プロローグ「母」
王都の貴族たちが住む区画のひとつにあるピアーズ子爵家の屋敷の一室に、男女ふたりが倒れていた。
「あ、ああ、あああああっ」
女は顔から血を流して蹲り、涙を流しながら恐怖に怯えている。
「う、う、うが……」
男に至ってはもっと酷かった。
四肢をあらぬ方向に歪ませて、床の上で苦痛に呻いている。
「…………」
そんなふたりを冷たく見下ろしているのは、褐色の肌を持つ美しい戦士だった。
露出が多い戦闘衣を身に纏い、腰にはサーベルを差している。
女性にしては背の高い彼女は、体の凹凸こそ少ないが、引き締まった戦士らしい肢体を持っていた。
絹糸のようなシルバーブロンドを顎のあたりで綺麗に切りそろえた彼女は、男女問わずその見目麗しさに目を奪われるだろう。
だが、彼女の表情は険しく怒りに満ちている。
「も、もう、やめて、くれ……昔のことは、謝る。金も、くれてやる、だから、頼む」
男――ロナン・ピアーズ子爵が涙ながらに訴えるが、女性の表情が変わることはなかった。
彼女の返答は、ロナンの腹部への蹴りだった。
「ぐえっ、げほっ、ごほっ……頼む、これ以上、痛めつけられたら、死んでしまう」
「おかしなことを言う。人間、この程度で死ぬことはない。私がかつて、貴様に痛めつけられたときも死ぬことはなかったではないか?」
「あのときの、ことは、謝罪する、僕が悪かった、だから、もうやめ――ぎゃぁっ」
「黙れ。謝罪など不要だ。これは、私の復讐であり、八つ当たりであり、正当な権利なのだからな」
女は繰り返し、ロナンの腹を、背を蹴り続けた。
子爵が無駄口を叩かなくなると、軽く息を切らした女が足を止める。
「ロナン・ピアーズ。貴様のような下衆がこの世に存在していることが私は許せない。砂漠の民として、いいや、ひとりの人間として、お前を八つ裂きにしてやりたい」
女の怒りの宿る声に、ロナンが震える。
「だが、そうしないのは、貴様に問うことがあるからだ」
「な、なにを……」
「私の娘はどこにいる?」
「…………知らない」
ロナンの返事が気に入らなかったのか、女の爪先が四肢を砕かれた子爵の鳩尾にめり込んだ。
ロナンは大きく咳き込み、嘔吐してしまう。
呻く子爵に、女はもう一度尋ねた。
「私を凌辱し、孕ませた挙句、解放する約束を反故にして奪った娘はどこにいる?」
「わか、らな、い」
「……そうか、貴様はよほど命がいらないのだな」
「ち、ちが、う、本当に、わからない、んだ」
「私を舐めているのか? 貴様が、妻と結託し、私の娘を裏組織に売り払ったのはわかっている。それで借金を返したこともな。貴様は私から娘を奪ったとき、子爵家の子として育てると言った。だから、私は娘の幸せを願い、血の涙を流して我慢してきた。だというのに!」
再び女の爪先が、ロナンを襲う。
「これ以上、私を怒らせることはお勧めしない。女にだらしない貴様が、金にだらしなく人の子供を平然と売り払うことのできる妻と一緒に死にたくないのなら、私の娘の居場所を言え」
ロナンから返事がない。
女の知る、彼の人となりからすると、意地を張っていわないわけではないのだろう。
本当に知らないのだと判断した。
しかし、それはそれで許せない。
「私の娘を売り払い、居場所も知らないとは……よほどその命がいらないのだな」
「――ひ」
怒りを宿す女の声に、ロナンが逃げようとするが、四肢が砕けているため床を這うことすらできない。
そんな滑稽な姿を見下ろしながら、女は腰からサーベルを抜いた。
「たすけ」
ロナンが助けを懇願するよりも早く、サーベルが一閃される。
が、サーベルはロナンを傷つけることはなかった。
「命を奪う価値もない。欲深い妻共々、浅ましく惨めに生きていけばいい」
戦士はロナンから背を向け、部屋から出ていく。
本音を言えば、命を奪ってやりたかった。
しかし、殺してしまえば、ウインザード王国で犯罪者となってしまう。
娘を探すのに追われるのは困るし、娘を見つけて一緒に生活する夢を持つ彼女には犯罪者になる選択肢はないのだ。
もちろん、ピアーズ子爵夫婦を十分すぎるほど痛めつけたので、彼ら次第では犯罪者になることもある。
だが、訴えられることはあるまいとわかっていた。
子供を裏組織に売り払ってしまったロナンは、自分を訴えればそのことまで明るみに出てしまう。
そうすればロナンも同じく犯罪者となってしまうからだ。
「まあいい。殺せこそしなかったが、私の気も少しは晴れた。あとは娘を探し出すだけだ。――待っていろ、必ず見つけ出すからな、ルナ」
女の名はエルザ・プロムステット。
南大陸出身の砂漠の民である。
そして、ルナ・ディクソンの実の母親だった。
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