突き放そうとして出した言葉じゃなかったから、僕は焦った。それでも追ってきてくれるだろうと期待しての言葉だった。

 また人任せがすぎるんだけど……。

 僕ではどうしようもないこのしがらみを、逢坂先生は全部取っ払ってくれて、最後まで連れていってくれると思いたかった。


「重々承知してる。そっちこそお忘れかもしれねえが、俺も教師だ。……けど、俺が聞きたいのはそんなことじゃねえ。本当に大事なのは自分の気持ちだろ。俺は教師だろうがなんだろうがお前に惚れてるし、お前も俺が嫌なわけじゃない。そこに少しでも望みがあるなら、かけるのが男ってもんだろ」


 僕のほしかった答えを、逢坂先生は言ってくれた。伝えたかったことに上乗せもしてくれた。

 これ以上はないはずなのに、この口は頑なに認めようともしない。

 ……もう自分は終わってるんだと思った。

 僕は俯く。

 すると、これまでの言葉を一蹴するように、逢坂先生は「わかった」と言った。


「なにもなかったことにしましょうかね」


 じゃあ。

 そう残して、コピー室を出て行こうとする。あまりにあっさりな引き際に僕は面食らっていた。

 けれど、足だけはとっさに動いた。

 逢坂先生の行く手を阻もうとドアを背にして立つ。腕を横に突っ張り、僕は目だけを上げた。


「んー?」


 逢坂先生はすぐさま表情を緩め、ご満悦げににやにやした。


「それじゃあ出れないんですけどねえ。渡辺先生」

「出ていかないでください」


 僕が背にしたドアへ先生は手をつき、また無遠慮に顔を近づけてくる。


「いまのも効いた……」

「でも、学校でキスとか、抱きつくのとかもやめてください」

「とかなんとか言って、やられたらやられたで嬉しいくせに。つーかね。この状況でやめてってのはフリにしかなんねえから」


 悔しいけど、嬉しく思えるのはきっと否定できない。フリと言われると……そういう期待がないこともないのかもしれない。

 そう思って口を閉じると、僕の前に手のひらが出てきた。


「なんですか?」

「肝心な言葉を聞いてねえなあと思って」

「はい?」

「おま。これだから天然ちゃんは。いいか。俺はな、一世一代の大告白をしたわけだろ、いま。だからほれ」


 もっと手のひらを差し出された。

 なんのことかようやくわかって、僕は視線を外した。声を細くして言う。


「僕も……好き、です」

「よしよし。ついでにもう一声」


 にやにやが深まる。


「もう一声……ですか?」

「じゃねえと、やっぱここでキスかな」

「はいはい。好きですよ、好きです。だ、い、す、き、で、す。初めてお会いしたときから、ほんとは気になってましたっ」

「やべー。やっぱいいわ、お前。この、落ちそうで落ちないんだけど、最後はなんだかんだ可愛いことまでいっちゃうところ。たまんないね」


 僕はちゃんと言ったのに、先生はキスしようとしてくるから、慌てて後ろに回った。


「せっかくの雰囲気なのに、そりゃあねえだろ」

「いまのどこに、そんな雰囲気なんかあるんですか」

「ふーん。なるほど。先生はムード重視ですか。まさか、ベッド以外はだめです、とか言わねえよな」

「そ、それは……。ていうか、なんの話ですか!」


 そうしてしばらく押し問答をしていたら、ドアの向こうから声が飛んできた。


「だれかいるのかね」


 教頭先生だった。

 僕らのいるコピー室へ投げられたというより、職員室全体に響かせるような声だった。

 ちらっと見上げると、逢坂先生がものすごくびっくりしていた。見たことないくらい目をひん剥いている。

 僕はそれがおかしくて吹き出してしまった。

 そんな僕を見下ろして、逢坂先生が人差し指を口に当て、「静かにしろ」と目を三角にした。


「だれかいるのかね」


 声がさっきよりも近くなった。厳しさも増している。

 それでようやく笑っている場合じゃないと僕は気づいた。

 声と肩をひそめる。


「どうしましょう」

「俺が先に出るから。少ししたら──」


 出ろ。と、逢坂先生は親指で言った。

 ドアを最小限開けて、逢坂先生が先に出る。その隙間から、教頭先生のちょっと尖った声がした。

 静かになったころを見計らってそっとコピー室から出て、急いで音楽室へと戻った。

 とうに練習は再開されていた。僕はぺこぺこ頭を下げながら、休憩の前までいたところへ、なにもありませんでしたよという顔で収まった。

 でもこの心中は盆と正月とクリスマスと、もう一回お盆がやってきたようなてんてこまいだ。またどきどきいい始めた胸を押さえる。

 僕は本当に逢坂先生の……。

 改めてその現実を噛みしめると、後ろへ倒れそうになった。

 はっとなる。

 学校にいるあいだは色ボケに走らないように絶対に気をつけないといけない。ただでさえドジなのが救いようのないドジになってしまう。

 それにしても……と、さっきの逢坂先生の顔を思い出す。あの驚きようったら、ない。あんな漫画みたいにびっくりする人を僕は初めて見た。

 一人でくすくすしていたら、目の前で楽器を吹いている子たちがこっちをちらちら見上げていた。

 だめだ、だめだと、粘土を扱うようにして自分の頬を持ち上げる。

 そうこうしているうちにきょうの練習も終わり、僕も子どもたちに混じって後片づけを始める。

 そこへ、首を傾げながら暮林先生がやってきた。


「渡辺くん。大丈夫なのかい」

「はい?」

「いやね、コピーを取りに行かせたきみがなかなか帰ってこないから、あのあと職員室へ様子を見に行ったんだよ。そうしたら、逢坂くんがいてね」


 僕の口から、あっと声が出た。

 ……すっかり忘れていたけど、そんなこともあったんだ。


「す、すみません」

「きみは具合悪くなって、帰ったって……」

「帰っ……ては、なかったですね。はい」


 僕は、また何度も頭を下げた。

 暮林先生は、あまり無理しないようにと言葉をかけてくれて、後片づけまで手伝ってくれた。

 ただただ申し訳なくて、僕はもう一度、学校では絶対に教師でいるんだと自分を叱咤した。




おわり


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