第135話 狗と女王

 昼間であればわかるのかもしれないが、闇に塗りつぶされた市壁は、どこに『裏口』があるものか見当もつかない。

 その、鉄で補強された壁を四回、そして間をおいて三回少年が叩くと、五メートルほど離れた場所から、サッと明かりがもれた。

「……客が来たのかい」

 顔を出したのは門番だろう。デッキブラシのようなひげを蓄えた小男である。

 少年が、おどおどとうなずくと、ユウ、そしてララに一瞥をくれた男は、

「……入んなぁ」

 身体をずらして、三人を招き入れた。

「う……」

 猛烈に、酒のにおいがこもっている。

 テーブルと椅子の他には、薪ストーブと酒樽しかないその小屋の隅で、四人の男が陶製のジョッキを傾け、賭けポーカーに興じているのだ。

 これはジョッシュの手下、というよりも、この街の裏ギルドによって雇われた連中に違いない。用心棒と言えば聞こえはいいが、要は、ひとり頭片道千フォンスという、やや高価な通行料を取る門番の監視役というわけだ。

「お、へへ、女か」

 泥酔した男たちのひそやかな声が耳に入り、ララは知らず、ユウのかげへ身を隠していた。

「大丈夫だ」

「え?」

「大丈夫」

 ララが、思わず見ほれてしまうほどの微笑みである。

「あいつらにはなにもできない。なにかあれば、ギルドの信用が落ちるから」

「……」

「ララ?」

 あまりに答えが理論的すぎたために、ある意味がっかりであった。

 ここで、

「俺がいるから大丈夫」

 などという気のきいた台詞を期待するのは、わがままなのだろうか。

 ……あたしのバカ。前は、こういうところが好きだって言ってたじゃない……。

「ララ?」

「うん……」

「俺もついてる」

「!」

「だから心配ない」

「うん……うん!」

 ララは、数秒前に考えていたうらみ言や自戒の念など、すっかり忘れてしまった。


 東裏通り三番地、小熊亭。

 今日の昼間、ララがジョッシュに呼び出された酒場である。

 今夜もまたここに導かれたので、ああ、ここはジョッシュの持ち物だったのか、と、ララはひとり納得した。

 かつてふたりで組んでいたころは、ただのマネージャー。確かに、えらくなったようだ。

 その、巨大で、きらびやかな正面扉を素通りし、裏口へ続く道に入りかけたとき、

「待て」

 ユウは、重い足取りで先を行く少年を呼び止めた。

「この先にジョッシュがいるんだな」

「あ、ああ」

 少年は、もうすっかりまいっている。またなにか無理を突きつけられるのかと、視線すら合わせられない様子だ。

「ここでいい」

「え……」

「ここから先は俺たちだけで行く。帰っていい」

 少年は、やはりきょとんとした。

「で、でも……」

「しかられるだろ?」

「あ……」

「行け」

「う……うう」

 どこか苦しげに顔をゆがめた少年は、振り返りもせずに駆けていった。

「お礼ぐらい言ってけばいいのに」

「いいさ。礼を言うのはこっちだ」

「……えへへ」

「?」

「今日のユウって、なんか……できる感じ」

「まったくだ。とんだ女殺しだよなあ」

「……ジョッシュ!」

 ユウは、ひとつ深呼吸をして、裏口から現れたのだろうその男を見た。

 ……なるほど。

 上等な上着に、上質なコート。曇りひとつない革靴。

 身につけているものは非の打ち所がない最上級の品ばかりだが、そのくせ、目はどこか卑しげで、口ひげは成金へのコンプレックスをそのまま塗り固めたように見える。

 年のころは三十五、六といったところか。ちぐはぐな印象を与える外見同様、おそらく内面も、虚勢と虚飾にまみれているに違いない。

 ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべたジョッシュは、用心棒らしい男のひとりに目配せをし、逃げた少年のあとを追わせた。

「あんなゴミでも元手がかかってるんでね。このままトンズラされちゃ困るのさ」

「それで、捕まえたらボコボコにするってわけ?」

「そりゃそうだ。そうやって、男は強くなっていくもんだぜ?」

「……あんた、ホントに変わってない」

「おまえは変わったなあ、アービング。昔は誰を半殺しにしようが、されるほうが悪いって顔してたのによ」

「……やめてよ」

「相手が誰だろうと、容赦なくコクピットをえぐりつぶす! それが、レッドデビル!」

「やめてってば!」

「あんたにも見せたかったな、こいつの残虐非道ぶりを。そりゃもう一番人気だっ……たはぁ!」

「ユ、ユウ……!」

 電光のごとく走ったユウの左手が、ジョッシュの喉輪に食いこんでいた。

「ま、待て待て、待て、よ……」

 脅しではない、いまここで殺してやるという意思を持った指先が、頚動脈を締め上げていく。

 ふと目をそらし、もうひとりいる用心棒に対して目顔で武器を捨てるよう指示したユウの、その落ち着きぶりに、

「こいつ、いままで何人殺してる……?」

 ジョッシュは内心戦慄した。

 用心棒が剣を捨てると、ユウの指はゆるんだ。

 ジョッシュも、うわべだけの笑いを浮かべてみせた。

「俺が、彼女とここに来た理由、わかるな」

「さあ……とと、待った待った! そいつを今日の興行に出すなと言うんだろ!」

「そうだ」

「しかし、そいつはこっちとしても困る。今日の客の前で、メインイベントをおじゃんにするわけにはいかないんでね」

「そんなのは知ったことじゃない」

「おいおい、裏には裏の事情があるんだ。おまえらだってそうだろうぜ、ヒュー・カウフマン」

「……」

 やはり、この男は鎌をかけていたわけではないらしい。噂ではなく、情報としてララのことを知り、手配書にも目を通している。

「わかったら、手を、離せ!」

 ジョッシュは身をひねるようにして、ユウの手から逃れた。

「さ、来な、アービング。客がお待ちかねだぜ」

「い、嫌だったら!」

「なら、このまま騎士団の詰め所に駆けこむか? え、どうなんだ!」

「やってみろ……死ぬのはおまえだ」

「は、はは、ここで俺を殺すか?」

「いや、おまえが一番おそれてる、裏社会に殺される」

「え……?」

「裏社会は、狗の存在を許さない」

 ジョッシュの口もとが、一瞬引きつった。

 と……そこに。

「ちょっと、随分と退屈させるのではなくて?」

「あ、ああ、あ、あ、これは……!」

「さっきのが、最高のイベント?」

「いや、ちょ、ちょっとお待ちを。はは、裏口なぞから出てこられては困りますね。ほら、お召し物がよごれてしまう」

 ……このジョッシュのうろたえぶり。これが噂の、『特別な客』に違いない。

 開け放しにされた裏口からの逆光で顔かたちは判然としないが、女だ。

 一八〇センチはあろうかという長身と、その首まわりに揺れる長い羽根飾りが、一種独特な、そう、まるで女王のような威厳をかもし出している。

 女は、首の長い女物のパイプを指先で一回転させ、トン、と、ジョッシュの首もとを叩いた。

「無駄口は結構」

「は、はは……いや、ちょうど、今日の対戦相手が来たところです。ほら、このとおり」

「ジョッシュ!」

「いや、本当困ってしまいますよ。ご覧のとおり鼻息だけは荒いんですが、どうも、この大舞台を前に怖気づいたようで……」

「ふぅん」

 女はのぞきこむようにララの顔を見た。そして、ユウの顔を。

 光がようやく、女の、細面の横顔を照らし出す。

「あ!」

「んん? ……ああ、は、は、は」

「スコルピア!」

「ユーウー」

 細くしなやかな女の腕が、ユウの腰を抱き寄せた。

 少しこけた頬、たれた目、泣きぼくろ、黒々と塗られた唇。ユウにとっては、よく見知った顔である。

 そして、気に入った者だけにする独特の挨拶。首すじに、スコルピアの吸いつくようなキスが落とされると、ジョッシュとララが同時に固まった。

「ああ、このにおい。思い出すわ。身体が熱くなる」

「ス、スコルピア?」

 と、さらに、しっとりとした唇は首すじをまさぐり、鎖骨まで下りようとする。

 ぐいと突き放すと、スコルピアの口からは悩ましげなため息がもれた。

「またじらすのね。あなたたちはいつもそう。あたしの喜ばせかたを知ってるわ」

「う、ちょっ……」

「やめなって、の!」

「ああッ!」

 ララの突き上げるような体当たりを受け、ドレス姿のスコルピアは、もんどりうって雪山へ倒れた。

「ヒィッ、なんてことを!」

 ジョッシュは、泡を食って助け起こしにかかった。

「だ、大丈夫ですか。さ、つかまって」

「ああ……」

「……レディ?」

「たまらないわ……この、痛み。ぞくぞくする」

「へ?」

「へ、変態!」

「ああ、若いのに、なじることまで知っているのね。好きよ」

「ちょ、ユウ、なにこいつ!」

「ああ、彼女はスコルピア」

「そういうことじゃなくって!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る