『シルバーラビットの霧の館』

橘紫綺

序章『消えたハイネス』


 ♪ ♪ ♪


 霧が出ているその夜は けっして出歩いてはいけないよ

 深い深い霧の中 独りでいてはいけないよ

 独りぼっちが見付かれば そいつは静かに現れる

 シルバーラビットが現れる


 孤独を嫌うラビットは 仲間を捜して現れる

 深い深い霧の中 仲間を求めて現れる

 独りぼっちを見付ければ 霧の向こうへと連れて行くよ

 霧の向こうの孤独な屋敷へ そっと手を引き連れて行くよ


 そしたら二度と戻らない 戻れない

 だってそこは独りじゃないから

 孤独を忘れた人間は戻らない 戻れない

 だってそこは幸せだから


 だから出歩いていてはいけないよ 霧が出ているその夜は

 見付かってはいけないよ 自分が独りでいることは

 独りぼっちが見付かれば シルバーラビットが現れる

 手を引かれたその後は 二度と戻って来られない

 シルバーラビットに囚われて 二度と戻って来られない


 だから鍵を閉めなさい しっかりその手を握りなさい

 孤独を締め出し守りなさい 孤独に誘われそうなその人を

 さもなければ

 深い深い霧の中 シルバーラビットが連れて行くよ

 二度と帰れぬ霧の奥へと 孤独を嫌う屋敷へと


 ♪ ♪ ♪





 あれ?


――とラチェットが思わず声を上げたのは、服飾コンテストの締め切りが間近に迫り、追い込みとばかりに職人全員が工房に泊まり込んで作業している時だった。


「どうしたラチェット? いきなり変な声上げて」


 すぐ傍で、人形に着せた衣装に薄いピンクのレースを仮止めしていたヴァンドが不思議そうな顔で問い掛けた。


「何? どうしたの? 何かサイズおかしかった?」


 窓際で裁断を任されていたメルクルも……いや、工房でそれぞれ作業をしていた五人全ての仲間から、不思議そうな不安そうな視線を向けられたラチェットは、


「いや、今玄関の閉まる音が聞こえたような気がしてさ……」


 自分自身、にわかには信じられないと言う口ぶりで答えれば、


「いやいや。それはないだろ。だってほら、見て見ろよ」


 と、窓辺に近い場所で花のコサージュ付けに悪戦苦闘していたランディが、カーテンを捲り上げて呆れたように否定した。


「こんだけ外は霧が深いんだ。こんな夜に外に出るなんてただの馬鹿だろ」

「そうそう。こう言う霧が濃く立ち込める日は、家中の鍵をしっかりと掛けて、みんなで一緒に居るのが一番でしょ。さもないと……」

「怖ぁい怖ぁい『シルバーラビット』が霧の向こうへと連れて行って食べちゃうぞ!」

「きゃーって、こんなところでいきなり抱き着かないでよ、みんなの前で恥ずかしい」

「いいじゃんか別に。皆の公認を得てるんだから」

「それでも嫌なの。配慮できないなら今すぐ別れてやるんだから」

「マジか?!」

「マジよ」

「あっはは。振られてやんの馬鹿だねぇ」


 と、緊張感の欠片もなく盛り上がる仲間の様子に、ヴァンドが、仕方のない奴らだと言わんばかりに肩を竦め、その反対の部屋の隅で黙々と自分の作品作りに没頭

しているマルディを目にし、ふとラチェットは気が付いた。


「ねぇ。そう言えばハイネスの姿をさっきから見てないんだけど、誰か知らない?」


 まさか、その何気ない問い掛けが、工房の空気を一変させるなどラチェットは思

いもしなかった。

 激変だった。楽し気な空気は一瞬にしてどこかへ消え失せ、代わりに満たしたのは冷たい空気。


 それこそラチェットは空気の変わる音が聞こえたような気がした。

 じゃれて笑っていた三人の表情も強張り、どこか不機嫌そうな蔑んだもの。

 見れば、すぐ傍で作業をしていたヴァンドも、冷めた顔をして作業を再開し始めて。

 たった一人、表情も作業を進める手も止めなかったマルディは、チラリと目線を上げてラチェットの眼を見た。

 たったそれだけで、何故かラチェットはハイネスの行方を知ってしまった。


「まさか!」


 弾かれたようにラチェットは工房から飛び出そうとした。


(霧の立ち込める中、ハイネスが外へ出た?!)


 それがどんな悲劇をもたらすか知らないわけでもないのに。

 しかし――


「よせ!」


 すれ違い様の腕をヴァンドに掴まれ、怒鳴られた。

 ラチェットは信じられない思いで仲間の顔を見た。


「今からお前が出て行っても見付けられないだろ!

そうなれば、お前まで戻って来られなくなるぞ!」


 ただただ信じられなかった。今まで苦楽を共にした仲間を見捨てろと、あっさりと切り捨てる言葉を聞かされるとは。

 だが、ラチェットの悪夢は続いた。


「そうだよ。分かってて自分で出て行ったんだ。追い掛ける必要なんてどこにもねぇだろ」

「そうね。分かってて出て行ったんだもの。連れ戻しに行ったところで帰って来ないでしょ。と言うか、捜している間にあなたの方が攫われちゃうかもよ」

「それに、本当に『シルバーラビット』が出て来るとも限らないし。少し頭を冷やせば戻って来るんじゃない?」


 その冷たい言葉の数々は、これまで薄々勘付いていた人間関係の亀裂を決定的なものにした。

 瞬時にラチェットの頭に血が上る。


「ふざけるなよ! 一体お前たちの間に何があったって言うんだよ! 今までどれだけハイネスが俺たちのために頑張って来てくれたのか忘れたわけじゃないだろ!」


 掴まれていた腕を振りほどき、反射的に怒鳴り付けていた。

 見返して来る冷めた目が。疎ましそうな目が。煩そうな目が。面白くなさそうな目が。嫌でもラチェットの怒りに油を注いだ。


 ラチェットは裏切られたような気がした。

 ラチェットには目に見えない壁が見えていた。

 ずっと同じ目標に向かって進んで来た仲間だと思っていた。

 そう思っていたのが自分だけだと突き付けられて、悲しくもあり腹立たしかった。


 こいつらには何も期待できない――そう思ってしまった。

 自分だけがハイネスを助けられる――そう思ってしまった。

 思ってしまえば、少しでも早くこの気持ちの悪い空間から飛び出して、ハイネスを追い掛けなければならないと思ってしまった。

 しかし。


「――やめた方がいい」


 我関せずを決め込んで、作業の手を止めずにいた仲間の冷静な声がラチェットの足を止めさせた。

 見れば、やはり作業に集中しながらマルディは続けた。


「ハイネスだって馬鹿じゃない。今出て行ったらどうなるか覚悟を決めていると思う。それを無理に連れ戻そうとしても無駄だと思う」

「でも!」

「自分自身も『シルバーラピット』に攫われる覚悟があるなら行けばいい」

「!」

「でも、そうじゃないならハイネスの捜索は専門家に頼んだ方がいい。その方が連れ戻せる確率が上がると思う。

 少なくとも、妖魔とまともにやり合うことの出来ない君が闇雲に捜し回るよりは効率がいいと思う。ハイネスを捜しに出た君が『シルバーラビット』に捕まって、ハイネスが無事に戻って来たりしたら、それこそ、ここにいる皆とハイネスとの間に決定的な溝が出来ると思う。

 それでもいいなら捜しに行けばいいと思うよ。そうじゃないなら一晩待って様子を見て、明日捜しに行った方がいいと思う。

 だって、この中でハイネスを捜したいと思っているのは、多分君だけだからね。君がいなくなればそれこそ誰もハイネスを捜しに行きはしないよ? まぁ、選ぶのは君だけどね」

 

 それは正論だった。話している本人は一度もラチェットの顔を見ようともしなかったが、少なくともそいつだけは他のメンバーと違いハイネスを疎んでいないと分かっただけでも、ラチェットは少し冷静になれた。

 だが――


「飯、作って来る」


 今まで隠されて来た裏切りを目の前に突き付けられた以上、同じ空間にはいたくないとばかりに、ラチェットは部屋を後にした。



 結局次の日になってもハイネスは戻って来なかった。

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