第112話 ドーナツと海の目
その、さらに数時間後。あの劇的なトラマル脱出から半日ほどあとになるだろうか。
陽は沈みかけているが、海上は内陸山間部の暴風が嘘のような、おだやかな小春日和が続いていた。
外部との接触が少ないホーガン島の無線を出がけに破壊し、航海がはじまってからも『遠洋哨戒中』という連絡を随時入れさせてきたことが功を奏してか、ここまで幸運にも、鉄機兵団の姿は見ていない。時折無線をつないでも、西海執政官や守備の鉄機兵団からもたらされる情報は、異常なし、というお決まりの文句である。
だが、それでこの船の者たちが、もうひと安心と息をついたかというと、それは違う。
十五年もの長い間、人の目から逃れ、疑心暗鬼にもまれ続けた生活を送ってきたブルーノたちは、外見的には平静を保ち、ようやく取り戻した自由を謳歌しているようでありながらも、いつ襲われてもいい心構え、警戒心を忘れるものではなかった。
談笑し、走りまわる子どもらに手を焼きつつも。
精のつく食事と、暖かな上着をこしらえつつも。
自然と班が作られ、役が割り振られ、剣が研がれていったのはそのためだ。
中には土木作業などの経験からL・Jの操縦をどうにかこなせる者もいて、上がりすぎた喫水線の回復のためにいくつか海中に投棄したのちは、残った搭載L・Jを使って周辺の警戒にも当たるようになった。
「いや、でも実際ありがたいなぁ」
医務室で身体を養うアレサンドロを見舞いに来たテリーは、厨房からくすねてきたらしいドーナツを頬張りながら言った。
「なにがいいって、ご飯だよ。俺、こういう家庭料理大好き。あ、旦那の分ももらってこようか」
「いや、俺はいい。それより、外はどうなってる」
「……旦那は、もう少し休みなよ」
身を乗り出してたずねるアレサンドロの肩を押さえ、テリーは苦笑をこぼした。
「大丈夫、いまのとこは上手くいってるよ。奴隷の、とと……ええ、なんて言うかな、旦那の、昔のお仲間さんたちとも、仲よくやってるしね」
「ハ……そうか」
「やっぱり、ほら、俺が一番やばい立場じゃない。だから、すごい心配してたんだけどさ」
「クジャクが、上手く口きいてくれたか」
「うんうん、それそれ。ホント、魔人様様だよ。あ、これ別に嫌味じゃなくてね」
「ああ、わかってる」
にこやかに笑ったテリーは、紙で包んだふたつめのドーナツをポケットから引っ張り出した。
この香ばしい油の匂いは、いかにも揚げたて作りたてだ。また今度のはそこに、たっぷりと、砂糖とシナモンが振りかけられている。
ひと口かぶりつき、
「うま」
テリーはさらに、目を細めた。
「ねぇ……これは、俺の勘、ていうか経験談なんだけどさ、旦那」
「ああ?」
「そのバケモノってのがホントにいるんなら、襲ってくるのは夜だと思う」
アレサンドロは、ついまた身を乗り出して、テリーの顔をのぞきこんだ。
「おまえも、それがL・Jだと思うか?」
「そりゃあね。N・Sってことはないでしょ。幻の海竜でもいるなら話は別だけど」
「情報は?」
テリーは、首を横に振った。
「テスト中なのか、シークレットなのかはわからないけどね。どっちにしても、まだ、人目にはつきたくないんだと思う。海は、シュワブなんかも目を光らせてるから……」
「動かすなら夜、ってわけか」
「うん。昔は、そういう警護の仕事もまかされたりしたからね」
アレサンドロと視線を合わせないようにして、テリーは砂糖のついた指先をなめた。
「まぁ、要するに俺が言いたいのは……今回は、逃げたほうがいいってことだよ。足止めをさ、第一にして」
「……そうだな」
もちろんアレサンドロも、それについては異論はない。ハサンではないが、これは優先順位だ。
ひとりも傷つけず、全員を、必ず陸へ上げる。
アレサンドロは再びベッドに身体を沈め、やや錆びかけた天井を仰いだ。
と……。
なにを思ったか、テリーが、てはは、と困ったように頭をかき、
「その顔は、わかってないなぁ」
「うん?」
「俺が心配してるのは旦那だよ」
アレサンドロの胸もとにあった毛布の端を、その肩口まで引き上げた。
「敵が出た、みんなを逃がさなきゃならない。旦那は真っ先に海に飛びこむでしょ、俺がやるってさ。それをやめて欲しくて言ってるの、逃げようって」
「……でもよ」
「いや、ダメだよ。L・J乗りとして言わせてもらうけど、機体にはやっぱり向き不向きってのがある。いくらN・Sでも、旦那のは、しんがりに向いてない。海も向いてない」
「だったら……また、おまえらにまかせろってのか」
「そうだよ」
テリーは、事もなげに言いきった。
「戦いってのは回数じゃないし、この前おまえが出たから、今度は俺が出るってもんでもないでしょ? 第一、それを言うならホーガンで一番頑張ってたの旦那だし、ここの人たちをまとめてもらわなきゃ」
「ッ……」
「俺はね、別に、旦那と喧嘩したいんじゃないの。でも、これだけは言っとく」
と、ライフルを抱き上げ、腰を伸ばすようにして立ち上がったテリーは、
「もし、旦那がN・Sで海に飛びこんだら、俺はその足を撃つよ。絶対にはずさない」
「テリー……」
「うん、覚えといて」
と、笑顔で、医務室をあとにした。
さて、その足でテリーが向かったのは、例の化け物対策に忙しい甲板であった。
船外灯の下で動きまわっているのは、若者を中心に十二、三人。ある者はL・Jで周囲を哨戒し、ある者は、ブリッジから移動させてきた火薬樽を船べりに並べている。
その、年齢的には自分と大差ないだろう若者たちの必死な面持ちに、テリーは、昔は自分もああだったかも、などと、少々感傷的な想いで微笑まずにはいられなかった。
鉄機兵団に入りたてのころは、ああして先輩騎士たちの雑用や、射撃訓練のセッティングに追われたものだ。
「……ダメだなぁ」
ついつい思い出しては、ひたってしまう。
いまの生活が面白くないわけではないが、最もつらかったはずのあのころが、よかった、と思えるのはなぜだろう。
……ああ、そうか。
この人たちもそうなんだ。
艦尾側甲板にひざまずいたシューティング・スターが、船の揺れを受けて、うなずいたように見えた。
「なにやってるんだ」
「うわぁ!」
「な、なんだ!」
「なんだじゃないよ、もぉ、びっくりしたなぁ」
「それはこっちの台詞だ!」
テリーとユウは互いに心臓を押さえ、肩を小突き合った。
以前よりは多少距離が近づいたふたりだが、やはりまだ、仲よく、とまではいかない。
「あんねぇ、人がセンチメンタルなときは話しかけちゃダメだよ」
「なにがセンチメンタルだ」
「あ、そんな顔されるのは心外だなぁ。彼氏さんと違って、俺は繊細で、あったかい心の持ち主なの」
「どこが」
「どこがって……ホント、失礼しちゃうなぁ」
近くで作業していた若者たちが、そこでクスクスと笑い声を立てた。
「だからさぁ、いつも言ってるじゃない。こういうことは、お酒でも飲んで話し合おうって。そうすれば俺のよさも……」
「……しっ」
「いやいや、そいつは卑怯だよ、彼氏さん」
言葉を制そうとしたユウの手のひらを、テリーは、ぺんと払いのけた。
「お酒の話題になるといつもこうじゃない。だいたい男ってのは……」
「うるさい、静かにしろ!」
「う……」
「……」
「あの……彼氏さん?」
「……なにかいる」
「え……なにが」
「そんなの知るか!」
ユウは手すりから身を乗り出して、海底深くをのぞきこんだ。
確かに聞こえた。握っていた手すりを通して、船底をノックする音が。
引っかくような音が。
「明かりをくれ!」
言うより早く、光石サーチライトをかついだ若者が、ユウののぞく海底へと光を差し入れる。
喫水線の限界を表すラインが、波の下に見えた。
「な、なにあれ……」
いくつもの赤い光点が見える。
揺れ動きながら近づいてくる。
「下がれ! みんな下がれ!」
全員が、なかば転がるように船べりから離れ……ゆっくりと盛り上がった海面から、それが現れた。
「う……」
「か、海竜……」
そう。誰かが口走った言葉。海竜、シーサーペント。
確かに近い。だが違う。
それは、間違いなく機械だった。
赤い光点の正体は、長細い、馬のような頭部にうがたれた左右よっつずつの目。N・S二体でようやくかこめるか、という太い首には灰色の鋼板が張られ、そこをしたたり落ちるしずくが、サーチライトを跳ね返してキラキラと光っている。
恐るべきことに、海中に続く首の先、本来あるはずの胴体は、完全に陽の落ちた暗い水底にまぎれ、影も形も見えなかった。
それにしても、これは、なんという醜さだろう。
N・Sの持つ生物的な美しさも、サンセットや将軍機の持つ、作り手のこだわりが結晶化した創造物の美しさもない。ただただ組み上げただけといういびつさ、冷たさ。
ヒッポの乗っていたシュワブ製のドラゴンや、ジラルドの一三〇〇式のほうがまだましだ。
「テリー!」
「あいよ!」
ふたりは、パッと駆け出した。
ユウは茫然とする若者たちを追い立てるようにハッチへ、テリーはシューティング・スターへ。
「中に入れ! 全員だ、早く!」
叫んだユウは振り返り、ポーチから引き抜いた発光筒を、いましも鼻先のサーチライトを点灯させたばかりのサーペントの目の前で炸裂させた。
ギュギュギュ、と悲鳴らしき声を上げてのけぞったサーペントの動きは、まるで生きた大蛇だった。
そこでちらりとシューティング・スターを見ると、テリーはまだケーブル式の昇降機につかまり、コクピットまでたどり着いていない。
まさかこの程度で、とは思っていたが案の定、サーペントの八つ目がユウをにらみつける。
大量の水を吐き出しながら開いたその口内には、喉の内側へ向けて生える数多くの列歯……。
ユウはハッチへ走りこむ最後の若者の背を突き飛ばし、自分は逆の方向へ飛んだ。
頭上から降ってきたサーペントの首によって、鋼鉄製の扉は、見る影もなくスクラップとされてしまった。
「彼氏さん!」
呼ばれる声に目をやると、コクピットハッチのアンダーカバーにふせたテリーが、なにか手振りで指示している。
わかる?
問いかけられた目にうなずき返すと、ユウは、甲板上を這うように追いかけてくるサーペントの頭部を引き連れて、ある一点まで走った。
走って、再び大きく飛びのいた。
勢いあまってサーペントの頭部が噛みついたのは、積み置かれた、作業前の火薬樽。
「ふせろ!」
銃声が轟く。
爆発の大音声とともに、くちばしを吹き飛ばされたサーペントは、ぐねぐねと、まるで巻き戻しの映像のように、海へ引き戻されていった。
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