第167話 ガラスの恋心
翌朝。
ユウとモチは、夜も明け切らぬうちに朝食を取り、日の出とともに二号車を出発した。
ここ数日は、なかなか天候の安定しない日が続いていたが、今朝は快晴である。N・Sで移動する予定のふたりには、多少気温が低かろうとも、このほうが都合がいい。
ふたりの荷物は、ひと包みにした数日分の食事と、戦利品の通信機。
そして、
『重くないか?』
と、ユウがたずねたほどの大荷物。マンタの腹から引きずり出した、ベネトナシュの翼であった。
『問題ありません。それよりも、急ぎましょう』
『ああ、頼む』
ベネトナシュの翼は人型のときこそ『翼』として背についていたが、飛行形態では外縁部のパーツとなる。三角形の矢じりにたとえるならば、へりの刃だ。
大気を切り裂き、敵を切り裂くこの部分は主に光鉄でできており、他とは比べものにならないほど強固に鍛えられている。ユウたちとしては、これを使わない手はないだろう。
これこそ、新しい太刀の素材にふさわしいと考えたわけである。
ララは、幾分ゆっくりと遠ざかっていくカラスにいつまでも手を振り続け、その姿が山間に隠れたところで、ほう、と白い息をはいた。
見送りに出ていた十数人の人々が、今日の予定などを言いかわしつつ二号車へ戻っていったのちも、その場を動かなかった。
「ラーラちゃん」
「テリー……アレサンドロも」
「うん。ほらもう入らないと、風邪引いちゃうよ」
「……うん。でも、もう少し」
ララは煮え切らなかった。
「大丈夫だよ、彼氏さんなら。ララちゃんの、あれ、なんて言ったかな、なんとかナイフも持っていったんでしょ?」
「う、ん……」
「だったら、ミミズのおじいちゃんに会って、剣作ってもらうだけだもん。問題ないない。ね、旦那?」
「そうだな」
当然ながらアレサンドロとテリーは、ユウの目的がミミズだけであると信じ、疑う様子もない。
しかし、ララの心は違った。
ララは、ぶるっと身を震わせたかと思うと、両腕で肩をかき抱き、言った。
「あたし、なんだか、ザワザワするの」
「ザワザワ?」
「ドキドキして、寒いの」
「ほら、やっぱり風邪だよ」
「違うの。そんなんじゃない」
「……うぅん」
「あたし……ホントに、どうしたんだろ。ドキドキが止まらない。なんだか、このまま……」
「ラ、ララちゃん?」
「この、まま……ッ」
アレサンドロとテリーは、顔を見合わせた。
唇を噛み、言葉を詰まらせたララの頬に、大粒の涙がぽろり、こぼれて光るのが見えたからである。
涙はほんのひとしずくであったが、ララは大げさに目蓋をこすり、たまりかねたように、アレサンドロの胸へ飛びこんだ。
「ユウ、絶対帰ってくるよね」
「ああ、当たり前だ。みやげのひとつでも、頼んでおきゃあよかったな」
「……うん」
「ほら、ララちゃん泣かないで。中でココアでも飲もう?」
「ん……うん」
「よし、さ、行こ。よいっしょっと!」
「きゃ! ちょ、お、下ろしてよ! バカぁ!」
「イテテテテ! でも俺は下ろさない」
「やだぁ!」
「なにしてんの旦那! 旦那も行こう! ココアが呼んでるよ!」
ララは、舌が焼けるほど熱いココアを飲んでもなお気分が落ちこむのをどうすることもできなかったが、少し元気が出た。
考えてみれば、そのとおりだ。
ユウは戦いに行ったのではない。ミミズに会いに行ったのだ。
心配することなどなにもない。
「……はぁ」
あとでモチにもなぐさめてもらおう。ララはココアの膜をすくい取って、
「あ」
そのモチが、ユウについていったのだということを思い出した。
「そっか……うん、そっか」
ユウはひとりではないのだ。
これだけでも、気分としてはまったく違う。
なぁんだ、と含み笑いが出た、そのとき、二号車がぐらりと揺れた。
マンタの背に固定するため、時折こうして揺れるのであった。
作業に出たテリーとアレサンドロの残していったカップから、ことん、と、スプーンがすべり落ちた。
「あ……ありがと」
「はい」
手早く盆にふた組のカップとソーサーを載せ、六人掛けの白い丸テーブルをふき上げたのはシュナイデだ。
誰の指示かは不明だが、手の空いているときは大抵食堂の給仕をしている。ララはもちろん、二号車中の誰もがそのことを知っていた。
「あたしのは、まだあるから」
「はい」
きっぱりと答えたエプロン姿のシュナイデは、盆を片手に返却台へと戻っていった。
「ん……?」
なんだろう。ここでふとララは、妙な気分におちいった。
返却台近くのテーブルで、ひとり物書きをしている青年がいる。その、やや充血気味な眼鏡の奥の瞳が、ララと目を合わせた瞬間、あせったようにうつむいたのだ。
それが何者か、知っているかと問われれば、ララは、うんと答えるだろう。
ただし知ってはいるが、特別な関係があるわけではない。二号車で働く人々のシフト管理が青年の担当であるため、知らないこともない、という程度だ。
青白く痩せた、いかにもインドア派。おそらく歳は自分よりも上、ララの認識はそれ以上でも以下でもなかった。
青年はコーヒーに口をつけるという、いかにもわざとらしい動作でその場をごまかし、おそるおそるララを見やると、また視線を泳がせた。
三度目に動いたその目が見つめたのは、機敏に立ち働く、美しいシュナイデだった。
ははぁ。
ララはここにきて、なるほどと思った。
あの青年は、シュナイデに気があるのだ。
その証拠に、先ほどまでは感じられなかったひたむきな感情が、その目にありありと浮き出ている。間違いない。
モップを動かし、外から持ちこまれる雪と泥とを薄汗もにじまさずにふき取っているシュナイデは、そのようなことはまったく知らぬげだ。
ひょいとこちらに向けられたヒップが、腕の動きに合わせて魅力的に揺れはじめると、青年は顔を真っ赤にして、窓の外へと目をやった。
そしてまた、ちらりちらりと若い眼差しで、そのヒップをのぞき見た。
……しかし。
この青年とて十二分に理解しているのだろうが、これがただの下心でなく恋心だとするならば、いまから涙の準備をしておかなくてはならない。シュナイデには、特別な男がいる、のである。
少なくとも二号車内の認識では、その相手、すなわちジョーブレイカーとシュナイデは恋人同然。
なにしろ夜などはふたり、どこへともなく姿を消すと言うのだから、むしろそれ以上と見る向きが強いのだ。
でも、ホントかなぁ……。
ララはいまひとつ、ピンと来なかった。
ふたりが夜、外出をするのは、二号車周辺の見まわりのため。それを知っているせいかも知れない。
しかしそれを抜きにしても、無表情無感動のシュナイデに恋愛感情。無口無愛想のジョーブレイカーに、恋愛感情。
「うぅん」
やはり、おかしな気分であった。
そこへ再び都合よく、モップを手にしたシュナイデが近づいてきた。
「ねぇ」
「はい」
「ちょっと、ちょっとこっちきて」
シュナイデはなぜとも聞かずに、ララの左隣へ腰を下ろした。
ひとつ咳払いしたララは興味津々、お行儀よく見せながらも、ずばり切り出した。
「シュナイデとジョーってさ、どうなの?」
シュナイデは眉ひとすじも動かさず、ただ小首をかしげた。
「だから、付き合ったりとかしてるの?」
と、この質問に対しても同じ態度。
「好きなの?」
ララはさらに小声で詰め寄り、下から、ずずい、と、のぞきこんだが、シュナイデの答えは、
「?」
だった。
「だからぁ、好きって、その、特別だなって、そういうこと」
「はい」
「一緒にいたら楽しくって、ドキドキして、いっつも、一緒にいたくって、心配で……」
「はい」
「気になるの。寝てても、いま、なに考えてるんだろうとか、あたしのことも、ちょっとは、考えてくれてるのかな……って」
「はい」
「それで、みんなが言うじゃない? 冷やかして、彼とはその……ど、どこまで行ったの、とか」
「?」
「そう言われた夜って、だ、だいたい、寝られなくなるの。ユウの顔がすぐ、頭に、出てきちゃって……」
きゃっ、ララは小さく叫んで、顔を覆った。
「だ、だから、そういうこと! そういうことってないの?」
「ありません」
「え、ええ?」
なんと、いともあっさりと否定されてしまった。
「で、でも、デートとか、手をつないだりとか、一緒におやつを食べたりとか、そういうことくらいしたいって……」
「いいえ」
「ジョーもそういうこと言ってこないの?」
「はい」
「じゃあ、ジョーってなんなわけ?」
「?」
「ねぇ、あんたのなに?」
するとシュナイデは、それでも考えた様子で、
「味方です」
「……うっそぉ」
ララは思わず浮かせた腰を、ぺたんと、椅子の上に落としてしまった。
……なにそれ。
いや、実際そうではないかと思っていたのだから、多少のがっかりはあったものの、この返答はよしだ。
ただ、ここまでの会話で盛り上がっていたのが自分ひとりだけだったのかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
せめて、
「わかります。けれど私たちは違います」
とでも言ってくれれば、救いようもあったのに。
「うそぉ……」
ララは頭をかかえ、なんともやり場なく身悶えした。
それを見るシュナイデの目は、いつもどおりのガラス玉だった。
「うう……じゃあなに、ホントにジョーとはなんでもないってわけ?」
「はい」
「ただの知り合いで、いきなりいなくなっちゃっても気にしな……」
「……ララ?」
「あ、ううん……あの、じゃあ、ね?」
「はい」
「たとえばジョーが……心配しないで待ってろって、ひとりで出て行っちゃったとしてさ、いつ帰ってくるかもわからなかったら、どうする?」
ララはこのとき、自分でもなにを言ってもらいたいのか、はっきりとわかっていなかった。
ただ、おそらくなんでもいい、いまの自分の行動を後押ししてくれる、ひとことが欲しかったのだ。
待てでもいい。追えでもいい。
「待ちます」
「そう言われたから?」
「はい」
「十年も、二十年も、ずっと?」
「はい」
「ずっと……戻ってこなかったら?」
「戻ります」
「え?」
「戻ります」
それは抑揚のない、まるで録音した音声をくり返したかのような返事だったが、だからこそかえって、そこには断固としてゆずらぬ意思が存在するようだった。
ぱちぱちと目をしばたたかせたララは、
「ふぅん……」
と、またしても膜が張ってしまったココアにとどめを刺し、視線を泳がせもしないシュナイデを見た。
そして、その柔らかい肩へ身をもたせかけるようにして、
「あたし……あんたのそれって、やっぱり、好きってことなんだと思う」
「?」
「だからあたしも、見習わなきゃね」
「……」
「あ、いまの話は、もちろんみんなには内緒」
「はい」
「じゃ、あたし外のアレサンドロたち、手伝ってくるから」
ララは立ち上がった。
「カップ置いてっていい?」
「はい」
「じゃね」
立ち去り際、ララは、いまだシュナイデをのぞき見ては悦に入っている眼鏡青年の横で足を止め、
「ばあ!」
その鼻先へ、顔を突き出した。
「わ、あ、ああっ!」
「アハハッ、バッカ」
ララは声をひそめるでもなく豪快に笑い、椅子から転げ落ちた青年は赤面した。
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