さよなら

笹川翠

さよなら

 それは、卒業式の少し前。一次試験でなんとか地元の大学に受かった次の日のことだ。

 担任に合格の報告をしに久しぶりに高校を訪れた帰り、私は近くの大きな公園を通りかかった。いつもは近道として通り過ぎるだけなのだが、木々に隠されるように存在する野外劇場が目に入り、ふと足を止めた。劇場は夏頃からしばらく工事をしており、今日も高い足場とブルーシートに覆われている。入り口もフェンスで封鎖されていたはずなのだが、今日はなぜかフェンスの間に少しスペースができ入れるようになっていた。

 受験という重圧から解放された気軽さもあったと思う。私は好奇心で中に入ってみようとひらめいた。革靴の足取り軽く、冒険家気取りでフェンスの防御を軽く破る。

 ちょうどステージむかって右横の客席の少し後方の位置から顔を出すと、ひとけのないがらんとした空間が広がっていた。週末はなんだかんだとイベントが行われ、平日にはダンスの練習をする人やちょっと休憩するために客席を利用している人が多いのだが、無論誰もいない。ブルーシートの作る薄暗くひんやりとした静寂が、ステージに、客席に、沈殿しているようだ。人のざわめきや音楽を失った丸い天井が、本来の役目を果たせずじっとたたずんでいる。

 灰色い空気が肺に少しずつ溜まるような物寂しさを覚え、踵を返しかけたとき、前方奥の客席に誰かが腰かけているのに気がついた。しかもその横顔は知っている人物のものだ。

 …間違いない、松野さんだ。

 

 松野さんとはクラスが違い、委員会で少し話すくらいの間柄だが、私が彼女を見間違えるはずがない。

 すらっとした体、さらさらの黒い短い髪。ひとえのきりっとした目。やぼったく、重苦しく見えるうちの濃紺の上下のセーラー服だって、彼女が着るとどこか軽やかに見える。美人というわけではないのに、なんだか冷たく甘い雰囲気が漂っている。

 陸上部の第一線で活躍していた彼女は人から慕われ、常に友達や後輩や、先生と話をしていたような印象がある。ただ、誰かと一緒にいても、ひとりだけ別の世界にいるような、どこかやんわりと人と距離を置いているような。

 人と馴れ合うでも、はっきり拒絶するでもない、その独特なスタンスがいつからだろうか、私の気持ちを捉えて離さなかった。思春期らしいというのか、ベタベタと溶けるようなドロップス缶のような女子同士の密閉された友人関係の中で、どうしたら松野さんのようにひとりだけ形を保っていられるのだろう。

 ハッカ飴のような人、勝手にそう思っていた。


 こんなところで、何をしているのだろうか、彼女も高校に寄った帰りなんだろうか?遠目には、彼女が制服なのか私服なのか判断できない。 

 私は見てはいけないものを見てしまったと思っていた。向こうは気づいていないようだが、声をかけるべきか。

 考えあぐねていると、ふわりと声が聞こえた。細い細い歌声だ。消え入りそうな、しかしどこか凛とした声が野外劇場の丸い天井をかすかにふるわせている。

 彼女の声だ。

 私は聞き漏らさないように、息を止めて耳を澄ませた。歌っているのは、聞いたことのない歌だった。どこか懐かしく切ないメロディ。冬のはてしない道をひとりで歩いていく…そんな内容の歌詞だ。

 別れの決意がもの悲しい旋律にのり、まだ冷たい春のはじめの空気を細やかに流れていく。

 うつむいた横顔からはその表情はわからない。泣いているようにも、微笑んでいるようにも、何も考えていないようにも見える。

 そのうち銀の細い鎖のような歌声に耐え切れなくなって、私はそっとその場をあとにした。知らぬ間に体が冷えていて、劇場を出てからようやくそのことに気づいた。




 それから卒業するまで、そして卒業してからも、彼女と話す機会はなかった。ただ、彼女が東京の大学に進学したということだけ、クラスメイトのうわさで聞いた。


 もうあれから10年近く経つが、彼女がどうしているのか、私は知らない。

 ただ、彼女の細い身体があの重厚なセーラー服をまとって、私が見たこともない都会の雑踏に紛れている姿を想像することは幾度とあった。

 もう松野さんも制服なんて着ないだろうし、とっくにいい大人になっていて、さらさらの黒髪でもないのかもしれないのに。

 それでも、私の想像の中では、松野さんは高校生のままで、ハッカ飴の微笑みのままで、あのメロディを口ずさみながら、夕暮れの中、都会の人ごみにそろそろと紛れていく。

 その背中に、大人になった私はそっと手を振るのだった。

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さよなら 笹川翠 @midorisasagawa

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