぞ、ギュンター』

『おうよ、こいつをぶちこんでやる』

 そう言ってミザールは腰の燃料タンクを叩いて見せた。

 中は満杯に近い。いかに巨大な頭蓋と言えど、これだけあれば機能損傷に十分だろう。

『温度センサーでは、ダクトの位置までわからんな』

『なら適当に引っぺがすだけだ』

『凍結液がまだ少し残っている。このあたりだけだが凍らせて割ろう』

『いいぞ、ノってきたじゃねぇか』

『なんだこれは。天使の皮膚装甲とはこんなに薄いものだったのか』

 凍結性能を持ったレイピアを突き刺しての、マリア・レオーネの感想であった。

『ああ、このあとのことを思うと気が重い』

 と、さらに冗談めかして言うのへ、

『へっ、次のダイブか? ま、なんとかなるだろうぜ』

『お気楽なことだ』

『こいつをヤりゃあ、どうとでも転ぶ。それだけのこった』

『フン。サリエリも気をつかわずに出てくるか?』

『けっ! そらどけ、俺が皮をむいてやる。……ハッハァ、見ろよ、どうやらツキもあるみてぇだ。こいつはダクトじゃねぇか。すぐ足の下にありやがった!』

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