例え、この身が・・・

きりん後

例え、この身が・・・

         

   【サラリーマンの回想録】


 朝起きると、頭がハンマーで殴られ続けているように痛い。昨日久しぶりに会った旧友と飲み過ぎたせいだ。


 後悔しても今日も仕事がある。支度をして家を出なければならない。


 永久に布団に居たい気持ちを抑え、老婆でも担いでいるかのように重い体を何とか起こしながら、普段寝る前に眼鏡を置く場所に手を伸ばしたが、指先には何も触れなかった。どうやら酔い過ぎて寝る前にいつもと違う場所に置いたらしい。視力の悪い人間にとって最悪の事態だ。探そうにも視界が水中で目を開けた時のようにぼやけている。


 手の感覚を頼りに家中を捜索したが、眼鏡は見つからなかった。仕方がない。このまま会社に行くことにしよう。


 ふと時間が気にかかり、時計は見えないのでテレビを点けると、聞き覚えのある音楽が流れて来た。記憶を探ると、何かのドラマのテーマソングだったような気がする。何のドラマだったか。朝放送しているドラマといえば、連続テレビ小説・・・もう8時か!


 スーツとバックを持つと私は家を飛び出した。走らなければ遅刻する。今から間に合う可能性がある最も早く最寄り駅に到着する電車に乗って、ギリギリ出社時間に間に合うかどうか、というところである。俺は膝の水が沸騰するほどの脚の回転速度で自宅の最寄り駅へと向かった。


 肺が爆発する程呼吸を苦しくしながらホームに辿り着くと、幸いなことにまだ電車は来ていなかった。周囲からの無数の視線を感じていたが、恥ずかしがっている暇はないので、その場で着替えを済ませようとする。しかし健闘空しく電車は直ぐにやって来たので、俺はスーツのパンツしか履けなかった。


 電車内でも鋭い視線に苛まれた。しかも満員であるのにも関わらず、明らかに自分の周りの乗客は引いている。酷く不格好な格好をしているのだと思う。余裕がなかったからこそ麻痺していた羞恥心が働き出し、顔から火が出るような気持になって来る。


 同時に身体的なコンディションの悪さも実感した。頭痛、体の重さ、そして先程からの膝の痛み、肺の苦しさ・・・。しかし体調を理由に休もうにも、その原因がプライベートの飲みと、それによる遅刻となれば許しを得ることは難しいだろう。


 私はせめて現状をプラスに考えることにした。とりあえずこの電車に乗り込めたなら遅刻は免れる。そして体調は悪いかも知れないが、奇しくも自分の周りにはスペースがあるので、回復する環境はできている。


 この通勤時間を使って何とかコンディションを整えるのだ。私はその言葉を何度も反芻した。


 そういった苦境においても前向きに生きる姿勢は、尊敬する先輩社員から学んだものだった。クライアントからの急な納期の変更、注文した下請け会社のトラブル、どのような状況下においても、先輩社員は「この状況を楽しめ」を合言葉に、前向きな姿勢でトラブルを乗り越えて来た。そしてそれを私はずっと近くで見て来た。


「この状況を楽しめ」

「この状況を楽しめ」

「この状況を楽しめ」


 繰り返し自分に言い聞かせていると、今は別の会社へ行ってしまった先輩が自分の耳元で言い聞かせてくれているような気がした。私は勇気付けられ、羞恥心や体調の悪さは変わってはいないが、それを真正面受け入れることができた。


 私はこの後の段取りを考えることにした。多少のスペースがあるとはいえ、この満員電車でワイシャツとジャケットに袖を通すことはできない。だから今の内にネクタイだけ閉めておき、電車から出ると同時に走りながらワイシャツとジャケットを着用する。会社の最寄り駅にはタクシーは中々止まらない為、それに期待はしない方が良いだろう。


 今できることは、ネクタイと、後はメールチェックくらいだろうか、視力が悪くなっているとはいえ、眼球ギリギリまで近付ければ文字は見える筈だ。会社に予備の眼鏡があるから働く上では問題ない。よし段取りはこのようなもので良いだろう。


 しかしそう考えている時、電車の窓から見える景色の動きがゆっくりとなっていることに私は気が付いた。駅が見え始めたのでその為かと思ったが、そこは私が乗った急行電車が本来止まる筈のない駅だったのだ。


「ご乗車のお客様にお知らせです。只今車内に体調を崩されたお客様がいる為、予定を変更しこの電車は次の宮崎台駅に停車いたします。お急ぎのお客様にはご迷惑をおかけし、大変申し訳ございません」


 そのアナウンスに私は雷が落ちるような衝撃を覚えた。周囲の乗客もざわついているのが分かる。


 電車を止めるだと?ふざけるな、体調が悪いのはお前だけではないというのに。


 私は全身の毛が逆立つのを感じた。頭から湯気が出て来るような怒りが沸き上がって来た。


 私は自分の遅刻を確信した。そしてその怒りは次の駅でここぞとばかりに乗り込んで来る乗客たちの浅ましさも予見させた。


 電車は止まった。そしてドアが開くと、不思議なことが起きた。


 目の前の乗客たちが左右に割れ、私からドアへと続く道ができたのである。そしてドアの外では、駅員たちが担架を構えていたのである。


 私は呆気に取られてしまった。確かに私も体調が悪いが、表に症状は出ていなかった筈だ。ではなぜ・・・?





     【駅員の回想録】


 その日、俺はいつものように宮崎台駅に出勤し、いつものように往来する電車を捌いていた。


 退屈だったが、その退屈が嵐の前の静けさだったことに気が付いたのは、8時過ぎのことだった。


 最初車掌から連絡があった時、俺は耳を疑った。しかし目の前に現れたその乗客を見て、今度は我が目を疑わなくてはならなくなった。


 その乗客は異様な風体をしていた。上がパジャマ、下がスーツという服装もそうだが、まず、黒焦げなのである。どうやら連絡の通り本当に電車内で落雷の被害に合ったようだ。髪の毛は逆立ち、頭から湯気が出ている。


 そして顔はメラメラと燃えており、また膝の水が沸騰したのか、関節がおかしな方向に曲がっており、肺が爆発したのか、肋骨が体の外側に突き出ている。


 息を呑んでいると、その乗客は少ししてフラフラとこちらに近付いて来た。傍らにはその上司と思われる男性がおり、「この状況を楽しめ」と独特な励まし方をしている。


 さらに近付くと大粒の涙が表面張力のせいかその乗客の目の周りを包んだまま固定されていることに気が付いた。またその乗客の背中には老婆がしがみついており、その乗客の頭をハンマーで殴り続けていた。


 俺は大急ぎでその乗客に駆け寄った。その時、急に横殴りの雨が駅に振り始めた。


 嵐がやって来たのだった。

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