致命的解散

きりん後

致命的解散

 半世紀もの間連れ添った腹話術師と腹話術人形が解散した。


 円満解散であった。出番終わりの楽屋でピンでの活動を考えていると腹話術師が相方に打ち明けると、腹話術人形も、同じくピン志向であることを相方に告げたのであった。人形であるからそれを言葉にはしなかったが、長年連れ添った相方の想いは言葉を介さずに腹話術師に伝わった。


 腹話術人形の妻が彼を迎えに来たのをきっかけに、腹話術師も演芸場を出た。背中を向け合い別々の道へと歩き出した2人の目に涙はなかった。涙を流すにしては二人ともまだ余りにも道半ばであるという暗黙の了解が二人の間にあったのである。


 次の日、二人の姿はもう都内の演芸場にあった。


 そこまで多くのファンがいたわけではないが、解散が事後報告になったことを詫びるべき古くからの客は何人かいた。彼等は二人で舞台に立ち、軽く観客たちに挨拶した後、それぞれの旅立ちが急になったしまったことを詫び、そしてこれから行われる、二人それぞれのピンとしての初舞台を見届けてくれるように頼んだ。間を置かず、観客たちの惜しみない拍手がそれに応えた。


 暗転し出囃子が鳴ると、衣装に着替え終わった元相方の緊張を察して、腹話術人形が腹話術師に眼差しを送った。腹話術師は、


「安心しろ。お前の前で恥かくわけにはいかねぇからな」


 と言って、明転した舞台へと飛び出した。


 彼は、腹話術人形の格好をしていた。ピノキオのような服を着て、唇の両端から下に線を引き、頬を赤く丸く塗り、睫毛を太く書いていた。


 出て来た後、腹話術師は少しの間黙っていた。そうすると、観客は第一声を聞き逃すまいと身を乗り出す。その意図的な沈黙は長年の芸人としての技術であったが、腹話術師個人として、待望のピンとしての産声を大事にしたいという気持の表れでもあった。


 満を持して、腹話術師が、


「こんにちは!僕人形のポンちゃんだよ!」


 と、カクカクと動きながら話し始めた。彼の表情は喜びで満ち溢れていた。


 腹話術師として活動して来た半世紀もの間、彼が、彼自身として言葉を発している時、観客はその時間を、腹話術人形として言葉を発するまでの前振りとして認識していたので、特別な注目を集めることはなかった。それは腹話術を見る上での当然の楽しみ方といえたが、腹話術師にとっては相方の黒子としての役割しか演じることができない状況がずっと不満であった。そして今日遂に彼は、憧れた腹話術人形になれたのだった。腹話術人形と自分の立場を入れ替えてコンビのまま続けるという選択肢もあったが、黒子の鬱積した感情は、注目を独り占めする為のピンでの活動を選ばせた。


「今日は見に来てくれてどうもありがとう!」


 腹話術師は待望のスポットライトを浴び、感極まっていた。しかしふと冷静に観客席に意識を向けると、空気が重たくなっていることに気が付いた。


「ポンちゃん皆に会えてとっても嬉しいな!わーい!わーい!・・・」


 客電が消えているので表情は読み取れないが、観客との距離が遠くなっているのが腹話術師には分かった。そして腹話術師と観客の間にあるその空気の壁は、半世紀の芸人人生を振り返っても前例がない程厚かった。額に嫌な汗が浮かび始めていた。


 とりあえず場を和ませようと、


「いやぁ、一人で喋ってるから、伸び伸びと舞台を使っても良いんだけどね、えらいもんでね、体が相方分中央から逸れてるというね・・・」


 しかし反応は芳しくない。初めてのピンの舞台なのでお客の方が緊張していたら、今の自虐で少しは緩和される筈だ。理由はなんだ?と、腹話術師は混乱していた。


「まあ、自虐も挟みつつね・・・」


 そこで、思わず言葉が出なくなった。戻るべき本来の話題が、どこまで進んだのかを思い出せない。そしてこれではいけないという気持が、焦りをさらに大きくし、脳が正常に回転するのを妨げている。


 危機を助けたのは、やはり芸人としての経験だった。腹話術師はとっさの判断で、


「あの、お金を払っていただいている皆を喋らせんのも気が引けるんだけど、どこまで話したっけ?」


 仕方ないなぁ、という風に、どっと客席から笑いが来て、答えを誰からが投げかけてくれる筈だった。しかし投げた言葉は帰って来ない。


 この時、ようやく腹話術師は自分の大きな過ちに気が付いた。帰って来る筈だった言葉を聞き逃すまいと観客席に身を乗り出し観客の顔を伺った時、全員が漏れなく、


「これはなんだ?」


 という顔をしていたのである。


 腹話術師は、直ぐに消え入りそうな声で挨拶をして、舞台袖に向かった。彼は一刻も早く観客の前から姿を消したいと思っていた。そうだ、人形が喋るから評価されるのであって、人間が普通に喋ってもお客は喜んでくれないんだ。腹話術師には、舞台袖までの道のりが非常に長く思えた。その道程を、彼は随分と老いさらばえた様子で進んだ。


 舞台袖に戻ると、腹話術師と腹話術人形の間に会話はなく、視線を合わせることもしなかった。腹話術師がようやく腹話術人形に視線を向けた時、彼の目に映ったのは、妻によってスーツの衣装を来た腹話術人形が、妻の手によって舞台に上げられる姿だった。それを見た腹話術師は、腹話術人形が彼と全く同じ動機でピンになったことに気が付いた。すなわち相方に憧れ、相方の役回りを演じようとしているのである。


 腹話術人形は今から、腹話術師として舞台に上がろうというのである。腹話術師が普通に喋る様を披露してしまったのと同じで、腹話術人形がただ黙る様を披露しようというのである。


 舞台袖に戻って来た腹話術人形の妻と、腹話術師の間に一切会話はなかった。そして観客も彼等が大きな失敗をしていることに気が付き、またその失敗の内容を大方把握していた。演芸場にはいたたまれない空気が流れていた。その上、腹話術人形は舞台上の椅子に腰を下ろした切り言葉を発さないので、演芸場には誰の声もこだまさず、普段聞こえない照明の電気の流れるジーッという音がしているだけだった。

舞台が終わると、二人は自らエンディングの為に出て行くことなく、代わりに腹話術人形の妻が腹話術師にそう言ってくれと伝えられた通りの台詞を言った。


「今日はありがとうございました。今日の事は、誰にも言わないでください。SNS等でも、発信しないでください。ありがとうございました」


 腹話術人形の妻が観客に頭を下げている時、舞台袖で二人は早くも終わったピンでの芸人人生に大粒の涙を流した。そしてだからと言ってコンビに戻るにしては二人とも舞台に立つことへの拭えない恐怖感を覚えてしまったので、そのまま芸人を引退した。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

致命的解散 きりん後 @zoumaekiringo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ