第4話 別れ話、三

「・・・」

 本当に不本意なのだけど、自然と涙が零れ、私は慌てて涙を拭き取った。タケルは、そんな私を表情を変えず、平然と眺めている。私は素早くティッシュに手を伸ばし、目元に当てる。

「・・・私は、別れたくない」

「それは、俺も同じ。でも、どうしようもない」

 タケルは、呆れたように鼻から大量の息を吐き出した。

「アリスは、最初はそんなんじゃなかった。でも、一緒にいる時間が長くなるにつれ、欲が出たんだ。自分の想いを押し付けるようになった。我がままになった。我がままが加速すると、心配になるんだ。将来やアイデンティティが希薄になる。そして、不安になってくるんだ」

 静寂が降る部屋に、タケルがお茶をすする音が響く。コトッとグラスを置いた。

「そして、相手を責めるようになる。今がまさにこの状態だね。もう末期だ。今のままじゃ必ず破綻する。遅かれ早かれね」

 タケルの冷たい声を注射器で打たれたような感覚に陥った。血管に入り、体中を這いずり回るような寒気を感じた。

「私が、タケルの理想に近づけば良いってこと?」

 鼻を啜りながら、恐る恐るタケルを見る。結局は、タケルの愛情が冷めたのではないのか? 愛情が強い方が負けなのだ。失いたくない方が、言いなりになるしかない。すると、大きな溜息が聞こえた。

「ちゃんと、俺の話聞いてた? そんなこと一言も言ってないんだけど? 俺はアリスが大好きで、別れたくはない。でも、別れざるを得ないって話。それは、お互いの為にね。お互いの幸せの為にね。子供のままごとじゃないんだから、今この瞬間の感情論じゃなくて、二人の未来の話をしてんの」

 もう頭が、おかしくなりそうだ。いっそのこと、おかしくなった方が、何も考えずに済んで楽かもしれない。別れたくないけど、別れる? お互いの幸せの為? 二人でいた方が幸せに決まっている。少なくとも私はそうだ。タケルは大人で、私は子供なのだろうか? 大人と子供の違いっていったいなんなのだろうか?

 確かに、愛さえあれば、他になにもいらない。とは、思わない。そこまで、子供ではないつもりだ。生きて行く為には、お金が必要だ。お互いしっかり働いて、経済的にも自立している。それは勿論、タケルの方が稼ぎが良いから、金銭的には甘えている部分が大きいのは、自覚している。だから、家事は率先して頑張っているつもりだ。でも、少しくらいは、手伝ってくれても良いではないか。それも、甘えなのだろうか。

「お願いするのもいけないことなの?」

「お願いしている態度じゃないけどね」

 振るった刀を切り返されて、そのまま心臓を貫かれた気分だ。見事にカウンターが決まった。言われてみれば、特に最近は、苛立ちが増していた。責めるような言い方をしていたと言われれば、否定する余地はない。

「横柄な態度が、目に余るね。アリスは俺よりも立場が上なの? 偉いの? 懸命に努力をして、何かを成し遂げたの? 横暴にもほどがある」

 遠慮なく、配慮なく、叩きつけられて、もう顔しか地上に出ていない。本来なら、顔を隠したいのに、無様な顔を晒している。

 重苦しい時間が経つにつれ、息苦しくなってきた。確かに、言われなければ、分からなかった。言葉としての拒否反応がなかったから、私の意見が通ったものだと錯覚していた。私は、家事をやっているが、全てをやっている訳ではない。お風呂とトイレの掃除は、やってくれているし、ゴミ出しもしてくれている。私は、自分の負担を知らず知らずの内に、タケルに押し付けていた。いや、タイミングを押し付けていた。一つの物事を行うにも人それぞれのタイミングがある。私は、私のタイミングをタケルに押し付けていたのだ。『今、片付けて欲しい』とか『今、やって欲しい』などだ。そして、わざわざ、粗を探していた時は、なかっただろうか? タケルを攻め立てる材料を探してはいなかっただろうか? 考えれば考える程、体内に溜まったアクが、瞳からポロポロと零れ落ちてくる。タケルが、無言でティッシュ箱を差し出してくれたから、数枚引き抜いた。

 煙が充満した部屋。立ち上がったタケルは、窓を開けて、背伸びをした。私は鼻をかみながら、タケルの動きを目で追う。死刑の宣告を待つ囚人は、こんな気持ちなのだろうか。『お前はこの世に必要ないから、消えなさい』と。『お前は、俺の人生に必要ないから、消えてくれ』と。

 

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