第06章 『前園幸助はペンを執る』 - 01
結局、昨日一日、れいかが俺のもとへやってくることはなかった。やはり一昨日、公民館に行った時のれいかの様子がおかしかったのが原因だろうか。
別れ際、れいかが言っていた、忘れていた方がいいことも世の中にはたくさんある、と。あの言葉にはどんな意味があるんだ?
忘れていた方がいいこと……。もしかして、俺が何かを忘れているということか? だとすれば、いったい何を……。
昨日一日考えても、どうしてもその答えは導き出せなかった。
れいかの寿命は残り三日……。もしかしたら、このまま……。
この物語の先に待ち構えているかもしれないラストシーンを想像すると、いいようのないやるせなさを感じ、頭を振ってその妄想を振り払った。
こんな消化不良のまま終わらせられたんじゃたまったもんじゃないが、れいかの連絡先も知らないし、考えていてもしかたがない。
ここは、今できることに専念しよう。
れいかが隠し事をしていることは明らかだ。そのれいかが、俺に『約束の矛先』の続きを書いてくれと言ってきた。
つまり、彼女にどんな裏があろうと、俺が小説のラストシーンを書けるかどうかが重要になってくるはずだ。
だが、そう考え、実際にパソコンに向かって小説の続きを書こうとしてみると、思考がまとまらず、指先が震え、額に汗がにじみ、『思い出の刃』を書いた時のことがフラッシュバックした。
自分が望んでいない、最悪のバッドエンド。一切の救いがない、どこがおもしろいのか理解できない物語。だが、それが世間には高く評価された。
あの時の経験が、自分の書きたいものと世間の評価とのズレが、いつの間にか恐怖心となって俺の中に強く根づいてしまっている。
それでも、ネット小説の『約束の矛先』は、あと三話書ききれば完結させることができる。
あとたった三話。それだけだ。それだけ書けば終わるんだ。
何度もそうやって自分に言い聞かせるが、結局筆は一向に進まなかった。
◇ ◇ ◇
「もう、いい加減諦めたらどうだ」
真っ暗な空間で、どこかから男の声が聞こえてくる。
声の主を探して周囲を見渡しても、それらしい人影はおろか、およそ物体と呼べるものは何一つ存在しなかった。
「お前がもう、小説家として生きていけないことは、自分が一番よくわかってるだろう?」
……うるさい。
「小説家として死んでいる、そう言っていたじゃないか」
……うるさい。
「あの担当編集もとっくにお前のことを見捨てた。最後の望みだったネット小説すら完結させられなかった」
黙れ!
「小説が書けなくなったお前に、いったいどんな価値があるんだ?」
黙れ! 黙れ! 黙れ!
「一度死んでしまったら、二度と生き返らないんだよ」
◇ ◇ ◇
男の声をかき消すように思いきり体を起こすと、スリープモードになったパソコン画面が、俺の青ざめた顔を映し出していた。
夢か……。
頭ではそう理解しても、心臓の鼓動は未だにバクバクと脈打っていて、首筋にじっとりと滲んだ汗が不快感を増長させた。
今思うと、夢で俺に話しかけてきた男の声は、自分自身のものとよく似ていた気がする。
「一度死んでしまったら、二度と生き返らない、か……」
「それって私のことですか?」
「……は?」
背後から突如として聞こえてきたその声に、思わず間の抜けた声を出してしまった。
よくよく見れば、暗くなったパソコンのモニターに、俺の背後に立っているれいかの姿が映り込んでいた。
「なんでここに……。というか、どうやって家に入ってきた」
「え? そんなの……鈴寧さんに頼んで合鍵を作ってもらったに決まってるじゃないですか」
れいかは嬉々とした様子で、真新しい鍵を自慢げに指で摘まんでいる。
「そんなの没収だ、没収!」
「あぁ、ひどいっ! せっかく作ってもらったのに!」
「ひどいのはどっちだ! 勝手に合鍵なんか作りやがって!」
「うぅ……」
鍵を取り上げられたれいかはしょんぼりと落ち込みながら、ポケットからまた別の鍵を取り出した。
「ま、実はもう一つあるんですけどね」
「それも没収だ!」
「えぇー。けちー」
「けちじゃねぇよ!」
誰かこの不法侵入者を追い払ってくれ……。
「……で、昨日はなんで来なかったんだよ」
ついそんなことを口にしたあと、しまった、と思ったが、もう後の祭りだった。
れいかは俺の顔を覗き込むと、にんまりといたずらっぽい笑みを作って、
「あれれぇ~。もしかして前園さん、私のこと心配してくれたんですかぁ~?」
「そ、そういうのじゃないから」
「えぇ~? ほんとは私が来なくて寂しかったんじゃないですか~?」
「…………」
クスクスと楽しそうに笑っているれいかに腹立たしさを覚えながらも、さっさと話題を変えた方が無難だと思い、それ以上ムキになるのはやめた。
「……それで? 今日はいつからここにいたんだよ」
「そうですねぇ……。たぶん、三十分くらい前ですね」
「三十分? 三十分も一人でなにしてたんだ?」
「いいえ? 一人じゃないですよ? さっきまでそこに鈴寧さんも一緒にいて、二人で仲良く七並べしてました」
「こえぇよ……。なんで見たこともない奴が俺の部屋で七並べしてるんだよ……」
「前園さんが起きる少し前に、また部屋の外に行っちゃいましたけどね」
心の整理が追いつかない状況にため息をついていると、れいかはぴしっとパソコンのモニターを指差して、
「もしかして、執筆中だったんですか?」
「……まぁ、一応」
「おぉ! それはそれは! ……それで、どうですか? 私が死ぬ前に、『約束の矛先』は完成しそうですか?」
正直に経過報告するべきかを少し悩んだのち、ありのままを言うことにした。
「……全然だ。構想は頭の中にあるんだが、文章にしようとすると……どうにも……」
少しは落胆されるかと思っていたが、れいかは、「こういうのは焦っても仕方がないですからね。ゆっくりやっていきましょう!」と俺を元気づけた。
タイムリミットは刻一刻と迫っている。それなのに、その焦燥を微塵も感じさせないれいかに、俺は逆に焦りを感じた。
「でも、もう少しで書けそうな気もするんだ。とりあえず、今日一日はずっとパソコンの前に張りついてみる」
「……そう、ですか。でも、どうして私のために小説の続きを書いてくれる気になったんですか? 最初はあんなに嫌がっていたのに……」
「それは……まぁ、いろいろ思うところはあるけど。やっぱり一番の理由は、そうしないと後味が悪いから、だな」
「…………後味が悪い?」
「だってそうだろ? あと数日で死にます。その前に小説を完結させてください、だなんて言われて、できませんでした、すいません、じゃ、バッドエンドもいいところだ。前にも言ったが、俺は救いのないバッドエンドは大嫌いなんだ」
「…………あぁ、なるほど。そういうことになるんですね」
「ん? 悪い、声が小さくて聞こえなかったんだが、今何か言ったか?」
「いいえ、別になんでもありません。私は前園さんがやる気になってくれてとてもうれしいです。その調子で『約束の矛先』が完成したら、一番に読ませてくださいね」
「……あ、あぁ」
なんだろう……。れいかの口調が、まるでうれしそうじゃない気が……。
れいかの態度が気にはなりつつも、パソコンの電源ボタンを押し込み、スリープモードを解除した。
書いては消しの繰り返しで、結局真っ白になったファイルを睨みつけながら、書けるかもわからないのにキーボードに両手を置いてみる。
おもしろさなんて二の次だ。とにかく、今は完結させることを第一に――
その時だった。
バツン、と無慈悲な音が小さな部屋の中に響き渡り、さっきまで真っ白だった画面が突如として真っ黒に変わり、ポカンと口を開けた俺の間抜け面が映り込んだ。
「ま、まさか……これは……」
後ろに立っていたれいかが、さっきの音と共に消え去った蛍光灯の紐をカチカチと引っ張って、
「停電ですねぇ」
「……マジかよ」
なんで今、このタイミングで……。できるかどうかはともかく、せっかくやる気になってたのに……。
とりあえずアパートの廊下に出て、玄関扉の上部にあるブレーカーをいじってはみたものの、一向に電力は復旧しなかった。
「こりゃだめだ……。大元のブレーカーが設置してある大家のところに行くしかないか……」
あの人と話をしなくちゃいけないと思うと気が滅入るが、しかたない……。このままだと冷蔵庫の中の物が腐る……。
「れいかは部屋に戻っていてくれ。俺は大家のところに行ってくる」
「わかりました。じゃあ私は部屋で待って――」
と、そこまで言い終えたれいかは、廊下の先を見ると、会話を中断させて慌てて部屋の中に戻って行った。
何事かと思い、俺もれいかが見ていた廊下の先に視線を向けると、あろうことか、そこにはあの大家がすぐそこまで迫っていた。
ま、まずい! 今、確実に大家にれいかを見られた!
この前、一階で見たカップルが大家に叱責されていたのを思い出し、俺はその二の舞になると腹をくくり、こちらに近づいてくる大家から目を離さなかった。
だが、大家は目の前まで来ると、
「ちょっと、ごめんなさいねぇ。アパートのブレーカーが壊れちゃったみたいなの。今修理業者の人を呼んだんだけど、復旧に一日はかかるって言われちゃって」
復旧に一日……?
「え? ……あ、はい。……そうですか」
てっきり俺もあのカップルのようにひどい言葉で罵られるのだと思っていたから、正直肩透かしだった。
大家はその後、他の部屋にも一つ一つノックをして、ブレーカーの件を説明しているようだった。
部屋に戻り、大家の態度に頭を傾げていると、れいかが心配そうな顔でやってきた。
「すいません、前園さん……。大家さんに何か言われませんでしたか?」
「……いや、特に」
「え? 怒られたりしませんでした?」
「……全然」
「……そうですか。鈴寧さんから、ここの大家さんは男女関係に厳しいと聞いていたんですが……。今日はたまたま機嫌がよかったんでしょうか?」
「……あぁ。そうかもな」
そのままれいかの横を通り過ぎ、パソコンラックの前に置いてある椅子に座って一息ついた。
「ところで、ブレーカーはどうなったんですか?」
「……ん? あぁ……。なんでも、復旧に一日はかかるってさ」
「復旧に一日……。そうですか……」
れいかは少し考え込むと、まくしたてるように言った。
「あ、あのっ、前園さん!」
「……ん?」
「……その、復旧に一日かかるということは、今日はもう執筆活動はできないんですよね?」
「そうなるな。残念だけど」
「だったら、不躾なお願いであれなんですけど……。どこか遊びに連れて行ってもらうことはできませんか?」
「遊びに連れて行く? 俺が? れいかを?」
「はい……。だめでしょうか?」
「……いや、だめというか、なんでまたそんなことを?」
「実は……その……昔から行ってみたいところがあったんです。でも、一人で行くのは気後れしてしまって……」
「行ってみたいところ?」
「ゲームセンターです」
「……行ったことないのか?」
「昔から人の多いところは避けていたので、一度も……」
これまで一度もゲームセンターに行ったことがないのが恥ずかしいのか、れいかはもじもじと俯いていた。
まぁ、ブレーカーを戻してもらえないんじゃ、今日一日執筆なんてできないし……。そもそもれいかは――
頭の中を様々な考えが巡るが、健気を装っているれいかを見ていると、それもどうでもよくなった。
「じゃあ、行ってみるか。ゲームセンター」
俺の言葉を聞いた途端、それまでもじもじとしていたれいかが両手を上げてぴょこんと跳ねた。
「ほんとですかっ!? やったーっ!」
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