魚くん
きりん後
魚くん
思えば、私は一生のほとんどを跳ねて過ごした。
このような回想となるのは当然である。私がこの世に魚として生を受けてから、つまり人間の母親の羊水から陸に打ち上げられて産婦人科中を静まり返らせてから今日までの40年の「人」生のほとんどのシーンにおいて跳ねているのだから、自ずとその事実を濃く認識せざるを得ない。
私は肉体の構造上、体を自在に縦向きにしたり横向きにしたりすることができない。私の体は魚の中でも縦長のタイプ(といっても陸で人間として扱われたこの生涯においては横長と言うべきだろう)なので、常に片面が床にへばりついている状態なのである。しかも始末の悪いことに、ヒラメやカレイのように目が側面についていない為、常に床を舐めるような低い視野が一方向のみに続いている。であるから私は常に跳ね続けてようやく体を転回しなければ周囲の状況が分からないのである。
ハンディキャップはそれだけではない。私の口からは人の言葉が出て来ない。唇がぱくぱくと動くだけであるし、誰かの読唇術に頼ろうとしても人と同じように滑らかな動き方はせず、ただ上下に開いて閉じてを繰り返すだけなので、読み取ってもらえないのである。
私がコミュニケーションを取る唯一の手段は、体を床に打ち付けることによって発するモールス信号である。近しい人間には全員モールス信号を読み取る努力をしてもらわねばならないが、他に方法がないので仕方がない。
「言動」という言葉があるが、私は言う事も動く事も跳ねることによって成すこととなった。即ち今日まで跳ね続けて人間社会を生き抜いて来たのである。
アプリオリな災難を挙げれば切りがないので、いつからか私はそういったことを数えるのを止めた。このヘレンケラーという人物だって三重苦でありながら偉人として名を残している。魚だっていっぱしの人間としてやって行ける筈だ。と、そう考えを切り替えた小学三年生のあの読書経験から、私の「人」生は始まったのである。
そして私はこれまで数々の困難に打ち勝って来た。そしてそれらの成功は、全て頭に「魚初の」と冠せられた。以下に私の経歴を載せておくこととする。
12歳 魚で初めて私立の中学校に入学した。
14歳 魚で初めて模試(現代文)で全国10位以内となった。
15歳 魚で初めて私立の高校に特待生として入学した。
17歳 魚で初めてバスケットボール部のレギュラーとなった。
18歳 魚で初めてマネージャーと交際した。
18歳 バスケットボール部が、魚をキャプテンとしてからは初となる県大会優勝を果たした。
18歳 魚で初めて早稲田大学に入学した。
20歳 魚で初めてミス青山大学と交際した。
23歳 魚で初めてSONYの営業マンとなった。
24歳 魚で初めて・・・
鱗の焼ける痛みで回想は中断せざるを得なかったが、とりあえず私はこれまでの40年間、我ながら立派な「人」生を送って来た。恥ずべきことはなかった筈だ。しかしこの状況はどうしたことだ。何故、清廉潔白なこの私がムニエルになどならねばならないのだ。
自分の肉の焼かれる匂いに胸やけがする。私を誘拐した「漁師」と書かれたマスクの人物は、フライパンの上で悶える私を冷ややかに見ていたが、ようやく口を開いた。
「誰しもが多かれ少なかれ罪を背負って生きているものだ」
変声機でも付けているのか、機械的な声のせいで相手が誰なのかは分からない。
「漁師」は続ける。
「そしてほとんどの罪は無視され、いずれ忘却される。いや忘却され続ける罪の集積こそ、人生であるともいえるだろう。だが場合によっては絶対に捌かねばならぬ人の道を外した鬼畜の所業というものもある」
私は必死に跳ねた。
「私がその対象だというのか」
「そうだ。例えば・・・」
モールス信号が伝わったので交渉の余地はあるという安堵感は、「漁師」が、「例えば・・・」と続けた、私の、捌かれなった前科の数々の暴露への嫌悪感と羞恥心にかき消された。
その暴露は私の経歴に沿って語られた。
12歳 魚で初めて裏口入学によって私立の中学校に入学した。
14歳 魚で初めてカンニングによって模試(現代文)で全国10位以内となった。
15歳 魚で初めて校長への恐喝によって私立の高校に特待生として入学した。
17歳 魚で初めて既存のメンバーに毒を盛ることでバスケットボール部のレギュラーとなった。
18歳 魚で初めて売春行為を暴露すると脅しマネージャーと交際した。
18歳 審判を買収したことによって、バスケットボール部が、魚をキャプテンとしてからは初となる県大会優勝を果たした。
18歳 魚で初めて校長への枕営業によって早稲田大学に入学した。
20歳 魚で初めてレイプで既成事実を作りミス青山大学と交際した。
23歳 魚で初めて社長の娘を人質にSONYの営業マンとなった。
24歳 魚で初めて・・・
俺はそこで耐えきれなくなり、油の中を跳ねまわった。
「私はどのような手段を取ったとしても、幸福に生きようとしただけだ。自分のアプリオリな障害を乗り越えて、既に幸福を持って生まれた人間よりも幸福になろうと思っただけだ。確かに人間の幸福を魚である私が奪い取ったが、それは競争社会において結果的にそうなっただけであり、仕方がなかったことだ」
私は雄弁を振るっていたが、「漁師」の笑い声に意表を突かれ止めざるを得なかった。
「お前の罪とはそこにある」
「漁師」はそう言った。
「どうゆうことだ?」
「自分のことを魚だと認識し、魚として振る舞い、その見事な魚っぷりで周囲の人間を騙し続けたのがお前の罪だ」
そう言うと、「漁師」はそのマスクを外した。そこには私の母親がいた。
「だが私だけは騙されない。お前が自分自身すら騙していたとしても。産みの親の目は誤魔化せない」
私はその眼差しによって、ようやく自分自身にかけた錯覚を解かざるを得なくなった。私は人間だったのだ。
ヘレンケラーの自伝を読んだ小学三年生の私は、彼女の障害を羨んだ。自分に何の障害もないのを恨んだ。高い壁を乗り越える悲劇のヒーローとして周囲に認められたかった。だから私は次の日から魚となった。全裸になって床に寝そべり、目を見開いて跳ね続けた。私は自分自身を魚と思い込み、やがて周囲の人間も私の迫真の演技に巻き込まれ私を魚だと信じた。入試、部活、恋愛、入社、全ての回想で私は裸で跳ねるただの人間だった。
体の熱が調理によるものなのか、それとも自ら発しているものなのかが分からなくなった。私は、巨大なフライパンから下りた。魚は死んだのだった。
魚くん きりん後 @zoumaekiringo
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