第175話 聖告

 ……その軍用テントの中は、異様なほど明るかった。

 誰もが鼻をつままずにはいられないほどの、強いにおいがこもっていた。

 いかにも青くさい薬と、濃い、血のにおいなのである。なかば乾きかけた、土むき出しの床の上には、なるほど、ひどく乱雑に、血のついた包帯が取り散らかされている。

 それがいったい、誰の血か。

「……ぁ」

 わらのはみ出したマットレスの上。エディン・ナイデルの口から、熱を帯びた吐息がもれた。

「……ゥー・アウ……マン」

 憎いあの男。

 ヒュー・カウフマン。

 ヒュー・カウフマン。ヒュー・カウフマン。

 だが、エディンがいくら歯ぎしりをしようとも、その姿も、においさえも、もはや感じ取ることはできない。

 なぜならばあのとき、この男は左腕を落とされると同時に、カラスたちによって光を奪われた。ほとんど形を失うまでに、鼻梁を食いちぎられてしまった。

 その他こまごまとした傷は数えきれず、いまや身体の上半分を、血染めの包帯で巻かれている有様なのであった。

「これからどうなるんだ……?」

「さあな」

「ビアッソが、リーダーを継ぐとか息巻いてる」

「やらせておけよ。俺たちが考えなきゃならないのは、誰についていくかってことより、ここを出るか出ないかってことだ」

「アレサンドロ・バッジョか……?」

「もしくは、エド・ジャハンさ」

 分厚いテントの布地を通すことで、水中からのざわめきのように聞こえたそれは、守衛役の男たちの声だ。

 殺してやる……殺してやる……。

 エディンの呪詛は絶えることがない。

 殺してやる。

「みんな、殺じてやる……ッ!」

 エディンがベッドを打ち叩くのと同時に、心臓をわしづかみにする、なにか強烈な、なにか恐ろしい物音が轟いた。

 悲鳴。塊肉を地面へ放り捨てたときに出る、重量感のある響み。

 そして一拍置いて、テントの入り口が持ち上がったらしい衣ずれ。

 一陣の風が吹きこみ、テントの天井にかけられた光石ランプが、錆びた骨を揺らしてキイキイ鳴き声を上げる。

「ぁ……」

 誰か入ってきたのだと気づいたエディンは、片時も手放すことのないオオカミの短剣を、固く握りしめた。

「だ、れだ……!」

 鼻腔にあふれた血が喉の奥まで流れこみ、エディンは激しくむせた。むせるたびに、焼けた鉄の串でえぐられるかのような激痛が、万力となってエディンの脳髄を苦しめた。

「誰だ……来るな……!」

 ざり、ざり、と、土を踏みしめる音が、近づいてきた。

「アレサンドロ・バッジョ……?」

 エディンのうつろな眼窩の奥に描かれたのは、その男が、剣を振り上げている姿。

 ……いや、

「ヒュー・カウフマン……あ、あ!」

 幾千、幾万の刃が、エディンに向かって振り上げられている。

「い、いやだ、来るな……来るなァ!」

 唇から黒い血の塊をはき出しながら、エディンはがむしゃらに短剣を振りまわした。

 その、唯一残された右腕が、がっしと捕まれた瞬間、

「きゃあぁあァッ!」

 がくがくと、壊れたおもちゃのように痙攣したその身体、その首に……ふと、暖かい手のひらがふれた。

「エディン」

「ア! ア、アァ! ヤアアァッ!」

「エディン」

「……!」

 この、声は……。

「この剣を、まだ大事にしてくれていると思っていた」

「……ア……アァ……」

「私はずっと、おまえを探していたよ、エディン」

「オオ……カミ、様……? あ、ああ……やっぱり、生きて……!」

 みるみる、その目を覆うごわついた包帯へ赤い涙が染み渡り、エディンは、声の主へすがりついた。

 ああ、なめし皮のようなこの肌合い。このぬくもり。

 恍惚となって首すじに唇を這いまわらせ、頬ずりをするその動きにも、声の主は動じない。

 エディンの涙はべっとりと、男の白い襟もとをけがした。

「お会いしたか、った……」

「エディン」

「ああ、離さないで。目が、目が見えないのです。あの男が、カラスが……!」

「ああ、知っている。憎いやつらだ。私のかわいいエディンを傷つけた」

「オ、カミ様……エディンは、うれしい」

「さあ、横におなり。傷にさわる」

「は、い……」

「こうして、手を握っていてあげる」

「エディンが、眠るまで?」

「そう、眠るまで。そうして目が覚めたとき、エディンは、何者にも負けない強い力を手に入れているよ」

「え……?」

「力が欲しいだろう、エディン? あの男たちと、この国を、壊すための力が」

「国を、壊、す……」

 このとき相手の男の指が、エディンの白い耳の裏側をなでるようなふりをして、なにか、針のようなものをそこへ突き通した。

 エディンは気づかない。血もにじまない。

 ただ、不思議な快感のようなものが、強い浮遊感とともに痛みを押し流していくのを感じたのみだ。

「そうだろう、エディン。この世はまさに、卵だ」

「たま、ご」

「もの知らぬ愚かな民が、厚い殻となって世界を覆っている。純粋純潔の正しい魂を押さえこみ、表に見えている自分たちこそがこの世界の分別であり、法であり、すべてだと言うのだ」

「た、ま、ご……」

 エディンは不意に、自分は目が見えなかったのではなく、暗い闇の世界にいたのだったか、という心地になった。

 なぜならば、いま目の前に、大きな卵が浮かんでいる。両手でかかえるほどの大きな卵だ。

『オオカミ様……?』

 いない。

 しかしそれよりもなによりも、視線は卵に釘付けとなり、ごくり、喉が鳴った。

 卵は無明の空間の中でもはっきりと見え、なんだろう、ふれずにはおれない引力のようなものを持っていた。

 エディンは、おのれの肉体が一糸もまとわずさらけ出されていることも、五体がすべてもとどおりに再建されていることもまったく意に介さず……というよりも、それが当然と思いこみ、こぐようにして前へ歩み出ると、その、きめの細かい白い肌を抱いた。

『へぇ』

 他人にも異性にも、愛玩動物にも興味を持てないエディンだが、この卵は悪くない。

 ひんやりとして、さらり。おまけに孤独だ。

 エディンはからみ合うようにしてそれとひとしきりたわむれ……次の瞬間。

 どういう弾みか、その卵の中に、すっぽりと納まっていた。

 両手両足を折りたたみ、小さく丸まった状態で、

『う、ふふ、ふ』

 と、無性に愉快になり、笑った。

 そして、殻の内側の、乳白色をした薄皮の一部分に、針の先でつついたような、ごくごく小さな黒い点を見出した。

『?』

 完璧なものの中の、いやらしい汚点である。

 エディンはそれを嫌い、小指の先で引っかいてみた。

 しかし点は消えるどころか、みるみるその面積を増し、広がった。

 エディンは、またかいた。

 すると今度はその勢いを止めることなく、爆発的に広がった。

『あ、ああ……!』

 赤や青の入りまじった、濃淡のあるそのどす黒いシミは、とても絵の具を混ぜた程度では表現できまいと思われるほど、ひどくグロテスクな色合いでうごめきまわった。

 時に燃えさかる炎。時にあざけり笑う人々の顔。ぐにゃりぐにゃりと変化する紋様と、それに包まれた自分。

 卵はこんなにも汚濁にまみれているというのに、自分の身体はどこまでも白い。

 その白さこそが、なによりも恐ろしい。

『だ、出して! オ、オオカミ様!』

 エディンは殻を叩き叫んだ。

 黒いシミから現れた太い触手が、エディンの腕へからみついた。

『ヒ、ヒィッ……!』

 猛烈な熱感とともに、ものの腐ったようなにおいがした。

「……エディン」

『オ、オオカミ様? オオカミ様ァ!』

「エディンは世界が孵化をする、その手伝いをしなければならない」

『え?』

「腐った殻を破壊し、新しき、世界を」

『あ、あ、あぁ……!』

 そのとき、エディンは気づいた。

 腕の中になにかいる。なにかを抱いていると。

 おそる、おそる、視線を落とせば、小さな、光り輝く獣と目が合った。

 透きとおった水色の瞳。銀色の毛並みのその獣は、エディンの喉元へ首を伸ばしたかと思うと、そこへ、甘く歯を立てた。

 にぃっ。

 エディンは押しこめられた黒い殻の中で手足を突っぱらかせ、熱い吐息とともに、意識を手放した。


「スダレフ、あとはまかせた」

「かしこまりました。ほうれ蛇ども、早く連れていけ。……ヒ、ヒヒ、それにしても、お人が悪い」

「なに」

「薬など使わずとも、この男はあなた様の虜。手のひらで動かすのはたやすいことでしょうに」

「フフ……この子は、純粋なのだ、スダレフ」

「ほぉう?」

「真っ白な子どもは、気分で色を変えやすい」

「なぁるほど」

「色をつけたくなければ……」

「紙は、黒く塗りつぶすにかぎりますな、ヒ、ヒヒ、ヒ……」

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