第9話 予想外の幸、不幸

 湖に入ってみると、水は思ったほど冷たくもなかった。

 深さはせいぜい、腰まで届くかどうか。

 底を踏み進む自分たちの足がはっきり見えるところをみると、どこかで水の出入りがあるのだろう。

 飲み水にもなりそうだった。

「歩くにはおっくう、泳ぐには微妙。やれやれ、面倒くせえ深さだな」

 アレサンドロは指で水を弾いて言った。

 やはり心中おだやかでないのだろう。

 N・Sに近づくにつれ、落ち着きのない行動が増えている。

「そういや、親父さん。神官だったって言ってたな」

「ああ」

「過去形ってことは、やっぱりあれか?」

「ああ、亡くなった」

「他は?」

「他?」

「おふくろさんや、兄弟、とかよ」

「それもみんな」

「そうか」

「だから、気にしなくていい」

「うん?」

「もしもN・Sのことでひと悶着あったとしても、面倒をかける人はいない」

 アレサンドロはなにか言いたげに口を開いたが、

「お見通しか。かわいくねえな」

 結局は、ばつが悪そうに首をかいたのだった。

「ハハ」

「ハ、ハ」

 ふたりは笑い、笑いながら顔を上げた。

 アレサンドロが、細く、長く、息をはき出した。


 それは、全高にして、およそ十五メートル。

 右に、深黒の鎧を身にまとい、背には翼、腰には長く尾羽をたらした、黒紫のN・S、カラス。

 左に、白々と輝く鎧、ふわりとした尾も美しい、白銀のN・S、オオカミ。

 顔こそ機械じみているが、その生物的な美しさは、誰の目をも釘づけにするに違いない。

 互いの剣が互いの胸部を深々と貫き通すそのさまも、裏に隠された殺意をかけらも感じさせない、ある種荘厳な神聖画を思わせた。

「なんだ……」

 アレサンドロの口から、つぶやきがもれた。

「俺はこいつを目の前にしたら、もっと取り乱しちまうと思ってた……。案外、平気なもんだな」

 そう眉を寄せ、薄情だよな、と、さびしく笑うその肩を、ユウは静かにさする。

「十五年だ……十五年」

「……ああ」

「でもよ……いまでも……」

 と、唇を噛み、言葉を呑みこんだアレサンドロは、両の手のひらで自分の顔を張った。

 ぱぁん、ぱぁん、と、音が響いた。

「いや、なんでもねえ。女々しいだけだ。……よし、ちょっと見てくる」

「大丈夫か」

「ああ、こいつも、早く楽にしてやらねえとな」

 言うが早いかアレサンドロは、前かがみで低くなったカラスのふくらはぎにひょいと飛び移り、サルを思わせる身軽さで、左翼まで這い上がっていった。

「よっ……」

 腰のホルダーから光石灯をはずし、ぶら下がるように傷口をのぞきこむと、

「……頚椎、胸椎……修復は進んでる……光炉は軽症ってことか……」

「どうだ?」

「意外に悪くねえな。手伝ってくれ」

「ああ」

 視線もくれずに手招きするアレサンドロに応え、ユウも同じ手順で、カラスをよじのぼった。

 しかし、これがなかなかの重労働である。

 線が細く、丸みを帯びたカラスの身体は、すべりやすい上に安定感も悪い。

 装甲の隙間を探り探り、カラスの左肩にたどり着いたころには、額からは、かなりの汗が吹き出ていた。

「大丈夫か?」

 アレサンドロが、くすりと笑う。

「問題ない」

 ユウは額をぬぐった。

「前にまわれるか?」

「ああ」

「喉の下だ」

 三十センチ角程度のプレートが見える。

「ナイフでこじ開けろ。問題ねえ、多少傷ついてもすぐ治る」

「わかった」

 ユウはカラスの胸部装甲へ飛び移った。

 短剣を抜き、くぼんだプレートの溝に押し当てる。

 と……。

「……ッ!」

 ユウの視界が、突如、暗転した。

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