第103話 これが俺たちの世界
アレサンドロのまかされた診療所は、管理棟と渡り廊下によって結ばれた、木造平屋建ての寒々しい建物であった。
そこにあるのは二十床の大部屋と薬品庫、以前の勤務医が本土からの出向だったために用意されたらしい、簡素な私室。その三部屋だけ。
とはいえアレサンドロは、質は他の囚人たちと同じながらも、この私室での食事と寝起きが許され、肉体労働も、悪夢と呼ばれた朝礼も免除された。
医者なのだから、当然と言えば当然である。
しかし、この囚人服を着ながら特例を持つ男を、打撲や骨折、極度の疲労、ときにはやけどや刺創・切創で運ばれてくるかつての仲間たちが、はたして快く受け入れてくれたかと言えば、答えは否だ。
十五年前の、あの一時代の感情をすべて分かち合ったからこそ、裏切り者などといった言葉での非難はなかったが、皆一様に冷ややかな目つきでアレサンドロを見やり、中には治療を拒み、容態を悪化させる者までいた。
そうじゃない、そうじゃないんだ。
思いながらも、騎士の監視下にあったアレサンドロは沈黙を守らざるを得ず、一週間とたたないうちに、自身にも頭痛薬を処方するようになった。
もしこれが、危険なにおいのするアレサンドロと奴隷たちの間を裂く策略なのだとしたら、ビンセント・ラムゼーとは恐ろしい男である。
だが……十日ほどたったころだろうか。
そのラムゼーさえも予想しなかっただろうことが起こった。
ホーガンで毎朝おこなわれる『悪夢の朝礼』では、アレサンドロは見たことがないが、奴隷たちの公開懲罰がおこなわれている。
軽い者でも棒打ち三十回。重ければ絞首刑。
毎朝診療所へ送られてくる、その朝礼の被害者の中に、なんと、オオカミの砦の生き残りがいたのである。
はじめこそ、そうだとは気づかなかったアレサンドロだが、ベッドの上で、うつぶせになって歯を食いしばる男の、ずたずたに裂けた衣服を脱がせているうち、
「あ……」
と思った。
「ブルーノ……」
「ゥ、あ?」
「あんた……ブルーノ・ボンバルディじゃねえのか?」
右腕に走った大きな傷跡が目印の、当時の若者たちの間では、リーダー的存在で鳴らしていた男だ。
喧嘩っ早いが情に厚く、確か歳は、アレサンドロより五つ六つ上。
ジャッカルやヤマカガシといった、古い魔人にかわいがられている冴えないアレサンドロを、
「気に入らねえ」
と言ってはばからなかったかつてのガキ大将は、いまや顔の下半分をひげで覆いつくし、筋肉ではちきれんばかりだった身体にも、歳相応に脂肪をつけていた。
「う、つつ、誰だ……?」
アレサンドロは包帯を取り落としたふりをして、こっそり、枕元へ顔を寄せてやった。
「……誰だ?」
「俺だ。アレサンドロ・バッジョ」
「アレ? ……ア! て、てて、て!」
「おい、なにを話している!」
騎士が飛んできた。
「うるせえなぁ。こいつが傷にさわりやがるんだ!」
「当然だ。黙って治療を受けろ!」
「ああダメだ。痛くて声が出ちまう。先生頼むぜ、なんとか言ってくれ」
ブルーノが、あまりにも大げさに暴れ、泣いてみせるので、アレサンドロはおかしいどころか、このままさらに打ちすえられてしまうのではないかと気が気でない。
案の定振り上げられた懲罰棒とブルーノの間に入り、
「待ってくれ。これ以上は命に関わる。殺しはあいつの仕事のはずだ」
と言ってやると、騎士はしぶしぶ傷のない太腿をひと打ちし、持ち場に戻っていった。
「おお、痛ぇ」
「大丈夫か?」
「なぁに、棒打ちはいまのでウン百回目だ。慣れちまったよ」
この豪胆さは、以前と少しも変わらない。
アレサンドロは、すぐに治療するからと服をはさみで切り開き、皮の裂けた背に、消毒液を染みこませた更布を当てていった。
「つ……おい、もっと派手にやってくれ」
「なに? 馬鹿言ってんじゃねえ」
「いや、こんなもんじゃ話もできねえじゃねえか。どうせ、あいつらは俺の悲鳴が聞きたくて、うずうずしてやがるんだ。おまえにとがめはねえよ」
「……あんた、本当に変わらねえな」
「へ……おまえは変わった。見違えたぜ」
意を決したアレサンドロは、容赦なく、更布を傷口に揉みこむように押しつけた。
「あ、い! い!」
ブルーノは、両腕をベッドのパイプへ叩きつけながら悲鳴を上げ、器用にも、その合間合間に小声で会話をした。
「まずはお互い、生きててなによりだったな」
「ああ。……あんたはいつ?」
「五年前だ。下のガキが、まだ女房の腹ん中にいてな。逃げ切れなかった」
「ガキがいんのか?」
「へ、悪ぃかよ。これでも二児のパパってやつだ。前いた医者は、まだ人間くせえ野郎でな。なんとか産ませてくれたぜ」
「そうか……」
男と女子供が、それぞれ別の場所で作業させられていることはアレサンドロも知っている。
そして両者は収容棟も分けられ、子どもにいたっては朝礼の際も、人質として別所にとめ置かれるのだ。
「俺はよ、まだ下のガキの顔も知らねえし、抱いてやったこともねえんだ」
「……」
「毎朝、朝礼のたびに女房を探してよ、あいつがうなずくのを見るんだ。それで、ああ、まだ生きてる、まだ無事だってよ、それだけが楽しみになっちまった。……へへ。まぁ、あいつらがひとり立ちできるころには、あの腐れ野郎もあの世にいっちまってるさ。それまでは、なんとか俺も生きててやらねえとな」
明るい言葉で語られる悲愴な希望に、アレサンドロは言葉が出なかった。
だが、これが、この世界の現実だ。
捕らわれの仲間を救うだけではない。仲間の味わわされてきた、このやるせない感情を肌身で知ることも、アレサンドロの望んだ贖罪のひとつであった。
「おまえはどうなんだ、女房は」
「……いや」
「まだ女神様か」
「ブ……ブルーノ!」
カラスへの恋心、アレサンドロ自身は一切表に出したことはない……と、思っていたのだが、それはとんでもない勘違いだったようだ。
「ハッハ、みんな知ってたぜ。おまえは身の程知らずだってな」
「マ、マジかよ……」
「おう、大マジだ」
髪をかきむしるアレサンドロを、ブルーノは、にやにやと冷やかしの目で見た。
「なあ、アレサンドロ……おまえ、外で聞いてねえか?」
「うん?」
「オオカミとカラスが、生きてるって話だ」
「!」
アレサンドロは、心臓が止まるかと思った。
「い……生きてる……?」
「ああ、わからねえが、N・Sが出たって噂だ」
「あ、ああ……そうか」
「どうした?」
「いや、なんでもねえ……知らねえな」
「そうか……」
なにも知らないブルーノは、ベッドの足をきしませて、身じろぎした。
「いや、その実、俺も胡散くせぇ話だとは思ってたんだ。あのふたりが生きてんなら、もっと早いうちから堂々と顔を見せると思わねえか?」
「……そうだな」
「よしんばN・Sがマジだとしてもだ、乗ってるのは人間じゃねえかと思うぜ。期待してるやつらの手前、大声では言えねえがな」
「……」
「おい?」
「ああ……今日は、ここまでにしようぜ」
治療は、すでに終わっていた。
「おい、どうした。さっきから変だぜ」
道具を片づけはじめたアレサンドロの顔を、ブルーノはいぶかしげに見た。
「おまえ、本当にアレサンドロ・バッジョか?」
「ハ、なに言ってんだ」
「いいや、変だと思ったぜ。俺の知ってるあいつは、もっとチビで、へたれた野郎だった」
「だったら普通、そういうやつを替え玉に仕立てるんじゃねえか?」
「……どうだかな」
ブルーノの目は、いよいよ疑り深く光りはじめている。
アレサンドロはただ、これ以上の会話は言ってはならないことまで言ってしまいそうで恐ろしかっただけなのだが、
「おい、ブルーノ。いまさらこういうのはなしだぜ。どうすりゃ信じてもらえるんだ?」
「……ジェイソンの妹の名は?」
「なに? ああ、待てよ……リリーだ」
「あのころ、俺たちの間で流行ったゲームがあった」
「指抜きだろ、覚えてるぜ。あんたは弱かった」
「あのとき……おまえに、嫌なところを見られたな」
「あんたがアリソンにふられて大泣きしてた、あれか?」
おう、と、ブルーノは、くやしげに硬い枕へ顔をうずめた。
「ちくしょう、本物だ。思い出したくもねえことを思い出させやがって」
「プ、クク、だから言っただろ」
「……すまねえ」
「気にすんな」
ふたりはベッドのかげで、固く手を握り合った。
「ブルーノ、規則だ。あんたを、明日の朝には戻さなけりゃならねえ」
「おう、わかってる。へへ、すぐにまた来るぜ」
「やめとけ。生きなきゃならねえんだろ?」
「まあな。……なら、男連中には言うだけ言っとくぜ。今度の医者は敵じゃねえってな」
「目をつけられるような真似だけはしてくれるなよ」
「ああ、おまえもな。互いに長生きしようぜ」
「年寄りくせえな」
「ハッハ、違いねえ」
アレサンドロはこの潜入に先立ち、ハサンからいくつかの指示を受けている。
ホーガン解放のため、そして、自分の命を守るための指示だ。
ひとつは、出身をオオカミではなく、クジャクの砦、つまりトラマルということにしておくこと。
ふたつに、たとえ気心の知れた者であっても、計画を明かさないこと。
みっつに、アレサンドロ自身が策を弄しないこと。
アレサンドロはこの指示を忠実に守り、こののち、幾度ブルーノが運ばれてきても、
「実は……」
などということは言わなかった。
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