五
なにをされるのか。僕は避けるのではなく、思わず身構える態勢を作っていた。
あの口がまたつり上がる。
「気になる?」
「べ、べべべつに。ぜんぜんっ。これっぽっちも!」
僕は叫ぶように言ったあと、遠ざかる逢坂先生の顔をつい目で追っていた。
はっとなる。目が合うと、またなにかを発しようとする動きがあったから、ふいと顔を背けた。
言われる前にこっちがなにか言わなきゃ。じゃないと、逢坂先生の醸し出すおかしな空気に呑み込まれる。
僕はやみくもに口を動かした。
「僕って、大学もずっと実家暮らしだったじゃないですか。家のシャンプーとかって、やっぱり母親の好みのものとかになりません? わざわざ自分で買うのも面倒くさいし、置く場所もないし。なにげに女もののほうが合ってたりしますし」
息継ぎの合間に、激しすぎるこの動悸はアルコールのせいだと胸を叩いて言い聞かせた。
「うちって妹もいるじゃないですか。あれですよね、女の兄弟って、母親と普段つまらないことで口ゲンカばっかしてるのに、急にタッグ組み始めて、やたら最強になったりしません?」
かわいいんですけどね、ときどき頭に来ますよ。要領がいいというか、なんというか。部屋は汚いくせに身なりだけはばっちりキメていく。おねだりしときながら、見えないところでは舌を出して、うまいことやるんですよ。ほんと妹というやつは……うんぬん。
途中まではほぼ無意識で喋っていた。
我に返り、うちの妹についてなんでこんなに熱く語っているんだと自分で自分がわからなくなった。
自滅した気分にもなってビールを呷る。
「女の兄弟っつっても、うちは姉貴だし。年離れてるし」
缶をテーブルに置いたところで、後ろから声がした。
「あああっ」
わずかとはいえ、先生の存在を見失っていて、僕は仰々しく驚いてしまった。
「んだよ」
笑いを含みつつも呆れているような声音。
自分は無意識でいたあいだも、後ろから冷静に見られていたかと思うと、急に恥ずかしくなった。
……というか、逢坂先生との飲みの時間は、こんなにも大変なものだっただろうか。一人であたふたしている。
僕は肩で息をしながら、先生がさっき広げてくれた柿ピーに手を伸ばした。後ろからも手がやってくる。
あっと思った。
ぶつかる寸前で、僕はさっと腕を引いた。
「……」
逢坂先生の手が、なにかを思案するように止まっている。
きっと、柿の種にしようか、ピーナッツにするかで迷っているんだ。
そのうち、いくつか摘んで、先生の手は引っ込んでいった。
僕的には、ピーナッツ半身に対して柿の種四つが黄金比率だ。そう考えながら取っていたとき、不意にその質問はやってきた。
「ところで、お前って彼女いんの?」
「だから、いませんよ」
「あ、そう。まあ、だろうね」
「……」
僕は、あんぐりと口を開けたまま、頭の中で、いまのやりとりを反芻した。だけど、訊かれた中身より、逢坂先生の最後の言葉に引っかかった。
閉じた口を尖らす。
「だろうねって、ひどくないですか」
ソファーにふんぞり返っている先生を睨めつけるように見上げて、柿ピーを口に放り込んだ。
「妹に手を焼いてるようじゃ、そうだろうなって」
「逢坂先生はどうなんですか」
「んー?」
「お付き合いされてる方は……ああっ」
とうとう口に出して訊いてしまった。とっさに口元を押さえて訂正に入ったけど、手遅れだった。
一瞬、しんとしたのち、なぜか逢坂先生が大笑いした。
「なんで笑うんですか!」
「おま、ほんとはそれが訊きたかったんだろ。さっきから」
「え」
「いませんよ、渡辺先生。どうぞご安心ください」
と、らしからぬ丁寧口調で言ったあと、逢坂先生は恭しく頭を下げた。
しっとりキャラメルな髪がはらりと垂れる。それを掻き上げ、先生はやけに真剣なまなざしを送ってきた。
僕はその真っ直ぐさに耐え切れず、そっと視線を外した。
「つーかさ。いたら、せっかくの金曜の夜に、お前とこうして飲んでるかよ」
逢坂先生は、いまのいままで吸ってなかった煙草を手にして腰を上げた。
換気扇が回り出す。
その音を耳にしながら僕はまたテレビに目を向けた。ほっと肩の力を抜く。
きょうはなにかがおかしい。いつも以上に逢坂先生のピッチについていけない。というか、口の回転に乗りきれない。
僕は残りのビールを飲み干し、おつまみにも手を伸ばす。そのとき、また面白そうなCMが流れた。
その次に始まったテレビ番組はいつも観ているやつだった。
もうそんな時間か。部屋の壁時計を見上げれば、たしかに十一時をさしていた。
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