第80話 三取屋の者たちの件について
「――――ただいま」
自宅の扉を開けて、三取屋誠子は玄関へと足を踏み入れた。
すると部屋の奥からパタパタとスリッパで床を鳴らす音が近づいてくる。
「やぁ、おかえり誠子さん」
「一輝さん。ええ、ただいま帰ったわ」
エプロンを掛けた男の名は――三取屋一輝。誠子の夫である。
元々は出版会社で働いていたが、このような世界情勢になってから会社は機能しなくなり、仕事を追われた結果、今はこうして専業主夫となって妻を支えている身である。
一輝は誠子から彼女が持っているバッグを受け取ると、
「何だかずいぶんと疲れてる様子だけど、大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ」
そう言いながら、誠子はリビングへと入って行く。
そしてそのまま大きな溜息を吐くと同時にソファへと腰を下ろす。
そこへ水の入ったグラスを持って一輝がやってきて、彼女にグラスを手渡す。
誠子は「ありがとう」と言って受け取ると、グイッと一気に喉の奥へと流した。
「でも最近、朝早くから夜遅くまでずっと仕事づくめだし、少しは休暇を取ったらどうだい?」
「そういうわけにはいかないのよ。日本の……国民のためにも私たちが頑張らないと」
「誠子さんはいつも頑張っていると思うよ。そのお蔭で、僕たちはこうして平和に暮らしていけるわけだし」
「……ここは【否ダンジョン化物件】だしね」
【否ダンジョン化物件】というのは、その名の通りダンジョン化が起こらない可能性の高い物件のこと。
現在誠子たちが住んでいるこのマンションは、一度ダンジョン化して攻略された建物なのである。
一度ダンジョン化した対象が、再びダンジョン化した例が無いことから、こうした安全物件は、政府の権力者たちや、その関係者たちが優先的に与えられているのだ。
もちろん国民の混乱を防ぐためにも、完全にオフレコではあるが。
誠子たちがここに住むことができるのも、誠子が政府での高い地位を得ているからに他ならない。
「……あの子は?」
「もう寝ているよ。だって深夜二時だしね」
「そう……だったわね。こう毎日だと、時間の感覚が狂っちゃってるわ」
「あはは。お腹減っただろ? すぐに作るから待ってて」
「いいわよ。お酒だけ頂戴」
「ダメ。ちゃんと食べなきゃお酒は禁止だからね。それに温めるだけだし手間もかからないから」
一輝は出来た夫である。少なくとも誠子は彼に感謝をしていた。
こうして自分が仕事に従事できるのは、間違いなく彼の存在あってこそだから。
彼が家庭を守ってくれているから、誠子は安心して外へ踏み出せるのだ。
不意に誠子の視線が、部屋の隅に置かれた仏壇に向けられた。
そのままフラリと立ち上がり、仏壇に飾られた写真立てを手に取る。
写真には一人の少年が満面の笑みで映っている。
「…………才輝」
その少年こそ、誠子がお腹を痛めて生んだ最初の子供。
女の子にもよく間違えられるほど可愛らしい顔立ちをした中性的な子だった。
しかし性格は意外に頑固で、一度決めたことは絶対に譲らなかった。
それでも家族――特に二つ下の妹には優しいお兄ちゃんで、妹も才輝のことを家族の誰よりも慕っていたのである。
漫画やアニメ、それにゲームが特に大好きな普通のどこにでもいる男の子だった。
けれどもう才輝はいない。ある事件を起こして死んでしまったのである。
……ポタ、ポタ。
写真に落ちる雫。それは誠子の目から流れ落ちていた。
「あら、いけないわ」
すぐにティッシュを取って写真を拭う。
「……誠子さん」
後ろからそっと誠子を抱きしめたのは一輝だった。
「っ…………あなた……こんなことなら、この子に好きなことを目一杯させてやれば良かった」
実は才輝、ゲームのプロを目指していたのだ。
しかし官僚として働く誠子としては、息子にはもっと地に足がついた将来を目指してほしくて、いつもいつも才輝と反発し合っていたのである。
そして仲直りすることもできずに、そのまま才輝は……。
「大丈夫。才輝は賢い子だった。きっと誠子さんの気持ちだって分かってたはずだよ」
「あなた……ひっぐ……っ」
それからしばらく誠子は、一輝の胸の中で嗚咽した。
そしてひとしきり涙を流したあと、テーブルに座り一輝が温めてくれた料理を口にする。
「明日からは私が帰ってくるまで待ってなくていいからね」
「ううん。それだけは君に何と言われようと譲れないよ。この時間が僕の楽しみでもあるんだからね」
やはりこの人は才輝の父だと嘆息する。頑固なのはきっとこの人譲りだ。
「それよりも何か大きな荷物を背負っているなら、少しだけでもいいから僕にも背負わせてほしい。まあ言えないこととかあると思うけどね、仕事上」
「…………そうね」
誠子にとって抱えているものというのは国事に関することなのだ。
重要機密といっても過言ではない。しかしながら海千山千の者たちが蠢く政界で、誠子は異例の若さで大臣になったため、その座を良しとしない者たちが多い。
誠子が信を置ける相手というのもまた少ない。だからこそ背負った重荷は、そう簡単に下ろすことができないのである。
それでも家族なら……と思ってしまう。
「実はね……お父さん……いえ、千樹総理が少し、ね」
「お義父様がどうかしたかい?」
誠子の実の父――千樹大吾は、この国のトップに君臨する内閣総理大臣なのである。
「最近私の話を聞いてくれなくてね。時間を取ってほしいって言っても忙しいって言うばかりで」
「そうか。総理大臣だからね。日本がこんなことになった以上、君よりも多忙なのかもしれないね」
「……それに最近、お父さんが変な人たちを自分の周りに集めているのよ」
「変な人たち? 政財界の人たちじゃないのかい?」
誠子は首を振って「違うわ」と否定する。
「SPでもないわ。見た目からしても、動きに関してもSPではないもの」
でも総理を守護している事実は変わらない。
ただ気になるのは、その守護者たちの中に、明らかに子供やSPに似つかわしくない者たちがいること。
「多分だけど……アレは――『持ち得る者』よ」
「え? それって……ステータスを持っている人たちってことかい?」
「ええ。恐らくは無許可でダンジョンに入った罰で捕らわれた人たちね」
「そんな人たちを囲っているというわけかい? 危険なんじゃない?」
「危険……確かにそうかもしれないけれど、手駒にできればあれほど優秀な駒はないと思うわ」
「手駒って……そんなまさか。国のトップにいる方だよ? 犯罪者を傍に置くなんて……」
「逆らえないように躾をすれば可能よ」
「っ……!」
「『持ち得る者』の持つ力は絶大なの。私は実際にこの目で見たことがある。自衛隊でも手を焼くほどのモンスターを、たった一人で殲滅したのよ」
つまり『持たざる者』と『持ち得る者』とは、それほどまでに格差があるということ。
「政界の中には、『持ち得る者』こそが次なる人類の進化系と提唱する人もいるわ」
「遥か昔、ネアンデルタール人を駆逐したホモ・サピエンスみたいに、かい?」
「そういうこと。もしかしたら現生人類にとって絶滅の時期がやってきたのかもしれないわね」
そうして新しい人種である『持ち得る者』が台頭する時代へと入っていく。
それまで長く支配を続けてきた現生人類の時代が終わろうとしていると誠子は言う。
「……君はお義父様がそうした新人類を迎える準備をしているとでも考えているのかい?」
「そうでないとあの人が、『持ち得る者』を多く抱え込んでいる説明がつかないもの」
「それは……しかし……」
「私の調べによるとね、お父さんがその『持ち得る者』たちを使って、日本全国にいる『持ち得る者』を集めているらしいの。世間では黒スーツによる『持ち得る者』狩りなんて言われてるらしいけれど」
しかし殺しはせずに、できるだけ捕縛して持ち帰ってきているとのこと。
「けれどお義父様は『持ち得る者』じゃないんだろ? 考え過ぎじゃないかい?」
「…………だといいのだけれど」
だからこそ誠子は、一刻も早く千樹総理と話をしたいのだ。
「大丈夫だよ。君の御父上なんだ。この日本のため、国民のために、僕たちのために最良の決断をしてくださるよ」
「あなた…………ええ、私もそう願っているわ」
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