第108話 悪夢を越えて
両開きの重い扉をくぐると、自然光のみの薄暗い円筒建築の中を、螺旋階段が続く。
その床の端に、鉄の手すりへ片輪を拘束された手錠の少年が、ぐったりと身を横たえていた。
「おい、坊主」
手で怪我の有無を確かめながら周囲を見まわすも、爆弾らしきものはどこにもない。時間はとうにすぎている。
そういえばラムゼーは、仕掛けてきた、とは言ったが、灯台の中に、とはひとことも言わなかった。
たとえ敗北しても、灯台の中を探しまわっている間にすべてを吹き飛ばす。そんな言葉のトラップだったわけか。
……ハサンの使いそうな手だな。
アレサンドロは、思わず苦笑した。
「おい、大丈夫か?」
「う……うう」
うめいた少年は眉をしかめ、ゆっくりと目蓋を開けた。
「あ……!」
「大丈夫だ。あいつはもういねえ。……さ、こっちを見てくれるか。そうだ、じっとして」
できるだけの笑顔を作り、頬に手をそえてやると、小さな肩から力が抜ける。
「痛いところはねえか?」
問いかけつつ瞳の様子を見、脈を取る間も、少年は大きな瞳をうるませることもなく、茫然といった面持ちでアレサンドロを見つめていた。
「おまえ、名は?」
「……ジャン」
「ジャンには、おふくろさんがいるよな」
小さく、うなずいた。
「おふくろさん、どこにいるか知ってるか?」
「……お医者の、先生のところ」
「そうだ。胸が痛くなったんだよな」
「うん……」
アレサンドロは、そのいじらしい様子に胸を突かれる想いがした。
実のところこの少年に関しては、昨夕、ひとりの年増が医務室にかつぎこまれてくるまでは、なにも知らなかったアレサンドロなのである。同じく数日前から医務室で病を養っていたジャンの母親が、その年増から息子の危機を知らされて病状を悪化させた。そこではじめて、こちらの耳にも入ったのである。
それがなければ、今日この日に、誰が、なんの罪で懲罰を受けるかなど、診療所まで届かない。アレサンドロが行動開始の予定時刻として設定していた明日早朝には、この小さな手も冷たくなっていたはずだ。
いまは、処刑の情報が自分に届き、ハサンに届き、どうにか準備が間に合ったことに、ただただ胸をなでおろす他ない。
そして、
「お願いします……あの子を、あの子を……!」
と、胸を押さえ、血を吐くように訴えてきた母親のあの目、あの骨の浮いた指を、アレサンドロは生涯忘れることはないだろう。
……だが。
アレサンドロの見立てでは、ジャンの母親の病は、そう深刻なものではない。
心労に過酷な労働と寒さが重なり、心の臓へ負担をかけたのだ。安静が一番の薬といえる。
「治る?」
「ああ、治るさ」
ようやく、ジャンの瞳に生気がよみがえった。
「ジャンは親父さんをやられて、あいつのせいで、おふくろさんまでなくしちまうと思ったんだよな。だから、刺そうとした」
「……うん」
「あいにく、あいつはもう死んじまったが……そら」
と、アレサンドロが握らせたのは、あの銀のフォークだ。
「これが、あいつを倒した剣だ。おまえは仇を討ったんだぜ、ジャン」
言われたジャンの目から、みるみる大粒の涙がこぼれ出てきた。
「でもよ、おふくろさん泣いてたぜ。あとで会ったら、ちゃんと謝らねえとな」
「……うっ……う、うっ」
「謝れるか?」
「え、え……」
「よしよし、さ、起きてもいいぜ。手錠をはずさねえとな」
アレサンドロは小さなジャンをひざの上に乗せ、手錠の錠はずしに取りかかった。
実は、手錠の鍵はラムゼーとともに吹き飛んでしまった、などと、この子には言えない。
「……ユウがいりゃあな」
と、頭をかいたその途端に、扉の外を影が走った。
「……おいおい、まさか……」
『アレサンドロ、どこだ!』
「マジかよ。おい、ユウ、こっちだ! 手を貸してくれ!」
カラスの手に乗り、西海沖に浮かんだ略奪艦へ帰還をはたしたアレサンドロとジャン少年は、喝采で迎えられた。
口々に感謝の言葉を述べ、英雄にふれようと皆が手を伸ばす中、アレサンドロはまず、血の気のない顔で待つ母親にジャンを返した。
「ああ、感謝します! 感謝します!」
飛びついた母の腕の中で、ジャンは、あんあんと泣いた。
「ここは冷える。あんたは、中であったまったほうがいい」
「はい……ああ、このとおり……このとおりです……!」
「いや、別にたいしたことはしてねえさ。おい、誰か、できればベッドのあるところに連れていってやってくれ」
抱かれたまま母から離れようとしないジャンの手には、銀色のフォークが大事そうに握られていた。
「ブルーノはどうした」
「ここです! ここです!」
人垣の向こうで、飛び跳ねながら手を上げたのは、その妻、ディディだ。
「どいてくれ」
と、人をかき分けて進むと、薄い毛布の上に、腹を押さえたブルーノが長くなっている。
「おう」
「よう」
がっちりと組んだ手のひらは温かく、力強い。血色もいいようだ。
「医務室に行けと言ったのに聞かなくて……」
と、ディディが眉をひそめたが、
「馬鹿野郎。ここの医者に見せるぐらいなら死んだほうがましだ!」
ブルーノは、ひどい剣幕でしかりつけた。
「おいブルーノ、やめねえか。馬鹿はおまえだ。ほら、傷を見るぜ」
「あ、つつ……くそ、おまえこそ、身体のほうはいいのかよ」
「ああ。……ガキには会えたか?」
「お、おう、まあな……ほれ、この坊主がエリオ。八歳だ。で、こっちが、カリーナ……へ、へへ」
「目尻がたれてるぜ、お父さん」
「へ、へ、いくらおまえでも嫁にはやらねえ。絶対にやらねえ」
「ハ」
「……本当にやらねえぞ」
「わかったわかった。あとは医務室だ。わがまま言わねえで連れていってもらえ。いいな?」
「う……わかった」
そうして再び、みこしとなってかつぎ上げられていくブルーノを見送ったアレサンドロは、立ち上がろうとして、もう一歩も動けない自分に気がついた。
そう。死ぬほどではなかったにせよ、ラムゼーの暴力がダメージを与えていないはずがなかったのだ。
「あなたこそ、医務室へ行ってください」
と、抱きかかえるように声をかけられたが、
「いや……まだ、やらなきゃならねえことがある」
と、無理やり一歩踏み出し、やはり、ひざから崩れ落ちる。
「くそ……」
「無茶です、アレサンドロさん」
「あなたになにかあっては申し訳ない」
アレサンドロは、かぶりを振った。
そこへ、
「あ、こ、これは……!」
前方の人垣を割って現れたのは、
「クジャク……」
伝説の砦長、生身での登場に、周囲は静かな興奮に包まれた。
「アレサンドロ、おまえはもう休め。ここからは俺たちが引き受ける」
「いや、そうはいかねえ。ハサンに……」
「アレサンドロ」
クジャクの声は有無を言わさぬようでありながらも、不思議な温かさに満ちている。
ゆったりと、顔を覆うように伸ばされた手のひらに鼻すじをひとなでされ、あ……と思う間もなく、アレサンドロはその腕へ倒れこんでいた。
「クジャク……なにを……」
身を起こそうともがいたが、身体はすでに、手足をどこへやっているかもわからない。心地よさと浮遊感に包まれ、目蓋が重い。
「いまは眠れ」
「待ってくれ、頼む、ハサンに……」
と、絞り出した言葉は、伝わったかどうか。
「頼、む……」
首すじにふれた、柔らかな肌の感触を最後に、アレサンドロは眠りに落ちていった。
「クジャク様……」
「心配ない。医務室へ連れていく」
言いつつ、クジャクはアレサンドロの長身を肩にかつぎ上げている。
細身ながらさすがによく鍛えられたクジャクの身体は、この程度ではビクともしない。
「おまえたちも中に入るがいい。だが、ベッドも食事も十分ではない。不便はあるだろうが、陸に上がるまでは耐えて欲しい。なにかあれば俺に言ってくれ」
人々は、皆粛々と行動をはじめ……次にアレサンドロの目蓋が開いたときには、艦は以前からそうであったように、平和なひとつの集落、そのものとなっていた。
「バケモノ……」
「そうだ。この海にバケモノがいる。おまえに伝えてくれと、アレサンドロが」
「そうか」
ハサンは、艦尾側の甲板をぐるりとかこむ手すりにもたれ、アレサンドロが必死の想いで伝えたこの情報を、特に感情を動かされた様子もなく聞いた。
ここから艦橋をはさんで船首側の甲板にはシューティング・スターがおり、かわりにブリッジを監視している。外からライフルを突きつけられ、むしろハサンがにらみをきかせるよりも、戦々恐々としていることだろう。
ユウとモチは、艦内に問題はないか巡回中……と、ここまでくると、姿の見えないセレン、メイ、ララ、そしてジョーブレイカーの居場所が気になるところだ。
ジョーブレイカーは、いまだシュナイデ調査で所在不明だが、女性陣三人はマンムートで陸路を北上。七日後には合流することになっていた。
「バケモノか。君はなんだと思う」
「L・Jだ」
「ンッフフフ、簡単明瞭、結構だな」
ハサンのくゆらせた煙は、風に流され、たちまち消えた。
「だが、まさかただのL・Jでもあるまい。試作機か、オリジナルか。いずれにせよ水中戦は避けられまい」
「ああ」
「さりとて、いまは打つ手もなし」
それがどのような敵か、どこにいるか、情報が少なすぎるのだ。下手に騒ぎ立て、無用な混乱を招きたくもない。
あたり構わずかぎまわり、寝た子を起こすなどもってのほかだ。
「とりあえずは、君とユウたちとで、少々範囲を広げてまわってみてくれ。君が海の友達を紹介してくれるというのなら……」
と、ハサンはクジャクの顔をのぞきこみ、
「最も都合がいいのだがな」
「フ、フ」
「おや、なにかおかしなことを言ったかな?」
「いや。西海の魔人か……む?」
クジャクの涼やかな目もとから、す、と笑顔が消え、遠くの一点へ向けられた。
「……船か」
「ソブリンだ。クジャク君」
「なに……?」
その豆粒にも満たない船影から、なにがわかるというのか。
しかし、ざんざんと波を割って近づくその船がようやく形を成したとき、確かにそれはブラック・クール・ハーマンであった。
「よく見えるものだな」
「フフン、これはこれで生きにくい」
右舷前方を南下してくるブラック・クール・ハーマンは、北上するこの船とは互い違いに進んでいることになる。
数百メートルをへだてた距離をすれ違おうとしたその甲板に立つのは、ソブリンと、普段は海に出るはずのないチャノム爺だった。
ふたりは、二言三言、言葉をかわし合い、チャノム爺の手もとで光が瞬いた。発光信号である。
「なんと言っている」
「さて……」
空とぼけたハサンは、にやりとしたのみで、海に背を向けてしまった。
「ケッ、あの野郎。だから見送りなんざいらねえと言ったんだぜ、ソブリン」
「なに、あいつがああいう男なのはわかった話じゃないか」
遠ざかっていく巨大なうしろ姿を見送りながら、ソブリンはむしろ喜ばしい様子で、潮風に痛みつくした髪をかき流した。
そのとき、ふわりとチャノム爺の鼻へ入ったのは、さわやかな花の香り。
普段、まったく化粧の気のないソブリンから匂っているのである。
「なあ、ソブリンよ……」
「なんだい」
「……いや、なんでもねえ。早えとこ、波でもかぶりに行こうや」
「そうさねえ……まあ、せっかくここまできたんだ。適当な船を見つけて、かっぱいでやるのも悪くない」
「おう、それよ。やっつけようぜ」
「ああ、やっつけよう」
ソブリンは三角帽をかぶりなおし、西海の悪魔の顔で笑ってみせた。
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