第4話 トースター

 眠りは深く、目覚めは快適だった。

 日々暖かくなる気候のせいか、引越しを機に新調した布団のおかげか、そう思った小熊は、体を起こしてすぐに原因を知った。

 窓際に置かれたベッド。少々動きの渋い木の雨戸を、寝室だけ閉め忘れたせいか、体全体に春の朝陽が降り注いでいる。これなら人類に刷り込まれた、細胞の活動開始を指示する機能が覚醒してもおかしくない。


 山梨の集合住宅に居た頃は、朝の陽光は他の棟に遮られ、夏の西陽ばかり余計に入る部屋だった。

 これからは朝目覚めて雨戸を開けるたび、こんな気分を味わえる。それも日の出と共に目覚め、日が暮れたら眠りにつく健康的な生活をしていればの話だが。

 今の自分にはこの陽光は少々眩しすぎると思った小熊は、とりあえず今日はカーテンを買いに行こうと思った。


 集合住宅に住んでいた頃より大きめの音量でラジオを流しながらシャワーを浴びた小熊は、寝室に劣らず日当たりのいいダイニングキッチンで朝食の準備を始めた。

 昨日夕食のパック寿司を買った時に、一緒に買い込んだ食材を冷蔵庫から出す。

 ガスコンロの炎がよく見えないほど明るい、合成大理石造りのキッチンでフライパンを熱し、ブロックで買ったベーコンを薄く切って放り込む。ベーコンの脂が出始めた頃合で卵を二個割り入れて、弱火にしたフライパンに蓋をする。

 食パンを取り出した小熊は、この家に引っ越してから台所に加えた新しい物を使うことにした。

 食パンを焼いてトーストにする、電熱式のトースター。


 それまで食パンは焼かずにジャムや硬くて塗りにくいマーガリン、ピーナツバターを塗って食べていて、それで充分、それが自分のスタイルだと思っていたが、スーパーカブであちこち出かけているうちに、出先の喫茶店などで食べるトーストもまた美味い事を知った。

 だからといって小学校の給食以来食べ慣れた焼かない食パンの味が落ちるというわけではない。ただ、世の中に二種類の美味な物があるなら、我が家にはその両方を手に入れられる環境を作りたい。

 そう思った小熊が周囲に声をかけ、後輩の伊藤史の家から貰ってきたのは、サンビーム製のトースター。


 かつて小説やハリウッド映画の主役を演じた事もある、頑丈なクロムメッキで出来たポップアップ式のトースターは、パンの上に何かを乗せて焼く用途に向かない、餅やホイル焼き、冷凍グラタン等には使えないという日本特有の事情で、前の持ち主は買ってはみたものの使う事も無く持て余していたらしいが、今にも粗大ゴミとして捨てられそうなトースターを見た時、小熊は反射的に譲渡を願い出た。


 車やバイクでもよくある話。タダでもいいからという言葉より、貰う人が居なければスクラップ行きという事実を知って、つい出来心でウチで引き取ると言い、そのまま連れて帰ってしまう。多くの場合そこから修復や維持、あるいは家族の反発などの面倒事が始まる。とても楽しくてたまらない苦難の道。


 とりあえず小熊が史の父から貰ったトースターは綺麗な品で、動作も問題ない様子。地元のスーパーではあまり見られなかったので、物珍しさで買った四枚切りのトーストを二枚、トースターに差し込む。

 出来上がったベーコンエッグを、大きな皿の中身が幾つもの仕切りで分けられたランチプレートに盛り、水洗いした大きなトマト二個を添えた頃、トースターが焼きあがったパンを飛び出させた。

 食中に飲むアップルジュースをカップに注ぎ、食後のコーヒーを沸かすパーコレーターを火にかけた後、綺麗なキツネ色に焼けたトーストに、マーガリンより値は張ったが少し奮発したバターを塗る。


 卵とベーコン、トマト、トースト、ジュース。シンプルな朝食。今日は朝から凝った物を作るほど暇なわけでは無い。大学の初登校まであと数日あるが、この家に実際に住んでみて、あれこれ必要な物を買い足さなくてはならない事がわかった。 

 ベッドの下に敷く物やカーテン、それから先ほど紙箱から取り出して銀紙を剥いて塗ったバターを入れるバターケースなど。


 NHK-FMがバイエルの練習曲を流す中、コーヒーの香りが漂い始めたダイニングで、小熊はバターの染みたトーストを齧りながら、今日行くべき場所を頭の中で整理し始めた。

 

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