第55話 恋人みたいに

 夕陽の差す頃に瀕死の状態で病院に担ぎ込まれた小熊は、長くなりはじめた春の陽が沈み、完全に暗くなる前の時間に病院から追い出された。

 急性イレウスで体内に吸収できなくなった水分や栄養分を点滴で補っただけで、先ほどまで立つことも手足を動かす事さえできなかった体は、何事も無かったかのように動いている。

 とりあえず部屋着のポケットにスマホを入れっぱなしにしていたおかげで、費用の清算はキャッシュレスで終える事が出来た。今日は薬局が閉まっているが、後日病院まで処方箋を持って来て経過観察と薬の処方を受ければ、それで治療は終わりらしい。


 ここに来る時に裸足のままカブに乗せられた小熊は、処置室でもういらなくなったというナースシューズを一つ分けてもらい、それをスリッパから履き変えて外に出た。受付で聞いたところ、小熊をここまで運んだ春目は、そのままカブを放り出し、バスに乗って逃げるように帰っていったらしい。 

 生垣に倒され、車に当て逃げでもされたような様のカブを引き起こし、すぐ近くに投げ捨てられていたヘルメットを拾って被り、つけっぱなしだったキーを捻った。

 横倒しになっていたカブは元より横型エンジンで傾斜に強いせいか、オイルもガソリンも漏れていない。


 カブをキック始動させようとしていた小熊の横を、一台のバイクがすれ違った。

 小熊のカブと同じ旧型車体のプレスカブ。車体にアニメキャラクターのグラフィックが描かれたカブは駐輪場を素通りし、病院関係者出入口の前に横付けしている。

 カブには、まだ少年といっていい男が乗っていた。細く淡い色の髪はハーフキャップのヘルメットからはみだすほど長く、仕事用カブの質実剛健な雰囲気にはややミスマッチな中性的外見をしている。

 少年は誰かと二人乗りしていた。エンジンを大排気量の物に載せ替えているらしく、後ろに人を乗せても動きからは鈍重な感じがしない。


 プレスカブの後部から降りた同乗者は女だった。少年より少し長い程度の黒髪で、目元といい意思の強そうな雰囲気だが、カブの振動にはあまり慣れていないらしく、軽く足をふらつかせている。

 少年は女のジェットヘルメットを優しく取ろうとしたが、女はその手を制し自分でヘルメットを取った。さほど乱れても潰れてもない髪をしきりに気にしている。すれ違う人たちと挨拶を交わすところを見る限り、病院の職員らしい。

 女はプレスカブに跨った少年に言った。

「ここまで送ってくれてありとう。でも、ね? 君は受験があるでしょ? わたしもインターンが明けたら色々忙しくなるし、その、お互いのために、しばらく二人で遊びに行くのはやめたほうがいいかなっ、て 」


  会話のやりとりは小熊の居る駐輪場まで聞こえた、もう病院に用は無いし、遅くなる前に帰ろうとした小熊は、急に買い物の用を思い出し、カブを発進させる前にスマホでチラシのチェックをしよううと思った。

 プレスカブに跨った少年は女の話を聞き、身振りと表情で無駄に疑問と落胆をアピールしながら言った。

「なんで? これから夏だよ? カブはこれから面白くなるのに! 僕は君とタイのバンコクの恋人同士みたいなデートがしたいんだ! カブで屋台行って、バインミーやカオマンガイを食べて、それから」

 女は喋り続ける男を手で制しながら言った。

「んーと、わかんないかなぁ? わたし、バイクがそんなに好きじゃないの。わかる? あなたのことが嫌いじゃないんだけど、あなたは若いし、色々まだ早いかなって、それにわたし、バイクが嫌いなの」


 女がその台詞をバイクを見ながら言ったのか、それとも違うのか、小熊が振り返って確かめるまでも無かった。背後から絶望と悲嘆の空気が痛いほど伝わってくる。

 少年はよほどの鈍感なのか、それとも何度ひどい目に遭っても折れない心を持っているのか、僅かな希望に縋りつくように言い募る。

「わかった。僕のカブが嫌われたならしょうがない。でも、もし君が仕事に疲れて、今日みたいにどこかに連れてって欲しいと言ってくれたら、僕はいつだって迎えに行くよ、もちろんカブで」

 プレスカブの乗り心地より、そのねちっこさが嫌われたのではないかと小熊は思ったが、もしかしてこの少年が年上らしき女とのデートにこぎつけられたのも、そんな部分だったのかもしれない。


 女は少年の言葉を冷たくあしらうように手を振って職員出入口に消える。院内で他の職員と「先生、あの彼氏は」「いやだなぁ親戚の子ですよ、ちょっと面倒を見ていただけで」と会話を交わすのが聞こえた。

 小熊はスマホを傾けた。少年が目も当てられない様でプレスカブのメーターに突っ伏している姿が画面に反射する。ここは一つ、同じくスーパーカブを愛好する者として、慰めの言葉でもかけるべきかと思っていたら、少年は突然身を起こす。

 さっきから小熊も気になっていた音に気付いたらしい。後部タイヤがパンクしていて、微かな空気漏れ音が聞こえてくる。普段あまり物を載せないカブに突然重荷を積むと、たまにそうなる事がある。


 カブの半ば潰れたタイヤを見た少年は指を鳴らした。きっとこのタイヤのせいでプレスカブの乗り心地が悪かったから、あの女の人はカブを嫌ったのではないかと一人合点している様子だが、たぶん違うと思う。カブではないと思う。

 きっとあの女は、カブのパンクに気づかない少年が、自分の表情や言葉にならない声を意識してくれなかった事で少年を見限ったんだろう。もしもあの少年が女と街を歩き、食事などしていたなら、どんな感じだったのかは小熊にも想像がつく。女に道路際を歩かせない、レストランの席が椅子とソファなら後者を女に勧める、きっとそんな基本的な事が出来ていなかった。

 小熊は男からそんな思いをさせられた事など無いが、少年の乗るプレスカブを見ていると、だいたいわかる。ベトナムキャリアと呼ばれるメインフレーム上の荷台や二人乗り用のダブルシート、輸入品らしき大型エンジンなど、あれこれとパーツを付けているが、足回りの消耗品メンテナンスという本当に大事な部分が疎かになっている。


 小熊はカブのエンジンを始動させた。男子が思春期に何度も経験する痛みは勝手に直るのを待つしかないが、せめてプレスカブのパンク修理くらいは手伝ってやろうと思ったが、少年は突然身を起こし、自分のスマホを取り出して操作し、通話を始めた。

「あぁ久しぶり、いや幼稚園からずっと一緒だったのに高校入ってからずっと会ってないんでどうしてるのかなって。俺? 変わってないよ。そうだバイクに乗ってる。すっごくカッコいいバイクなんだ。乗りたい? そうだ! これから二人で台湾の恋人みたいなデートをしないか? 一緒に屋台行って魯肉飯とか胡椒餅を食べよう。うん、もちろん家はまだ覚えてるよ、これから迎えに行くから、その前にホームセンター寄ってパンク修理してくけど、待ってて、すぐだから」


 小熊は肩を竦めた。どうやら人はバイクに乗り続けていると、色々な事に懲りない奴になるらしい。何度壊れても何回事故を起こしても諦めない奴は、女に対しても往生際が悪くなる。

 少年はさっきまでの落胆が嘘のように、意気揚々とプレスカブのエンジンを始動させた。

 半ば潰れたタイヤを誤魔化すように走り出したプレスカブの少年とすれ違いながら、小熊は思った。

 同じくカブに乗る人間の恋愛事情は、それがどうしようもなく節操の無い男だったとしても応援してあげたいが、女心には気を付けろ。


 女の気持ちがわからず、ついさっきふられた少年は、懲りることなくカブに乗って別の女のとこに行く積もりのようだが、大事な事を忘れてはいけない。少年はカブを世界一かっこいいバイクだと思っていて、小熊も同じ気持ちだが、カブに乗っている人間以外に、そう思っている奴は多くないという事。特にバイクにさほど興味の無い人間の多くにとって、カブはただの仕事道具。

 もしもあの少年がこれから会いに行くという幼馴染が、男の顔より靴を見るような女だったなら、スーパーカブに乗っている男子にあまりいい印象を抱いてくれないかもしれない。


「まぁ大丈夫かな」

 女にモテるツールとしては、車や高級バイクに比べやや打率の低いスーパーカブも、ダメならばダメじゃない相手が見つかるまで何度でも過ちを繰り返すような奴が乗るならば、きっと成功を掴み取る事が出来る。カブならばそんな悩み多き男子の七転びに耐えられるし、八回目に起き上がる力を与えてくれる。

 もしかして、彼が憧れ、小熊も幸せそうだなと思いながら見た事のある、バンコクや台湾の恋人みたいになれるのかもしれない。  

 

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