第168話 マンタ発つ

 二号車を乗せたN・Sマンタが飛び立ったのは、その日の昼過ぎのことである。

「む、ううん」

 と、N・Sへ乗りぎわ、その背の上で気分よさげに伸びをしたマンタは、

「爽快爽快」

 鼻をうごめかし、青い空に突き上がったひげを、調子よく動かした。

 間接的に腹をえぐられてからの数日はベッドですごし、おととい昨日と起き上がれたのはいいものの、N・Sの試し乗りを数度しただけでドクターストップがかかってしまった。活動的なマンタにすれば、大いに欲求不満な日々を送っていたのである。

「今日も無理はするなよ」

 と、言うアレサンドロの心配も、マンタはいつもの大笑いで吹き飛ばした。

「アレサンドロ君、我輩は泳いでいなければ死んでしまうのだ」

「はあ」

「男はいつも前のめり、うむ、いい言葉だ」

「……」

「君には特別に、いまの言葉を使う権利をあげよう。なに、礼はいらんぞ」

「そりゃまた、どうも」

「よし、行こうか!」

 足の下にある自身のN・Sへ声を投げかけるようにして、マンタは羽織った共用のコートを脱ぎ捨てた。

 薄手のそでなしシャツに、腰を紐で結わえた綿ズボン。

 かつての着衣は聖ドルフに置き捨ててきてしまったため、これは一応、二号車が着替えとして用意していた新品だ。しかし、それよりもなによりも、これではいかにも体操着である。寒々しい。

「こいつを着ていってもいいんだぜ」

 アレサンドロはいま一度コートを差し出したが、

「うむ、心配ご無用!」

 マンタは断った。

「我輩は故郷へ帰るのだ」

「故郷……?」

「波だ、うねりだ、嵐だ! 行くぞう!」

 マンタは裸足で駆け出した。

 そして、両足で踏みきったかと思うと天高く飛び上がり、まるで競泳の選手にでもなったかのように両の指先を合わせ、N・Sの黒い皮膚へとダイブした。

 水しぶきが上がるかわりに閃光が走り、次の瞬間、マンタの姿は跡形もなく消えている。

 ぐらり、アレサンドロの足もとが揺れた。

『さあ、アレサンドロ君。早く早く、早く車へ戻るのだ!』


 そもそもが動く集合住宅である二号車には、マンムートにあった、軍事上必要な設備はほとんど存在しない。

 ブリーフィングルームは居室のひとつを間借りし、唯一残された索敵機材である無線類は、二号車最上層のひと部屋を通信室に見立て、そこの窓からアンテナを突き出すことで体裁を取っている。

 二号車の額にあたる場所には、ちょっとした運動場ほどもある展望スペースがあり、いまではそこがブリッジであった。

 幅は広いが扉さえついていない出入り口と通路とをへだてているのは、申し訳程度に立てられた、すりガラスのついたて二枚。アレサンドロはそれを押しのけるようにして仮ブリッジへと入り、

「ハサン、準備は」

 と、声を投げた。

 忙しく動きまわる青年たちを尻目に、ハサンはぐるりと配置されたソファに腰をうずめ、

「できている」

 と、答えた。

「こいつは?」

「自分の目で確かめろ」

 アレサンドロがかがみこむと、長机を並べ合わせただけの地図台とクリアボードの足は、どれも赤い粘着テープによって床へ固定されている。

 それはいかにも野暮ったく見えたのだが、アレサンドロは仕方ねえなと感じただけで、特に意見しようとは思わなかった。

「セレンたちは戻ってるな」

「ンン」

「通信室からは?」

「問題ない。周辺に敵機なし」

「よし」

 アレサンドロは壁にすえつけられたインターカムを取った。

 短縮番号でつないだのは、まず、艦内全域への放送回線だった。

『あ、あ、こちら、ブリッジ』

 このかしこまった前台詞が、アレサンドロは苦手である。

『これから、空へ上がる。怖がることはねえが、全員椅子に座ってくれ。不安があるならベッドでもいい』

 そう言う間にも、若者のひとりがついたてを撤去する。

『まわりを見てくれ。落ちやすいものはねえか? 壊れてまずいものはねえか? 火の始末はできているか?』

 アレサンドロは十分すぎる余裕を取って、ハサンとうなずき合った。

『安全だとわかるまで、そのままでいてくれ』

 あとは、怪我人の出ないことを祈るばかりだ。

『マンタ』

 アレサンドロは次に、艦外へと呼びかけた。

『うむ!』

『こっちはいいぜ。いつでも、あんたのタイミングで出てくれ』

『了解だ!』

 すると、それを言い終わるかどうか、マイクを置くか置かずかというところで、どすん、と、二号車全体が揺れた。

 背骨を突き上げる、大きな揺れである。壁を伝ってよろめきながら、アレサンドロは、ハサンと同じソファへ転がりこむ。

 一回、二回三回。

 大窓の両端に見えるヒレが上下して、その圧力に押された雪が周囲広範囲へ舞い上がるのが見えた。それから四回目。

 白い腹と地面との間に空気が流れこみ、巨体が浮き上がった。間髪入れず五回目。

 するすると風を切って進む感覚が誰にも感じられ、かちゃん、どこかで器の割れる音がした。

 胃の腑をきつく押さえこむ力が一瞬でゆるみ、ひと息ついたアレサンドロが見るともう、窓の外には空ばかりが広がっていた。

「アーレサンドロー」

「あ、ああ、なんだ」

「舵を取れ。高度が高すぎる」

 気密性の低い二号車では、いわゆる高山病が最も恐ろしい。

 アレサンドロは若干傾いたブリッジをすべるように駆け、インターカムを取った。

 そして、壁の高度計と照らし合わせながら、マンタを高度約一千メートルで固定した。

 幸いこの離陸で怪我をした者はいなかったそうだが、皿小鉢のたぐいが十数枚割れてしまったそうだ。

 アレサンドロたちの『家』は、こうしてまた再び動き出し、風が波と打ちつける空の大海へと旅立ったのだった。


 それから数日後の、昼下がり。

「アレサンドロさん、少し、いいですか」

「おう、ちょっと待ってくれ」

「あ……!」

「お、おまえも?」

「俺は、おふくろが……」

「お、俺だって、ばあちゃんが……」

 アレサンドロの前で鉢合わせした若者ふたりは、バツの悪そうな顔で口ごもった。

 泳ぎながらでも睡眠をとることができるマンタは、ここまでの間、ひとときも休むことなく飛び続けている。

 その、三日目の朝方からだろうか、アレサンドロのもとへ、こうしていくつか『進言』がもたらされるようになったのは。

「自分の生まれ故郷を見に行きたい」

「自分の知り合いが、まだあの村にいる」

 多くがそれである。

 どのような大風に吹かれようともマンタは上手くやりすごし、窓が開けられない、外に出られない以外は、日常生活に特別大きな変化はない。

 はじめのうちこそ、ほぼ無傷で逃げ去った飛行戦艦群に対して神経をとがらせていた男たちも、どうやら危険は失せたようだと理解してからは気を落ち着かせ、多少の振動では飛び上がらなくなった。

 ただ、艦内を走りまわる子どもたちの姿だけが、あちらこちらでよく見られるようになった。

 そんないつもの日常を取り戻すにつれ、誰からともなく口にのぼせるようになったのが、

「これなら、鉄機兵団も手を出せないんじゃないか?」

 という言葉だ。

 事実、射程はともかくとして、多くの出城で採用されている大砲では、マンタの腹に穴は開けられない。さすが、海沿いの防衛拠点には威力の高い海岸砲が並んでいるのだが、これとて海に出なければすむことだ。

 他に考えられる脅威としては、ケンベル軍のライフル部隊、超光砲、戦艦。しかし、これらはことごとく打ち破ってきた。

 ということは……と、いうわけだ。

 いままでは、この手の進言を受けるたびに言葉をにごしてきたアレサンドロも、近ごろでは真剣に、この件について思い迷いはじめている。

 余計な火種はまき散らさないに越したことはないだろうが、なにより、この二号車に乗った者だけが選ばれた民、であってはならないのである。

 アレサンドロはこの若者たちに対しても明言はしなかったが、ふたりと別れたのち、その足は迷うことなくハサンを探しに動いていた。

 ハサンは、なかなか見つからなかった。

「……妙だな」

 なにかと仕事の多いハサンやアレサンドロは、二日三日、ブリッジを開けることも珍しくはない。

 とはいえ、どのような場合でもまず例外なく、ふたりは誰かに行き先を告げていく。火急の折、誰にも連絡がつかないのでは笑い話にもならないからだ。

 しかし、ブリッジをはじめ、いくつかの心当たりをめぐってみたが、皆、答えは同じ。

「三日前は見ました」

 実はアレサンドロもそうだった。

 三日前の夜、おつかれさんと部屋の前で別れたのを最後に、まったくその姿を見ていない。そのことに、いまさらながら気づいたのである。

「おいおい……まさか、な」

 ハサンに限って、どうにかなるはずはない。

 思いながらも、アレサンドロの足は駆け出している。

 すれ違う誰もが尋常ではないその様子にはっと息を呑んだが、アレサンドロは釈明する時間も惜しみ、あらんかぎりの力で足を前へ送った。

 階段を二段飛ばしでのぼり、スライド式のドアが両側に立ち並ぶ通路を走り、目的の扉は、仮ブリーフィングルームの隣。

 ドアへすがりつくようにしてスピードを殺したアレサンドロは、乱れた呼吸をわずかに整えた。

 そしてごくりと喉を上下させ、おそるおそる、ドア面へ手をやった。

 部屋の中からは……物音ひとつ聞こえない。

 と、突然。

 目の前のそれが、さっと開いた。

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