人は、変わる―(21/21)


娘が夕食を食べに行った後、医務室兼自室に残った私は、ケータイを握りしめたまま窓の外を見ていた。


時間は17時どころか18時を回っている。

雪だって降り始めている。


それでも勇気は出なかった。


お互いの意見が合わず、すれ違いが続いて、昨年のクリスマス・イヴにはデートをすっぽかされ、怒って離婚届を書かせてしまった。


私の意見を聞き入れてくれなかった、彼の言い分には一理ある。

この学校に生徒を集めるということは、ヘンテコ人間と呼ばれる人達を普通の社会から引き離すということ。

差別化するということ。

世間から非難の目で注目されるということ。


でもそれは、外からの取材や干渉を断ったり、生徒達を外出不可にすることで彼らに直接伝わらないようにできる。


彼らが卒業後、再び普通の社会に戻った時、周りに迷惑をかけたりすることがないような人間にするためには、そういった少し窮屈な制限を設けるしかない。

彼らは仲間には迷惑をかけない、仲間の壁にはならない。

その考えにのっとって共同生活をさせれば、次第に他人と手を取り合うことを拒絶しなくなるはず。徐々に落ち着いてくれるはず。


――その主張に、優は決して首を縦に振らなかった。

浅田とすずめのように、普通の環境下で生活をさせることが一番だと考えた。


確かに、隼人くんや凛ちゃんはヘンテコ人間じゃないけど、問題なく受け入れられている。時間が経てば馴染めるのかもしれない。


でも、それで浅田とすずめはどうなった?

周りに迷惑をかけない人になれたって、彼らも普通の人と変わらない生き方ができるんだって思ったのに、やっぱり気分屋で自分勝手なところは変わらなかった。


個性は大切にするべきものだけど、誰かを傷つけた時点でそれは枠からはみ出してしまう。あの二人がそうであったように。私の父がそうであったように。

はみ出していいのは、誰にも干渉せずに一人で生きていける人だけ。

それができないのなら、周囲に目を向けなければならない。


それが、私が学んだこと。

一人で生きていく人生が、とてつもなく難しくてつらくてしょうもないことだと気づいた、私が学んだこと。


でも正直、自信はなかった。

このままでいいのかわからなかった。

いつもは優が話し相手になってくれた。

私が見えなくなっているものや、気づかないことを教えてくれた。

それなのに、この学校に関してはあまり多くを語ってくれなかった。


だから、確かめたかった。

私の何が間違っていて、あなたが何を考えているのか……。




『――リリリリリッ――』


「!」


その時、ケータイが鳴った。


ディスプレイに視線を落とすと――彼からの着信だった。


「えっ、なんで……」


手が震え、自分が戸惑っていることに驚く。


出る、出ない……。

出たところで何から話せば……。

ちょっと落ち着いて考えて……。

でも早く出ないと切れちゃう……。

切れたらかけ直せば……。

でもそんなことできるの……。

できないかも……。

じゃあ出たほうが……。

でも出た瞬間切れたら……。

じゃあ早く出たほうが……。

出る……出れば……早く出てしまえば――


ピッ。


「あ……」


うそ……間違えて電源オフのボタンをっ……。

いえ、無意識のうちに逃げたのかも……。


『――リリリリリッ――』


「!」


なんでかけ直してくるのよ!

拒否されたとは思わないの……!?

もういいわ!


ピッ。


『――あ、出てくれた』


久しぶりに聞いた彼の声は、とても落ち着いていた。


『拒まれたと思ったんだけど……』


「ボタンを押し間違えただけ。……そう思うのなら、どうしてかけ直してきたのよ」


『反応してくれたから、チャンスは今しかないと思って』


「今ちょうどお風呂に入ろうと思っていたから切っていいかしら」


『えぇっ、ちょっと待ってよ』


苦笑する彼の顔が思い浮かんで、少し笑ってしまった。


「……冗談よ。本当は……私もあなたにかけようと思っていたから……」


『えっ、そうだったの? じゃあもう少し待てばよかったかな』


その行動に何の意味があるのよ。


「……どうしてかけてきたの」


『君の声が聞きたくなったから』


そういうのはいらない。


『今日になると……どうしても君を思い出すからね』


「…………」


何よ、今さら……。


「よくそんなことが言えたわね。去年のことを忘れたの?」


ずっと待ってたのに……。

〝行けない〟ってメールは来たけど、信じて待ってたのに……。


『……ごめん……。あの時は、その……どうしても行けなくて……』


「理由は?」


『…………』











『――僕は、君を裏切ってしまったから……』


え……?


『君が学校を作るって言った時……僕は反対したよね。でも、本当は賛成していたんだ。君の考えは正しいと思ったし、君の思いは理解できた。浅田くんやすずめちゃんが君を裏切って、深く傷つけてしまったことは一番近くで感じていたから』


「何よそれ……。じゃあ、どうして……」


聞くと、彼はしばらく沈黙した。

何も聞こえてこないのに、彼が言葉選びに躊躇していたことはわかった。


『それが、僕の役目だと思ったから。僕が会社を立ち上げたいって言った時も、君は一緒に悩んで、考えて、意見してくれた。だからこそ、僕一人ではできないことが実現できたり、見えるはずのなかった展望が生まれたんだ』


確かに、昔から言い争うことはよくあった。

それは喧嘩といえば喧嘩だし、切磋琢磨だといえばそうなる。


『お互いの足りないところを指摘し合うのは、学生の頃からやってきたことだから。君が立ち止まっているように見えたから、必要だと思ったんだ。後で悔やんだりしないためにも……』


「要するに……わざと反対して注意を促したかったってこと……?」


『そう、かな……』


「…………」


そんな理由で私から距離を置こうとしたの……?

そんな……バカみたいな理由で……私を……。


『でも、それが間違いだった。僕は君を、必要以上に怒らせてしまった。君のそばに居続けることが大前提だったのに、そう約束したのに……君を……一人にしてしまった……。君を裏切ってしまった……。傷つけてしまった……。だから行けなかったんだ。自分にそんな資格はないと思って……』


「それこそ間違いだわ。あの時あなたが来てくれたら、私はまだあなたのことを信頼できたのに……。どうして今さら弱気になるのよ。あなたはもう昔のあなたじゃないじゃない」


思わず口調が強くなる。

私の知っているあなたは、そんな情けない判断をするような人じゃない。今はもう違う。


『自分でも、わからない……。でも、大切な人の……――君のことになると……どうしても……』


「…………」


だから、そういうことは言わないでっていつも……。


「……ほんっとバカね……。だからって息子の前で泣かなくても……」


『えっ、王子の前で……? そんなことあったかな……』


しらばっくれても無駄よ。

あなたのことは疑っても、王ちゃんの言うことは微塵も疑ってないんだから。


「私が家を出て行った後、あなたが泣きながら謝ってたって聞いたわよ」


『ああ、あの時……。でもあの時は、王子は泣いていたけど、僕は泣いてないよ。さすがに、子供の前で泣いたりはしないからね』


え、でも王ちゃんが嘘をついたりなんて……。


『王子はずっと悲しんでいたから、申し訳なかったとは思ったけど……。王子が泣きすぎてコンタクトが外れちゃって、一緒に床を這いながら探して回っていたら、何してるんだろうって二人で笑っちゃって……。そんな感じだったかな』


…………。

まさか、王ちゃん……涙で自分の視界が悪くなったから、パパが泣いてると勘違いしちゃったのかしら……。

もう、誰に似たのよそんなところ……。


「……そう、それは残念だわ。ようやくあなたにも人間らしい一面が出てきたと思ったのに」


『僕はいつでも人間だよ。その証拠に、君達がいなくなってすごく寂しさを感じる。君を傷つけておいて言うのも、おかしいけどね……』


「私……別にもう怒ってないわよ。あなたが学校の建設に反対する理由をちゃんと話してくれなかったから責めただけ。……ずっと不安だったから、あなたに相談したかったのに……」


『…………』


他に頼れる人はいない。

ずっとそばで見ていてくれたあなただからこそ、信頼できたのに……。


『ごめん……。自分の過ちに気づいた時には、君はもう隣にいなかった……。どうして君を裏切るようなことをしたのか……今の僕にはわからない……。ちゃんと考えればわかったはずなのに……』


……仕方ないわよ。

会社のこともあるんだし……私にばかり気を向けてはいられないでしょ。

あなたが理由もなしに(ある意味ないんだけど)反対していただけじゃないことがわかって、安心したわ。


私は小さく息を吐いてから、声音をワントーン上げた。


「もういいわよ。過ぎたことだし、私のためにしてくれたのなら。……次は絶対に許さないけどね」


『ありがとう、心に刻んでおくよ』


ようやく笑ってくれた。

それが声から伝わってきて安堵する。


謝りたかったのは、私のほうなのに……。


『……君は大丈夫? 問題が起こったりしてない?』


「ええ、ちょっといろいろあったけど、今は落ち着いてるわ」


『そっか、それならよかった。……王子もいるから心配ないよね』


「そうね、息子も娘もそばにいてくれるから幸せよ」


ちょっと嫌味が混じってない?

そんなに寂しいのかしら……。


『そういえば、王子から聞いたよ。自分に妹がいたって知って、すごく驚いたって。でもすごく嬉しいって』


「あなたにも会いたいって言ってたわよ、凛ちゃん」


『ホントに? 嬉しいなぁ。……でも、父親だって認めてくれるかな……』


「大丈夫よ。元気で明るいイイ子だから」


『さすが関おじさん。じゃあ、君にはあまり似てないんだね』


一言多い。


『冗談だよ。じゃあ、いつか会ってくれる日が来ることを楽しみにしておこうかな。……君が帰ってきてくれる日もね』


「……欲張り」


『冗談……じゃないよ。まだ完全に見切りをつけられたわけじゃないみたいだから』


「あら、気づいたのね」


脅し用にとっておけばよかったわ、離婚届。


『さすがにわかるよ、戸籍も変わってないんだから。専務の枠もそのままだから、いつでも戻ってきてね』


「バカ、何言ってるのよ。早く代理を立てなさい。私はしばらく帰らないわよ。こっちだって忙しいんだから」


『じゃあ、うちの会社でその学校をサポートするよ』


あら、一部ではすでにそうしているんだけど、気づいてないのね。


「こっちのことはいいわ。あなたは目の前の仕事に集中しなさい」


『え、そんな……。でも、君が怖いからそうしようかな』


だから一言多いのよ。


『……あれから20年。僕達もいろんな経験を積んだね。でも、君が君のままでよかった』


「あなたはもう少し成長したほうがいいわよ」


『君がそばにいてくれたらな』


くどい。


……でも、そうね、今年は節目なのよね。

幸せなようで、複雑な20年だったわ。

ようやく悩みの種がなくなって、これからは少し落ち着けそう。


「……そういえば、あなたがくれたこのペンダント。トップについてる花は、なんの花なの?」


20年前にもらったペンダントを服の内側から出し、先端の飾りを手のひらに乗せる。


『〝この〟ってことは、今も着けてくれてるの?』


うるさいわね。


「別にいいじゃない。大切な人からもらったものよ」


『ふふ、ありがとう。……それは胡蝶蘭だよ。ピンクの胡蝶蘭の花言葉は――』













『――君を愛してる』


――――。


…………。


「……それって、あなたがいま言いたかったわけじゃないわよね……」


『さあ、どうかな』


なんなのよ……。


ゆっくりと息を吐き、危なく落としそうになったケータイを持ち直す。


ずるいわ……そんなの……。


「……もう切るわね。あなたと話してると疲れるから」


『ごめん、君を不快にさせるつもりはなかったんだけど……』


「違うわよ。……ずっと話していたくなるからって、意味」


『え……』


「冗談よ」


マネて返すと、息を飲む間があって、彼は神妙に呟いた。


『感動して涙が出そうだよ』


はいはい、嘘ばっかり。


「体には気をつけなさいよ。夜ふかしはダメ、休みなしもダメ、食事は三食とって、体を冷やさないようにして」


『大丈夫、ちゃんと守ってるよ。君も無理はしないでね。何か困ったことがあったらいつでも言って』


「ええ。……最後に、一ついいかしら」


『?』










「……愛してくれて、ありがとう」



ピッ。



通話を切り、まさかとは思うけどまたかかってくることを恐れて、ケータイの電源も切った。


しんと静まり返った部屋。


彼の声が頭の中で反響して、口元から力が抜けた。


窓の外を見上げると、月明かりに照らされた綿雪が楽しそうに舞っている。




――本当に、いろいろとあった。


悲しいことも、嬉しいことも、苦しいことも、幸せなことも。


これから先も、まだまだ起伏の激しい道が待っている。


少しでも多く、彼に感謝を返すことができればいい。


少しでも多く、子供達が笑って生きていけるようにできればいい。


まだもう少し時間はかかりそうだけど、自分で決めたことはやり遂げる。


無理だとわかったら、逃げたりせずにもう一つ道を増やせばいい。


そこで新しいことを学んで、形を変えてみればいい。


誰かを傷つけてしまう人も、自分を傷つけてしまう人も、後悔しない道を選べるようになりますように。




――みんなが、幸せになりますように。




過去の自分を思い出し、これからの自分を思い描き、胸に広がった温もりを感じながら、私はしばらく微笑んでいた──。







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