第10話
「カルラ、朝よ」
俺は母の優しい声で目覚めた。窓の外を見ればまだ辺りはうっすらと暗い。どうやらちょうどいい時間に起こしにきてくれたようだ。
「おはようございます、お母様」
上体だけ起こすと、母が俺のベッドに腰かけていた。
「おはよう、……父様から聞いたわ、貴方ここを出ていくそうね」
「はい、勝手を言って申し訳ございません、ですが私は本気です、どうしても果たさなければならないことがあるのです」
まぶたをこすりながら返答する。
きっとその話を聞かされたのは今さっきのことだろう、しかし意外にも母は落ち着いている様子だ。
「そう……貴方の目を見れば分かるわ、きっと大きな使命があるのでしょう、大丈夫、心配しないで、私は貴方を止めたりはしない、ただ……」
母がそう言うと、そっと俺を抱き締めた。女性特有のわずかに甘い香りが鼻をくすぐる。
「少しの間だけでいいからこうさせて……」
母はそのまま俺の頭を撫でる。何度も、何度も、丁寧に、寝起きでボザボサの俺の髪を撫でた。少しだけ鼻を啜るような音が耳のそばで鳴るのが聞こえる。
今母はどんな顔をしているのだろう。泣いているのだろうか、悲しんでいるのだろうか。実際気にはなるし、少し目を向ければ見れない事もない。でもそうすることは出来なかった。
そうしてしまえば覚悟やら決断やらが鈍る気がしてしまうような、あと一日だけここにいてもいいかな、なんて思ってしまうような気がしたから。
つまりは俺は前世の記憶を取り戻しても、相変わらず女の涙というものには弱いみたいで、そういう意味じゃ依然弱虫なままらしく、ただ何もせず発せず、母の肌と吐息の温度を感じることくらいしか出来なかった。
「カルラ……何故行ってしまうの、私はまだあなたに何もしてあげられていない、母親らしいことなんてなにも出来ていなかったというのに……」
ああ、これが母の本音なのだろうか。もしかしたら、俺が距離を感じていたことに自覚があったのかもしれない。まあ俺自身、記憶が蘇るまでは親とこれからやり直していこうなんて考えていたさ。なんというか、タイミングが悪いよなぁ。
……今考えてみれば実は母にいらぬ気を遣わせて迷惑をかけていたのかもしれない、と思うのは傲慢だろうか。
でも、もし俺達が普通の親子のように隔てなく接することが出来ていたのなら、母は今こんなに苦しむこともなかっただろうし、自分に負い目を感じることもなかっただろう。
頭の中で色々な思いが駆け巡る。
だから俺はせめてもの思いで母に語った。紛れもなく貴方は私の母であると、貴方の子であることが俺は誇らしいと、そしてどうか自分を責めないでくれと。
「ありがとうカルラ、私も貴方の母であることを誇りに思うわ……」
それからもしばらく抱擁は続き、やがて母は名残惜しそうに腕をほどいた。
「すぐに朝食を用意するわ、残したら許さないんだから」
俺は、せめて今日くらいは母の言うことを聞こうと思った。
一階に下りて食事をとる。昨日リインが座っていた向かいの席に、今日は母が座っていた。さっきから俺が飯を食う様子をまじまじ見つめている。
「カルラ、あなた昨日父様と決闘をしたそうね、言ってたわよ、知らない間に一人前の男になってたって、それはそれは嬉しそうに」
そんなことを言われると妙に照れくさい、というかどう返答すればいいんだ。俺は何も言わず頬張り続ける。
「でも本当に、いつの間にかこんなに大きくなっていたのね、昨日もさっきも思ったけど、もう私の腰くらいまで背が伸びていて、子供の成長って早いものね」
だから返答に困るんだよなぁ。せっかくだから何か言ってやりたいが、成人の頃にはお父様の背も抜いてみせますよ、とでも言えばいいのか?いや無理、臭すぎる。
「そ、そうですか?」
結局こんなぎこちないことしか言えず、食事を終えるまでこんな調子がずっと続いた。困惑したが、なんだか素の母の姿をはじめて見たような気がして実のところ少しだけ嬉しかった。
そしていよいよその時がやってくる。食事を終え部屋に戻ると旅用の衣服が用意されていた。父が置いてくれたのだろうか。
動きやすそうなジャケットにショートパンツ、それに対して何やら古ぼけた被り付きの外套、それらに身を包み鏡を見ると、まるで冒険家のような出で立ちに様変わりした。
新鮮な自分の姿に少しばかりの戸惑いと興奮を覚える。これから先の旅は決して楽しいことを予感させるものではないが、それでも、こういうのに子供心がくすぐられる。それと同時に、いよいよなんだな、という実感が湧いてきて、もう、後戻りはできないんだと、より一層に気を引き締めた。
「……いくか」
そうして俺は一階に戻った。玄関へ赴くと旅用の大きな背負い鞄が用意されていて、父と母が待っていたくれた。父は徹夜で旅の準備をしてくれていたせいか目の下にくまが出来ていた。
「旅に必要そうなものは一通り鞄に入れておいた。時間があまりなかったから不足もあるかもしれないが、大体のことには対応できるだろう。それとバクハカの森までの生き方だが、鞄のポケットにメモを忍ばせてある、それを見ながら向かってくれ」
「ありがとうございます、お父様のお気遣い決して無駄にはしません」
「気にするな、それよりリインとエミリアに別れの挨拶をしなくていいのか?」
「いえ、大丈夫です、昨日は色々あって二人とも疲れているでしょうから、無理に起こすのも悪いかと、二人にはいつかまた会おうと伝えておいて下さい」
「わかった、伝えておこう。ちなみにいつぐらいに帰ってくるんだ?」
「わかりません、早ければ一年で済むかもしれませんし遅ければ十年以上かかるでしょう」
「そうか、それほどに大きなことを成そうとしているわけか」
父は蓄えたひげをしごきながら感慨深そうに唸った。
「ああ、それとだ」
そして思い出したように部屋の中に何かを探しにいってすぐに戻ってきた。
「これをおまえに」
そう言って差し出されたのは俺が昨日使っていたレイピアだった。
「魔法を使いたがらないおまえにはもしかしたら必要になるかもしれないと思ってな、古ぼけた見た目をしているが我が家に古くから伝わる剣で、伝聞によると初代当主がこれで龍を屠ったと言われている。曰く付きの一振りだ」
へえ、結構すごい剣だったのか、まあ薄々気づいてたけども。
俺は礼を言って受け取ろうとしたが、中々父がその手を離さない。こんな時になんの冗談だ?と思って父の顔を見たら、いつのまにか普段よりも数段険しい面持ちをしていた。
「この剣を受け取るにあたって二つ約束をしてほしい。
一つは必ずこの剣を返しに帰ってくること。この剣は我が家の家宝、なくすことは許されない。そしておまえは私たち夫婦の宝だ、親不孝な別れは決して許さない。
そしてもう一つ…… いや、それを言う前に、私が親としてしてやれる最後の餞別だ、しかと受けとれ」
冷たい声音でそんなことを言うと、予想にしていない大振りの平手打ちが俺の頬を強く叩いた。
そりゃろくに格闘スキルも持ってなさそうな〈魔導師〉の平手打ちだ、7000越えの耐久力を持つ俺には蚊ほどの威力もない。
むしろ殴った方の手が痛んでいそうなものだが、父はなに食わぬ顔で次のように続けた。
「昨日憲兵から話を聞いたが、どうやらおまえは賊の一人をこの剣で殺めたそうだな。
あのときは状況が状況であったしあまり強くは言えないが、それでも、私たちはお前が人を殺めたという事実に未だ心を痛めている。これから先、多くの困難、戦いに身を落とすことになっても、人の道だけは絶対に踏み外すな、いいな?
わかったら、おまえも私を殴りなさい、10歳を迎えたばかりの息子に人を殺めさせざるを得ない状況を作った私にもその責任がある、おまえ自身の手で罰を与えるのだ」
父は普段から真面目な性格をしているとは思っていたが、まさかここまでとは。
〈魔導師〉になれなくて落ち込んでいた俺を励ましてくれていたときよりも、決闘で俺の気持ちを受け取ってくれたときよりも、今が一番、父が大きく見えた。
だから俺は膝をついて頬を差し出してきた父のその想いを無駄にしないために、腰を入れた渾身の平手打ちをかましてやった。
爽やかな朝の空に軽快な音が響き渡る。
「ふふ……やはりカルラは良いビンタを持っている……」
母はその光景をずっと横で見ていたが何も言いはしなかった。それが親として今やるべき手向けだと、母自身も考えているのだろう。
「お父様、私はもうこれ以上自分の父の頬を叩きたくはありません。約束は必ず守ってみせます」
よく考えれば俺は嘘をついたことになる。これから人を殺すための旅に出るというのに、そんな約束を守れるはずもない。
それに、口にはしないが俺は昨日見張りを殺したことに後悔はしていない。もちろんなんの考えもなく勢いだけで殺してしまったなんてこともない。
あの行為は、俺にとって必要なことだったんだ。
しかしまぁ、父の想いは確かに受け取ったさ。
だから俺は心の内で誓った、俺が今後人を殺すのは憎き勇者達に復讐を果すときだけ。魔物だって極力倒さない、立ちはだかるというのなら容赦はしないが、レベル上げなんてふざけた行為は死んでもしない。
「それじゃあお父様、お母様、私は行きます。いつか帰るその日まで、どうか私の無事を祈っていてください」
別れの挨拶を済ませて二人に背を向けた。目指すはバクハカの森、俺は必ず強くなってみせる。
気がつけばもう太陽が上りはじめていて、晴れた空が大きな冒険を予感させた。
◆ ◆ ◆
旅立つカルラが見えなくなるまで見送り、シャーディーとその妻シーシアはしばらくそこに立ち留まったままでいた。
そして何を思ったのか、不安そうにシャーディーがシーシアに話かけた。
「なあ、私は間違っていただろうか、あのとき殴るべきだったのか、今でも少し悩んでしまうよ」
「どうでしょうね、私にも分からないわ、でも、あなたは覚悟を決めたのでしょう?今度こそ本気でカルラにぶつかるって、あの子の本心を受け止めてみせるって」
「ははは、気づいていたのか、恥ずかしい限りだ」
「わかりますよ、何年一緒にいると思っているんですか?それに、奇しくも私も同じ事を考えていましたから」
「なんだおまえもか」
「ふふ、さ、部屋に戻りましょう、リインとエミリアの食事を用意しないと、あの子達、起きたら驚くでしょうね」
「ああ、そうだな。……ところでなんだが」
「はい?」
「人の頬ってあんなに固かったかな?」
涼しい顔をしているのに対し、カルラをぶったシャーディーの右手は赤く腫れていた。彼は空気を台無しにしないために敢えて何も言わなかったが、実のところ手の痛みをずっと我慢していたのだ。
「何を言っているの?」
「さすが私の息子だ」
「意味がわかりません」
とうとう可笑しくなったのかと、蔑んだ目で夫を見つめる妻。二人の愉快なやり取りは別れの寂しさを感じさせなかった。
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